第9話 豚骨の湯気と埋もれた地図
昨夜、ペントハウスに襲来した母と姉による「西園寺家女子会」の喧騒から逃れるように、俺は昼前に自宅を脱出した。 休日を優雅に過ごすはずが、男一人で街を彷徨う羽目になるとは。
そんな俺が辿り着いたのは、自分の立ち位置からすれば、いささか場違いな場所だった。
環状七号線沿い。排気ガスと豚骨の強烈な匂いが漂う、ラーメン激戦区だ。
目の前には、油で黒光りする暖簾がかかった、年季の入った店舗がある。
行列に並ぶ客層は、トラック運転手やガテン系の兄ちゃん、そして腹を空かせた学生たち。
全身をアルマーニのカジュアルラインで固めた俺は、どう見ても異物だった。
「へっ、ビビってんのか西園寺。ここの『背脂チャッチャ系』は世界一だぞ」
隣でニヤニヤと楽しそうに笑うのは、クラスメイトの城戸隼人だ。
「ビビってなどいない。ただ、衛生基準が気になっているだけだ」
「うっせーな。床がヌルヌルしてんのが美味い店の証拠なんだよ。……ほら、次俺らだぞ」
「……水曜は急な仕事が入って悪かったな、城戸。美味い店を教えろと言ったのは俺だが、まさかここまでの『脂地獄』だとは聞いていない」
「おうよ! お前がドタキャンしたせいで俺の胃袋はお預け食らってたんだ。今日は逃がさねぇぞ!」
そう、本当は球技大会の日に来るはずだったが、俺のビジネス上のトラブルで延期になっていたのだ。
隼人に促され、カウンター席に座る。
注文したのは「特製チャーシュー麺、脂多め、味濃いめ、麺固め」。
隼人の推奨する「早死に三段活用」だ。
やがて運ばれてきた丼は、雪のように降り積もった背脂でスープの表面が見えなかった。
「……いただきます」
覚悟を決めて箸を入れる。
太麺を持ち上げると、濃厚な醤油と豚骨の香りが湯気となって立ち上った。
一口すする。
ガツン、と脳髄を揺さぶるような塩気と旨味。
洗練されたフレンチや懐石料理とは対極にある、暴力的で原始的な快楽。
「……どうだ?」
隼人がレンゲを止め、少し不安そうに聞いてきた。
俺は口元をナプキンで拭い、静かに頷いた。
「……悪くない。いや、かなり美味いな」
「だろ!? 俺が発掘した店にハズレはねぇんだよ!」
隼人は我が事のように喜び、自分の丼にかぶりついた。
ズルズルと豪快に麺をすする音。
俺もまた、彼に倣って麺を口に運んだ。
中身が41歳になってから、健康管理のためにこうしたジャンクフードは避けてきた。
だが、たまにはいいだろう。
15歳の胃袋は、この程度の脂など瞬時にエネルギーに変えてしまう。
「あー、食った食った! ……で、西園寺。お前、昨日のチョーク避け凄かったな」
店を出て、缶コーヒーを片手にたむろする。
隼人が昨日の授業での出来事を持ち出した。
「あれ、絶対見えてたろ。真田のオッサン、マジでビビってたぜ」
「偶然だよ。たまたま首が凝って動かしただけだ」
「嘘つけ。……ま、俺のデコに当たったのは許してねぇけどな」
隼人はデコをさすりながら、ニカッと笑った。
その笑顔には、裏表のない親愛が滲んでいる。
かつて理不尽な指導で陸上の夢を絶たれた過去を持ち、今また鷹森という教師に目をつけられている彼だが、その根底にある明るさまでは奪われていないようだ。
俺はコーヒーを飲み干し、空き缶をゴミ箱に投げ入れた。
「城戸。……もし困ったことがあったら言え。力になる」
「あ? なんだよ急に。金なら貸さねぇぞ?」
「金の話じゃない。……まあいい。覚えておいてくれ」
鷹森の件は、舞が調査を進めている。
証拠が揃えば、社会的制裁を加える準備は整う。
だが、それは俺が勝手にやることだ。彼にはまだ、余計な心配をかけたくない。
「変な奴。……ま、サンキュな。次はゲーセン行こうぜ!」
「ああ。またボコボコにしてやるよ」
「うっせ! 次は勝つ!」
他愛のない会話を交わし、駅前で別れる。
男同士の付き合いというのは、これくらい淡白な方が心地よい。
隼人と別れた後、俺は駅前の大型書店に立ち寄った。
不動産関連の専門書を探すためだ。
専門書コーナーで背表紙を眺めていると、視界の端に見覚えのある女性の姿が入った。
早坂涼。
姉・摩耶の親友であり、先週の日曜日に俺が助けた早稲田大学の1年生だ。
教育書のコーナーで、真剣な表情で本を選んでいる。
今日の彼女は、大学の講義帰りなのか、少しラフな服装だった。
オーバーサイズの白いシャツに、色落ちしたデニム。
シンプル極まりない装いだが、それがかえって彼女の素材の良さを際立たせている。
瑞々しい透明感を持つショートカットの美少女。
化粧っ気のない素肌は白磁のように透き通り、長い睫毛が伏せられた瞳に影を落としている。
凛とした佇まいは、騒がしい書店の中でそこだけ静寂が支配しているかのようだ。
「……涼さん」
俺が声をかけると、彼女はビクリと肩を震わせ、振り返った。
「……! あ、玲央?」
彼女は俺を認めると、驚いたように目を丸くし、次いでふわりと柔らかく微笑んだ。
その笑顔の破壊力たるや。
元不良とは思えない、無防備で少年のようなあどけなさがある。
「奇遇ですね。勉強ですか?」
「ん、まあね。……大学のレポートで、教育心理学の本を探してて。……そっちは? 漫画?」
「いえ、都市開発と不動産登記法の専門書を」
「……可愛くないガキ」
涼さんは呆れたように苦笑した。
彼女の手には、分厚いハードカバーの専門書が数冊抱えられている。
「重そうですね。持ちましょうか」
「いいって。これくらい鍛えてるし」
「レディに荷物を持たせるのは、俺の流儀に反します」
俺は強引に彼女の手から本を受け取った。
ずしりと重い。教師を目指す彼女の、真摯な努力の重みだ。
「……ありがと。相変わらずキザなんだから、ボンは」
「ボン?」
「ボンボンだからボン。……嫌だった?」
「いえ。涼さんになら、どう呼ばれても光栄です」
俺たちは並んでレジへ向かった。
彼女の歩幅は俺より少し小さいが、その背筋はピンと伸びていて美しい。
先日、路地裏で震えていた姿とは別人のようだ。
「……あの時は、ありがとな。助けてくれて」
会計を済ませ、店を出たところで彼女がぽつりと言った。
日曜日の件だ。
「礼には及びません。姉の友人が困っているのを見過ごすわけにはいきませんから」
「それでも、だよ。……アタシ、意地張って損するとこだった。アンタのおかげで、まだ夢を追いかけられる」
彼女は眩しそうに目を細め、春の空を見上げた。
その横顔には、強い意志の光が宿っている。
かつて道を外れかけた少女が、今は教師という「道を教える側」になろうとしている。
その尊さを、俺は知っている。
「涼さんなら、きっと良い教師になれますよ。……生徒が少し羨ましいですね」
「何言ってんだか。……あ、そうだ。これ、お礼」
彼女はポケットから、包み紙に入った何かを取り出し、俺に投げ渡した。
反射的に受け取る。
ミント味のガムだった。
「高いお礼はできないけど、今の精一杯。……またな、玲央」
彼女は少し照れくさそうに手を振り、颯爽と歩き出した。
その背中を見送りながら、俺はガムを口に放り込んだ。
清涼感が口いっぱいに広がる。
甘酸っぱく、少しスパイシーな、青春の味がした。
帰宅後。
俺は自室のワークスペースに籠もっていた。
広大なデスクの上は、文字通り「埋もれて」いた。
散乱しているのは、都内の地図、不動産物件の図面、登記簿のコピー、そして都市開発計画書の束だ。
「……さて、片付けるか」
俺は腕まくりをし、情報の整理に取り掛かった。
まずは、木曜日に納品された「金地金」の保管証書を確認し、貸金庫のファイルへ収める。 4,000万円分の黄金は、すでに厳重なセキュリティの下で眠っている。これについては、もう語るまでもない。25年後の開封を楽しみに待つだけだ。
「……次のターゲットは、ここだ」
俺は広げた地図の二箇所に赤ペンで印をつけた。
『港区』と『渋谷区』。
バブル崩壊以降、地価は下落の一途を辿ってきたが、都心の一等地に関しては底打ちの兆しが見えている。
特に、これから再開発が進む六本木エリアや、IT企業が集積し始めた渋谷周辺の「ファミリータイプマンション」は狙い目だ。
単身者向けではない。ファミリータイプだ。
都心回帰の流れが加速すれば、職住近接を求める富裕層ファミリーの需要が爆発的に増加する。
だが、現在はまだ供給が追いついていない。
「割安で放置されている中古物件を買い叩き、リノベーションして賃貸に回す。……あるいは、更地にして開発業者に転売するか」
電卓を叩く。
利回りは表面で10%を超えそうだ。
現在の俺の個人資産は310億円。
レバレッジを効かせれば、数百億規模のポートフォリオを組むことも可能だ。
だが、焦る必要はない。
まずは手堅く、優良物件を数件押さえるところから始める。
俺は舞に送るためのメールを作成した。
件名は『新規取得候補物件リスト』。
添付ファイルには、俺が厳選した5つの物件データを付けた。
送信ボタンを押すと同時に、窓の外を見た。
東京の夜景が広がっている。
無数の光の一つ一つに、人々の生活があり、欲望があり、そして金が動いている。
その奔流の中で、俺は確かに舵を握っている。




