第6話 逃亡する偶像と紫煙の心理学
1999年の東京の空は、厚い灰色の雲に覆われ、いまにも泣き出しそうな湿り気を帯びていた。
球技大会での躍動や、その後に続いた城戸隼人との騒がしいラーメン会食から数日が経った放課後。俺は、都内にあるテレビ局、通称「大手のキー局」がひしめくエリアの路地を一人で歩いていた。
この界隈は表通りこそ華やかな巨大広告や最新の高級車、そして足早に行き交う業界関係者たちで彩られているが、一本裏に入れば、無機質な雑居ビルがひしめき合い、大型の室外機から吐き出される熱風が都会の湿った空気と混ざり合って澱んでいる。
舞に指示しておいた、先日買収した芸能プロダクションに関連する内部資料を受け取るまでの時間調整。俺はコンクリートの壁に挟まれた薄暗い路地を進みながら、1999年という「マスメディアの絶対王政」が終焉を迎えつつある時代の空気を肌で感じていた。インターネットが普及する前夜、テレビの影響力は依然として絶大であり、そこに群がる利権と欲望のスケールも現代とは比較にならないほど巨大だ。
路地の奥、大通りへの抜け道になっている細い通路に差し掛かった時だった。
薄暗い建物の隙間、自動販売機と山積みにされた廃ダンボールの陰に、うずくまるようにして息を潜めている小さな人影があった。
「……はぁ、はぁっ……」
過呼吸の一歩手前のような、焦燥感に駆られた荒い息遣いが聞こえる。
深めに被ったキャップに、顔の半分を覆うような大きなサングラス。華奢な体型を隠すオーバーサイズのパーカー。どう見ても一般人の佇まいではない。パパラッチか、あるいは関係者から逃げ隠れているのだろう。俺には関わりのないことだ。
そう思い、足音を殺して通り過ぎようとした瞬間、彼女が身じろぎをしてバランスを崩し、足元にあった空き缶を蹴飛ばしてしまった。
カラン、と乾いた金属音が路地に響く。
彼女はビクッと肩を震わせ、咄嗟に顔を上げた。
その拍子に、大きすぎるサングラスがずり落ち、隠されていた素顔が露わになる。ブラウン管越しに見るよりも遥かに小顔で、職人が精巧に作り上げたドールのように整った目鼻立ち。猫のように大きな瞳には、強い怒りと悔しさが火花を散らしている。
……くるみさん、か。
先日、俺が負債を肩代わりして実質的なオーナーとなった事務所の稼ぎ頭。姉の親友でもある彼女が、なぜこんな裏路地で怯えた子猫のように息を潜めているのか。
「……こんな路地裏で、隠れんぼですか」
「え……?」
俺が声をかけると、彼女の動きが完全に凍りついた。
至近距離で俺の顔を凝視し、数秒後、その瞳に驚愕の色が広がる。
「……あんた、玲央……?」
「ええ。今日は確か、この近くのスタジオで新曲の振り付けとフォーメーションの打ち合わせだったはずでは」
俺が淡々と問いかけると、くるみさんはバツが悪そうに視線を逸らした。そして、悔しさを押し殺すように強く唇を噛む。
「……逃げ出してきたの」
「打ち合わせの最中に、ですか」
「だって……! 急にグループのフォーメーションを変えるって言い出したんだもん。あたしだけをセンターに据えて、露骨な特別扱い。他の子たちは完全にバックダンサー扱いの配置よ。……実力で勝ち取ったポジションなら、あたしだって文句は言わないわ。でも、あれは新オーナーのあんたに対する大人たちの『忖度』でしょ!? そんな不純な理由でセンターに座らされるなんて、気持ち悪くてやってられないわよ!」
彼女は吐き捨てるように叫んだ。
なるほど。俺が裏で資金を注入し、事務所の体制を刷新させた副作用というわけか。現場のスタッフたちは、得体の知れない新オーナーの顔色を過剰に窺い、個人的な繋がりがある彼女を持ち上げることで、自分たちの保身を図ろうとしたのだろう。
プロとしての自負が強く、誰よりも実力でのし上がりたいと願う彼女にとって、それは「成功の証」ではなく、自身の努力を否定される「侮辱」以外の何物でもなかったのだ。
「……現場の統制が空回りしているようですね。配慮が足りませんでした」
「他人事みたいに言わないでよ! 元はと言えばあんたが勝手に事務所を買い取ったりするからでしょ!?」
「ええ、責任は感じています。ですが、くるみさん。現場を飛び出して逃げ回るのが、あなたの言う『実力者』の振る舞いですか?」
「うるさい! 15歳のガキに何が分かるのよ!」
彼女は立ち上がり、俺の胸をドンと突いた。
だが、その拳には全く力が入っていなかった。18歳の少女がたった一人で背負うには、芸能界という巨大な資本と欲が渦巻く世界はあまりに過酷だ。俺は彼女の細い手首を、優しく、しかし確実に握り留めた。
「……少し、頭を冷やしましょう。このまま路地にいては、すぐにパパラッチの餌食になりますよ。あなたの価値をそんな下らないゴシップで消費させるわけにはいかない」
「……離してよ」
「離しません。オーナーとして、自分の投資対象をみすみす傷つけるわけにはいきませんからね」
俺はブレザーのポケットから携帯電話を取り出し、数分前に近辺まで移動させていた送迎車を路地の入り口に呼び寄せた。俺の静かな、しかし有無を言わせぬ強引さに毒気を抜かれたのか、くるみさんは小さく肩を落として大人しく従った。
深いスモークガラスと防音材に守られた、ハイヤーの車内。
外部の喧騒が遮断された空間で冷たいミネラルウォーターを渡し、彼女の呼吸が落ち着いたのを見計らって俺は口を開いた。
「現場のスタッフには、俺から厳重に釘を刺しておきます。過剰な忖度は一切不要だと。くるみさんを含め、タレントの実力とパフォーマンスのみを正当に評価しろ、とな」
「……そんなことしたら、あんたの機嫌を損ねたって勘違いして、またあたしが干されるかもしれないじゃん。大人はみんな、そうやって裏で取引してるんでしょ?」
「まさか。くるみさんの実力は、俺という投資家が誰よりも高く評価しています。……先日の深夜の歌番組も見ましたよ。カメラが回っていない瞬間の立ち居振る舞い、共演者やスタッフへの細やかな気配り。くるみさんは、誰よりも『プロ』としての資質を備えている」
それはお世辞でも慰めでもない。前世の記憶を含めても、彼女ほどストイックに「アイドル」という虚像を実像として全うしようとしている人間は稀だ。くるみさんはキャップを目深に被り直し、膝の上で手を組み合わせて小さく呟いた。
「……買いかぶりすぎよ。あたしは、ただの負けず嫌いなだけだもん」
「その負けず嫌いこそが、最大の武器ですよ。くるみさん、急激な環境の変化に戸惑うのは無理もない。ですが、俺があなたの事務所に投資したのは、『西園寺の威光』でゴリ押ししたいからではありません。あなた自身が、泥の中でも自力で美しく咲ける花だと確信したからです。……自信を持ってください。誰かの情けでそこに立っているわけではないはずだ」
車内に心地よい沈黙が流れた。
やがて、くるみさんはゆっくりと顔を上げ、サングラスを外した。その瞳は微かに潤んでいたが、先ほどまでの荒んだ色は消えていた。
「……あんたってさ。ホントに生意気。年下のくせに、なんでそんなに偉そうなのよ。もっと子供らしく、あたしのサインでもねだりなさいよ」
「オーナーですから。利益を最大化するために、商品には常に最高の状態でいてもらわなければ困ります」
「ふふっ……何それ。サイテーの励まし方」
彼女は、ようやく年相応の可愛らしい笑みを浮かべた。その笑顔は、カメラの前で作る計算された表情よりもずっと瑞々しく、人の視線を惹きつける天性の力があった。
「……送ってくれてありがと。スタジオに戻るわ。これ以上逃げてたら、後輩たちに示しがつかないしね」
「ええ。くるみさんなら、実力で全員を黙らせることができますよ」
テレビ局の裏口近くで車を止めると、彼女はドアを開ける直前に一度だけ振り返った。
「ねえ、玲央。……今度、またご飯作ってよ。あの中華、すっごく美味しかったけど……次はもっと庶民的なメニューで、あんたの腕を試してあげる。オムライスとか、ハンバーグとかね!」
「構いませんよ。ただし、くるみさんの次回のチャート順位に応じた『出世払い』にしておきます」
「バカ。……ありがとね」
彼女は軽やかに車を降り、一度だけ小さく手を振ると、再び戦場へと戻っていった。その背中には、もう迷いなどなかった。
くるみさんを見送った後、俺は予定通り指定されたカフェへと向かった。
青山の一角、地図にも載っていないような隠れ家的なカフェバー。時刻は夕刻。オレンジ色の柔らかな間接照明が、ヴィンテージの家具を落ち着いた雰囲気に染めている。
一番奥のボックス席。そこに、二人の女性の姿があった。
一人は、俺の秘書である如月舞。
タイトなスーツ姿で背筋をピンと伸ばし、周囲の雑音を一切拾わないよう視線をテーブルの一点に固定している。その硬質な美しさは、薄暗い店内でもひときわ目を引いた。
そして、その向かいに座っている女性。
舞とは対照的な、アンニュイで奔放な空気を漂わせた美女だった。
シャギーの入ったショートボブに、切れ長の瞳。口元には艶っぽいホクロが一つ。深くソファーに沈み込み、気だるげに脚を組んでいる。ルーズなシルエットのニットから覗く鎖骨と、細長い指に挟まれた煙草の先端が、薄暗がりの中で赤く明滅していた。
「お待たせしました」
俺が席に近づくと、舞が即座に立ち上がって深々と一礼した。
「お疲れ様です、オーナー。……急な呼び出しにご対応いただき、感謝いたします」
「構わない。それで、こちらの方は?」
俺は視線を向かいの女性へと向けた。彼女は組んでいた脚をゆっくりと組み替え、獲物を品定めするような、どこか挑戦的な視線で俺を見上げた。
「へえ……。これが噂の『オーナー』くん?」
ハスキーで、少し毒を含んだ挑発的な声。彼女は煙草の煙をふぅーっと天井に向けて吐き出し、赤い唇を歪めて口角を上げた。
「ふうん。顔は一級品だけど……中身はどうかしらね」
「沙耶、失礼ですよ。わきまえなさい」
舞が鋭い声で窘めるが、彼女――沙耶と呼ばれた女性は全く意に介さない。
「初めまして。私は柚木沙耶。舞の高校時代からの腐れ縁で、今はただの暇な女子大生よ。……ねえ、単刀直入に聞かせてもらうわよ」
沙耶さんは身を乗り出し、俺の瞳の深淵を覗き込むように顔を近づけた。その瞳には、心理学を専攻しているという舞の事前情報通りの、鋭利な分析的知性が宿っている。
「君、舞のことどう思ってるの? ……便利な資産管理の道具? それとも、自分の手足となって動く、従順で高性能なペット?」
あからさまな試しの問い。舞が息を呑み、表情を強張らせるのが気配で分かった。
俺は微動だにせず、彼女の瞳を真っ向から見返した。
「舞は俺の唯一無二のパートナーであり、西園寺玲央という存在の足元を支える根幹です。道具などと思ったことは一度もありません。彼女がいなければ、俺という人間は社会的に存在すらしていないでしょう」
嘘偽りのない本心だ。15歳の俺がこの巨大な資本の海で溺れずに戦えるのは、舞という絶対的な味方がいるからに他ならない。
俺の言葉を聞き、沙耶さんは数秒間、俺の瞳の微かな揺らぎすら逃さぬように注視していた。やがて、彼女は「ほう」と感心したように息を吐くと、手元の灰皿に煙草を押し付けた。
「……合格。舞が盲目的に入れ込むのも、少しだけ理解できたわ」
「合格、ですか。それは光栄だ」
「ええ。目が一切泳がなかった。それに、15歳にしては随分と深い言葉を吐く。舞の『崇拝』も、単なるお嬢様の勘違いじゃないってことね」
沙耶さんは先ほどまでの攻撃的な笑みを崩し、改めて細い手を差し出してきた。
「ごめんね、意地悪なこと言って。私は舞の自称・保護者みたいなものだから。……よろしくね、オーナーさん」
「こちらこそ。初めまして、柚木さん」
俺はその手を握り返した。指先は少し冷たく、しかし芯の通った力強さがあった。
ふと、灰皿の中で揉み消された煙草に目が留まった。
火は点いていたはずだが、吸い口には口紅の跡すらなく、葉もほとんど燃え進んでいない。
「……柚木さん。一つ、忠告させていただいても?」
「ん? 何かしら」
「その煙草、ただの小道具ですよね。無理して紫煙を纏う必要はありませんよ。体にも、せっかくの繊細な味覚にも毒だ」
俺の指摘に、沙耶さんは一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして固まった。
そして次の瞬間、堪えきれないといった様子で可笑しそうに吹き出した。
「あっはは! ……参ったわね、これ。バレたの、あんたが初めてよ」
彼女は悪びれもせず、髪をかき上げた。
「そうよ、ただのハッタリ。子供扱いされないための武装。……やだなぁ、年下の男の子に手の内を完全に見透かされるなんて。屈辱的だけど、最高に面白いわ」
彼女の表情から刺々しい仮面が剥がれ落ち、年相応の親しみやすさと、知的好奇心に満ちた素顔が覗いた。
この人は、自分を演じているのだ。アンニュイな「大人の女」という鎧を纏うことで、自分の内側にある脆さや、あるいは純粋さを守っている。それは、「完璧な秘書」という役割を自らに課している舞のあり方と、根底で響き合っているように見えた。
「……西園寺玲央。君、本当に面白いわね。舞が夢中になる理由、120パーセント理解したわ」
沙耶さんは頬杖をつき、潤んだ上目遣いで俺を見た。
その瞳は、今度は隠しようのない明確な「興味」を持って俺という存在を捉えている。
精緻な顕微鏡の下に置かれた分析対象として、あるいは、初めて見る未知の現象として――背筋をゾクリとさせるような、奇妙に心地よい熱を帯びた視線だった。




