第5話 熱狂の球技大会と天使の引力
1999年4月14日、水曜日。
東京の空は、数日続いた春の気まぐれな雨を洗い流したかのように、どこまでも澄み渡っていた。
登校中のハイヤーの車内。俺は、揺れる車体の中でも指先を止めず、ノートパソコンの液晶画面を見つめていた。表示されているのは、NASDAQ市場の個別銘柄チャートと、リアルタイムで流れるロイターの経済ニュースだ。
昨夜のニューヨーク市場は依然として活況を呈していたが、俺が注目しているのは、ある1つの銘柄だった。
『Amazon.com』。
創業者のジェフ・ベゾスが「Get Big Fast」を掲げ、赤字を垂れ流しながらも急激な拡大を続けているネット書店だ。1999年現在の世間の評価は、極端に二分されている。「未来の流通革命」と持て囃す声もあれば、「利益の出ないビジネスモデルはいずれ破綻する」と冷ややかに見る投資家も多い。
だが、俺の記憶が正しければ、この企業が単なるネット上の本屋で終わることはない。世界中のあらゆる商品を飲み込み、さらにはクラウドコンピューティングという新たなインフラの覇者となる。
「……今はまだ、誰もが半信半疑の段階だ。だからこそ、妙味がある」
俺はキーボードを叩き、複数の証券口座に分散して買い注文を入れた。
短期的なボラティリティは激しいだろう。だが、20年という長期的なスパンで見れば、今の株価はタダ同然と言ってもいい。これは投資ではない。未来への確実な入場券だ。過去の苦い経験と、その後の成功、そして今世での蓄積が、この決断に一片の迷いも与えない。
「オーナー。……また随分と攻めた銘柄を選ばれましたね」
バックミラー越しに、凛とした声が響いた。
運転席でハンドルを握るのは、舞だ。
今朝の彼女は、チャコールグレーのタイトなパンツスーツを纏っている。身体のラインに吸い付くような上質な生地が、華奢ながらも引き締まったプロポーションを際立たせていた。信号待ちの合間、ふと指先で黒髪を耳にかける仕草には、洗練された大人の色香が漂っている。透き通るように白く滑らかな肌と、知性を感じさせる切れ長の瞳。その美しさは、すれ違う対向車のドライバーが思わず二度見してしまうほどだった。
「赤字続きの企業ですが、インフラへの投資額が桁違いです。彼らは目先の小銭ではなく、市場そのものを支配しようとしている」
「市場の支配……。オーナーがお好きそうな言葉ですね」
「人聞きが悪いな。俺はただ、勝つべくして勝つ馬に乗るだけだよ」
舞は口元に微かな笑みを浮かべ、再び前を向いた。彼女の運転は極めて滑らかだ。俺がパソコン作業に集中できるよう、荷重移動を最小限に抑え、急な挙動を一切行わない。その細やかな配慮と、俺の意図を先回りして汲み取る能力こそが、彼女を最強の秘書たらしめている所以だった。
「到着いたしました、玲央様」
「ありがとう。……帰りは遅くなるかもしれない。連絡する」
「承知いたしました。……行ってらっしゃいませ」
俺は短く頷き、桜花学園の校門をくぐった。
本日の桜花学園は、新入生歓迎の球技大会ということもあり、朝から独特の熱気に包まれていた。
1年生の種目はサッカー。グラウンドには若いエネルギーのぶつかり合う歓声と、乾いた砂埃が舞っている。
俺たち1年A組の初戦の相手は、体育会系の生徒が多く集まったC組だ。
「よっしゃ西園寺! 作戦通りいくぞ!」
円陣の中心で、拳を突き出して声を張り上げたのは隼人だ。
金髪にピアスの不良スタイルだが、ジャージに着替えた彼は、戦場に立つ戦士のように生き生きとしていた。無駄な脂肪を削ぎ落とし、瞬発力のために鍛え抜かれた筋肉質の身体は、ただ立っているだけで彼の類まれな運動神経を物語っていた。
「ああ。前線は任せたよ、城戸くん」
「だから『くん』付けはやめろって! ……へへっ、パスさえくれりゃあ、俺が全部ぶち抜いてやるよ!」
試合開始のホイッスルが鳴り響く。
俺のポジションはボランチ。全体の動きを見渡し、ゲームをコントロールする舵取り役だ。
C組はいきなり猛攻を仕掛けてきた。体格の良い男子生徒が強引なドリブルで中央を突破しようと突っ込んでくる。
俺は慌てず、相手の重心の移動を冷静に見極め、最小限の歩数でコースを塞いだ。無理にボールを奪いに行く必要はない。相手が焦ってタッチを大きくし、コントロールを乱した瞬間、スッと足を伸ばしてボールをかっさらった。
「うおっ!? 西園寺、うめぇ!」
クラスメイトの声援を背に受けながら、俺は即座にルックアップした。
前線では、隼人が爆発的な加速でディフェンスラインの裏へと抜け出そうとしていた。
速い。中学時代に理不尽な教師の体罰によって足を痛め、陸上への道を断たれたと聞いているが、その瞬発力は未だ一級品だ。俺は彼の足元ではなく、彼が走り込む先の、数メートル先のスペースへと正確なロングパスを送った。
――1ミリの狂いもない、完璧な配給だ。
美しい放物線を描いたボールは、隼人のトップスピードを殺すことなく、ピタリと彼の目の前に落ちた。隼人はそのままボールを収めると、一気に加速。キーパーとの1対1を冷静にかわし、ゴールネットを激しく揺らした。
「っしゃオラァ!! 見たか西園寺! 最高のパスだぜ!」
「ナイスゴールだ、城戸」
隼人が満面の笑みで駆け寄ってき、強引にハイタッチを求めてくる。
バチン! と手のひらが鳴り、乾いた音が周囲に響く。
俺にとって、こうした青臭い高揚感はどこか気恥ずかしくもあるが、決して悪いものではない。
その後も俺たちは中盤で制圧を続け、連携して得点を重ねた。結果、4対0という危なげないスコアで初戦を突破した。
試合後、グラウンドの隅で水分補給をしていると、近くの女子生徒たちの黄色い声が耳に入ってきた。
「ねえ、西園寺くんすごくない? クールに見えてスポーツ万能とか、完璧すぎて反則だよ」
「城戸くんも怖そうだけど、サッカーしてるときの顔は格好いいね。見直しちゃった」
どうやら俺たちの「学園内株価」も急上昇中のようだ。
だが、そんな平和な空気を切り裂くような、粘着質な視線を俺は感じ取っていた。
本部席のテントの下。
ジャージ姿の巨漢が、太い腕を組んでこちらをじっと睨みつけている。体育教師の鷹森だ。185cmを超える長身と鍛え抜かれた肉体。表向きは「熱血教師」を演じているが、その目は執拗に隼人を追っていた。
いや、見ているのは隼人の全身ではない。彼の、かつて傷ついたはずの「右足」だ。
獲物を狙う爬虫類のような、冷酷で執拗な目つき。
俺はタオルで汗を拭いながら、思考を巡らせた。
鷹森が生徒指導という名目で、特定の生徒に陰湿な体罰を加えているという噂は、舞を通じてすでに入手している。特に入学早々反抗的な態度を崩さない隼人に対しては、何らかの理由をつけて退学に追い込もうと画策している節がある。
隼人が輝けば輝くほど、鷹森の支配欲は刺激されるのだろう。
今はまだ静観する段階だが、奴が本気で牙を剥くというのなら、こちらも相応の準備を整える必要がある。俺は鷹森から視線を外し、次の試合に向けて活気付くクラスメイトたちの輪へと戻った。
昼休み。
午後の試合に備え、一度汗を流して着替えを済ませた俺は、本校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下の階段を降りていた。
自販機でスポーツドリンクを買い、喉を潤そうと考えたのだ。
前方を、2人の女子生徒が歩いていた。
1人は、セイラ先輩だ。エキゾチックで彫りの深い美貌。相変わらず、周囲を寄せ付けない冷ややかなオーラを纏い、背筋を伸ばして歩いている。
そしてもう1人は、結衣先輩だった。艶やかな黒髪のセミロングヘア。あどけなさと健康的な色気が同居した佇まいで、柔らかな陽だまりのような雰囲気を放っている。
その時だった。
結衣先輩が、何もない平坦な場所で足をもつれさせた。
彼女は「あっ」と短い声を上げ、たたらを踏んで後ろ向きにバランスを崩した。
「結衣!」
隣にいたセイラ先輩が咄嗟に手を伸ばすが、指先はわずかに空を切る。間に合わない。
このままでは階段から転落し、後頭部を強打する危険がある。
俺の身体は、思考よりも先に反応していた。階段の数段下にいた俺は、落ちてくる彼女の落下地点へと瞬時に移動し、両手を広げてその重みを受け止めた。
――ドサッ、という鈍い衝撃。
だが、俺は膝を深く曲げてその衝撃を逃し、彼女の身体をしっかりとホールドした。いわゆる「お姫様抱っこ」に近い、横抱きの形だ。
「……っ」
腕の中に、驚くほど柔らかな感触と確かな重みが満ちた。
ふわりと、甘いバニラのような少女特有の香りが鼻孔をくすぐる。
至近距離で視線が交差し、甘い香りと柔らかな感触に、一瞬だけ大人の理性が白く染まりかけた。
「……へ? あれ、痛くない……?」
結衣先輩は、腕の中でキョトンとした表情を浮かべ、俺の顔をじっと見上げた。
「……怪我はありませんか、先輩」
俺は努めて平静を装い、声を出した。彼女の重心を安定させ、ゆっくりと態勢を整える。こうした場面で取り乱さないのは、大人の最低限のマナーだ。
「あっ、ご、ごめんなさい! 重かったよね……っ。助けてくれて、ありがとう……!」
彼女は慌てて俺の腕から降りようと身じろぎし、その顔をパッと赤らめた。
「結衣! ……っ、貴方、離しなさい!」
そこへ、セイラ先輩が血相を変えて階段を駆け降りてきた。彼女は俺を不浄なものを見るかのように睨みつけ、結衣先輩を俺の腕から引き剥がそうとする。
俺は素直にその要求に従い、結衣先輩をゆっくりと床に立たせた。
「すみません。咄嗟のことで、失礼をいたしました」
「……触るなと言っているのよ、成金。不愉快だわ」
セイラ先輩の敵意は、初対面の時よりも鋭さを増しているようだ。
だが、助けられた当の本人は、ようやく状況を完全に理解したのか、照れくささと純粋な好意が入り混じった笑顔を見せた。
「すごい、王子様みたいにパッて受け止めてくれて……。本当にありがとう、西園寺くん」
彼女には、他人を疑うという概念が存在しないのだろうか。セイラ先輩が放つ刺すような冷気さえも、この春の日差しのような笑顔がすべて溶かしていくかのようだ。
結衣先輩は、俺の顔を覗き込むようにして首を傾げた。
「……あれ? 君、もしかして新入生代表の子? 1年生の西園寺くんだよね?」
「ええ、そうです。1年A組の西園寺玲央です。ご存じでしたか」
「やっぱり! 入学式の挨拶、すっごくかっこよかったから覚えてたんだぁ。近くで見ると、もっと素敵だね!」
そう言って、彼女は無邪気に俺の二の腕を指先でツンツンと突いた。
全く裏表のない、剥き出しの好意と称賛。
セイラ先輩が、堪えきれないといった様子でこめかみを押さえている。
「結衣、騙されないで。こいつはただの見栄っ張りな金持ちよ。……西園寺財閥の名前に群がる連中と同じよ」
「え~? でも、すっごくいい匂いしたし、筋肉もしっかりしてて、頼りになりそうだったもん。ね、セイラちゃんもそう思わない?」
結衣先輩はセイラ先輩の剣幕をさらりと受け流した。
この天然さ、ある意味では最強の防壁かもしれない。セイラ先輩はさらに深く、頭痛を堪えるように目を閉じた。
「……とにかく、助けていただいたことには感謝します。……行くわよ、結衣。これ以上、この男と関わってはダメ」
「あ、待ってよぉセイラちゃん! ……西園寺くん、またね! 今度絶対にお礼させてね~!」
結衣先輩は大きく手を振りながら、セイラ先輩の後を小走りで追っていった。
嵐が去ったかのような、しかし甘く柔らかい余韻を残す邂逅だった。
「……やれやれ」
俺は襟元を直し、溜息を吐いた。
氷の女王の隣に、あんなにも無防備な天使が控えているとは。桜花学園の人間関係は、俺が想定していたビジネスライクな構造よりも、ずっと複雑で、そして興味深いものになりそうだ。
球技大会がすべての全日程を終え、夕闇が学園を包み始めた放課後。
俺は1人、人気のない教室に残っていた。
クラスメイトたちは初戦突破の打ち上げに行こうと駅前で盛り上がっているが、俺には優先すべき業務がある。
俺は携帯電話を取り出し、舞に短縮ダイヤルで発信した。
「……オーナー。お疲れ様です。球技大会の結果は、すでに把握しております」
「ああ。例の件だが、調査のペースを上げてくれ」
「体育教師、鷹森恒一についてですね」
「そうだ。彼が生徒指導室という密室で行っている『指導』の実態と、過去の経歴についての詳細な裏付けが欲しい。……特に、生徒に対する暴力や精神的な脅迫の決定的証拠だ。どうやら奴は、城戸隼人をターゲットにして本格的に動き出すつもりのようだ」
今日の試合中、隼人の動きは素晴らしかった。だが、時折右足を庇うように気にする素振りを見せていたのを、俺は見逃さなかった。そして、鷹森のあの飢えたような視線。
何かが起きる前に、法的に奴を葬るための手札を揃えておく必要がある。
「承知いたしました。興信所と顧問弁護士を動かし、今週中には詳細なレポートを提出いたします。……彼を教育の場から合法的に、かつ完全に排除するための材料は、必ず揃えてみせます」
「頼む。……それと、今夜の夕食は外で済ませる。隼人に誘われてな」
「……左様ですか。未成年ですので、お酒は控え、不衛生な店には入らないようお気をつけくださいね」
「分かっているよ。ただのラーメン屋だ」
通話を終えると、教室のドアが勢いよくガラリと開いた。
ジャージ姿の隼人が、顔中を汗と砂で汚しながら、ニカッと不敵に笑って立っていた。




