第8話 チョークの弾道と放課後の解呪
1999年4月17日、土曜日。
週休二日制が完全に定着する前のこの時代、第2・第4土曜日以外はまだ午前授業――いわゆる「半ドン」が存在していた。
昼過ぎには解放されるという開放感が、週末の教室独特の浮ついた空気を生み出している。
3限目、公民。
教壇に立っているのは、生活指導補佐も務める真田厳だ。
角刈りに太い眉、スーツの上からでも分かる分厚い胸板。
昭和の熱血刑事ドラマから抜け出してきたような強面教師は、出席簿を武器のように構え、教室内を鷹のような鋭い眼光で見回していた。
「……おい、そこの! 欠伸を噛み殺すとはいい度胸だなぁ!」
真田の怒声が響く。
最前列で居眠りしかけていた男子生徒が、飛び上がるようにして姿勢を正した。
この真田という教師は、生徒の自主性よりも規律と服従を絶対視する、典型的なスパルタ教育者だ。
授業内容は教科書をなぞるだけの陳腐なものだが、その緊張感だけは戦場並みだった。
「基本的人権の尊重……ふん、権利ばかり主張して義務を果たさん若者が増えたものだ。いいか、社会に出れば甘えは通用せんぞ!」
真田は黒板に向き直り、乱暴な筆致で板書を始めた。
その隙に、クラスのあちこちで小さな私語が漏れる。
俺は、背筋を伸ばしたまま、手元のノートパソコンで市場の動向をチェックしていた。
無論、真田には「授業のメモを取っている」と思わせるよう、キータイプ音は最小限に抑えている。
その時だった。
俺の斜め前、日向翔太が、隣の席の友人に消しゴムを投げようと身を乗り出した。
完全に油断した、不用意な動き。
黒板に向かっていたはずの真田が、背中に目がついているかのように振り返った。
「――たるんどるッ!!」
怒声と共に、真田の右腕が唸りを上げた。
指先から放たれたのは、一本の白いチョーク。
それはプロ野球のピッチャー顔負けの豪速球となって、一直線に翔太……ではなく、その軌道上にいた俺の顔面へと迫った。
とばっちりだ。
翔太を狙ったコントロールが甘かったのか、それともパソコンを開いている俺が気に食わなくてわざと狙ったのか。
どちらにせよ、通常の反射神経では回避不能なタイミング。
だが、俺の動体視力はそれをスローモーションのように捉えていた。
前世で培った護身術と、今生で鍛え上げた肉体。
俺は視線を画面から外さず、首をわずか数センチだけ、左に傾けた。
――ヒュッ。
風切り音と共に、チョークが俺の右頬の横を通り抜ける。
そして、俺の後ろの席で漫画を読んでいた城戸隼人のデコに、バシィッ! と小気味よい音を立てて直撃した。
「いってぇぇ!! なにすんだコラァ!」
「貴様だ城戸ォ! 授業中に漫画とは舐めているのか!」
「はぁ!? 今投げたのお前だろ! 西園寺が避けなきゃ当たってねぇよ!」
ギャーギャーと騒ぎ出す隼人と真田。
俺は何食わぬ顔でパソコンの画面を見つめたまま、心の中で呟いた。
……悪いな、城戸。だが、君ならその石頭で受け止められると信じていたよ。
教室内がドッと沸く。
真田は「西園寺……貴様、今見ていなかったはずだが」と狐につままれたような顔をしているが、俺は涼しい顔で「何かありましたか、先生」と返すだけだ。
無駄な被弾はしない。それがリスク管理の基本だ。
4限目が終わり、ホームルームが解散となった。
生徒たちは「やっと休みだ!」と歓声を上げ、鞄を持って教室を飛び出していく。
そんな中、日直の仕事を任されていた桜木マナが、黒板の前で粉まみれになっていた。
黒板消しを手に、背伸びをしている。
「あれ、翔太? どこ行くの? 日直、まだ終わってないよ?」
マナが、教室を出ようとする日向翔太に声をかけた。
今日の日直は、マナと翔太の二人だ。黒板を消し、日誌を書く義務がある。
だが、翔太はサッカーボールを小脇に抱え、悪びれもせずに振り返った。
「わりぃマナ! 俺、サッカー部の見学行く約束しちゃってさ! 先輩待たせてるから、あと頼むわ!」
「えっ、ちょっと翔太!?」
「サンキュー! マナならすぐ終わるだろ? じゃあな!」
翔太はマナの返事も聞かず、風のように廊下へと消えていった。
残されたマナは、ぽつんと立ち尽くしていた。
その肩が、がっくりと落ちる。
「……もう。いつもこうなんだから」
溜息をつき、彼女は再び黒板に向き直った。
ショートボブの黒髪が、寂しげに揺れる。
小柄な彼女の身長では、黒板の上部に書かれた文字には手が届かない。
何度も背伸びをし、ジャンプをして消そうとするが、どうしても消し残しができてしまう。
粉が舞い、彼女の制服や綺麗な髪に降り注ぐ。
その姿は、健気というよりは痛々しかった。
幼馴染という関係性に甘え、彼女の労力を搾取する翔太。そして、それを「仕方ない」と受け入れてしまうマナ。
その悪循環を断ち切る時だ。
俺は席を立ち、音もなく彼女の背後に近づいた。
彼女がまたジャンプしようとした、その瞬間。
俺はスッと手を伸ばし、彼女の手から黒板消しを取り上げた。
「……え?」
驚いて振り返るマナの頭上、彼女が届かなかった高い位置の文字を、俺は一撫でで消し去った。
「……西園寺、くん?」
「日向くんは、桜木さんを家政婦か何かと勘違いしているようですね」
俺は静かに言いながら、残りの文字も手際よく消していく。
無駄のない動作で、粉を吸い込むクリーナーを走らせる。数秒後、黒板は新品のように深緑色を取り戻した。
「あ、ううん! 違うの、私が勝手に世話焼いてるだけだし……翔太、部活とか忙しいみたいだから」
マナは慌てて翔太を庇おうとする。
だが、その瞳には諦めと疲労の色が滲んでいた。
「……桜木さん」
俺は黒板消しを置き、彼女に向き直った。
まっすぐに、その大きな瞳を見つめる。
「桜木さんの時間は桜木さんだけのものです。他人の尻拭いのために浪費していい資源ではない」
「え……」
「桜木さんのやりたいことはないんですか? 早く帰って店を手伝いたいとか、友達と遊びたいとか」
「それは……ある、けど……」
彼女は口ごもり、視線を伏せた。
俺はそれ以上問い詰めず、彼女の机に置いてあった通学鞄を手に取った。
「送りますよ。荷物が重そうだ」
「えっ、そ、そんなの悪いよ! 自分で持てるし……」
「日直の仕事は終わりました。日誌は僕が書いておきます。……さあ、行きましょう」
俺は有無を言わせず歩き出した。
マナは一瞬呆気にとられていたが、慌てて小走りで追いかけてきた。
「ま、待ってよ西園寺くん! ……あ、ありがとう……」
俺の隣に並び、彼女は上目遣いで俺を見上げた。
その頬が、ほんのりと朱に染まっている。
今まで「世話を焼く側」だった彼女が、初めて「世話を焼かれる側」に回った瞬間。
スマートに助けられ、重い荷物を持ってもらうという、女の子扱いされる経験。
その新鮮なときめきが、彼女の中にある「翔太への執着」という鎖を、少しずつ溶かしていくのが分かった。
マナを実家の洋食屋まで送り届けた後、俺は駅前のドラッグストアに立ち寄った。
日用品の買い出しではない。ここにある人物がいると聞いていたからだ。
店内は土曜の昼下がりらしく、主婦や学生で賑わっていた。
レジカウンターの奥。
気だるげに品出しをしている女性店員の姿があった。
白衣を着ているが、その下からはお洒落な私服が覗いている。
シャギーの入ったショートカット、口元のホクロ。
昨日カフェで会ったばかりの、柚木沙耶だ。
「……いらっしゃいませー。ポイントカードはお持ちですかー?」
やる気のない、しかしどこか色気のある声。
俺がカゴを置くと、彼女は事務的にバーコードを読み取り――そして、俺の顔を見て動きを止めた。
「……あら」
彼女の目が丸くなる。
そしてすぐに、面白がるような笑みが浮かんだ。
「社長さんじゃない。……奇遇ね。こんな庶民的な店にも来るんだ?」
「必要なものはどこででも買いますよ。柚木さんこそ、ここでアルバイトを?」
「ええ。心理学の実地調査も兼ねてね。人間観察にはうってつけよ」
彼女は手際よく商品を袋詰めしながら、小声で囁いた。
「……で? 今日は可愛い秘書さんはいないの?」
「今日は休日を与えています。彼女にも休息は必要ですから」
「ふうん。優しいのね。……舞があんなに入れ込むのも分かるわ」
沙耶さんは釣り銭を渡す際、俺の指先にわざと触れるようにして手を重ねた。
ひんやりとした指先。
彼女なりの、からかいのつもりだろう。
「……またね、西園寺くん。今度、大学にも遊びにおいでよ。面白い心理テスト、用意して待ってるから」
「ええ。楽しみにしています」
俺は会釈をして店を出た。
彼女のような「大人」の女性との駆け引きは、学園生活とは違う刺激がある。
ふと、店頭のショーケースに飾られた経済紙の見出しが目に入った。
『金価格、底値圏で推移。1グラム950円台』
昨日仕込んだ金地金。
900円〜1,000円を行き来する今の相場は、やはり異常な安値だ。
あと数年で底を打ち、上昇トレンドに入る。
俺の判断に間違いはない。
買い物を終え、マンションへの帰路につく。
公園のベンチで、見覚えのある少女が一人、缶コーヒーを飲んでいた。
深く帽子を被っているが、そのオーラは隠しきれていない。
天童くるみだ。
昨夜のステーキとダーツで元気を取り戻したのか、今日の彼女はリラックスした雰囲気を漂わせていた。
「……こんにちは、くるみさん」
「うわっ!? ……なんだ、レオか。びっくりさせないでよ」
彼女は帽子を上げ、俺を見てニッと笑った。
その笑顔は、昨日の夜よりもずっと晴れやかだ。
1999年のトレンドである厚底ブーツにミニスカート。
誰もが振り返る「美少女」の代表格だが、今の彼女は等身大の18歳に見えた。
「昨日はありがとね。お肉、美味しかった。……おかげで肌の調子もいい感じ」
「それは良かった。仕事の調子はどうですか?」
「んー、まあまあ。……スタッフさんが変に気を使わなくなったから、やりやすくなったわ。あんた、何か言ったでしょ?」
「さあ? 僕はただ、現場の自主性を尊重しただけですよ」
俺はとぼけた。
彼女は疑わしげな目を向けつつも、嬉しそうに缶コーヒーを飲み干した。
「ま、いいけどね。……あ、そうだ。今度のCM撮影、楽しみにしてるから。あたしを起用したこと、後悔させないわよ」
「期待しています。君なら、時代を作れる」
短い世間話だったが、彼女との距離が確実に縮まっているのを感じた。
彼女は手を振り、「じゃあね!」と軽やかに駆け出していった。
マンションに帰宅すると、エントランスのコンシェルジュから連絡が入った。
来客だという。
モニターに映し出されたのは、派手なサングラスをかけた二人の女性だった。
「Open the door, Leo! マミーよ!」
「ちょっと玲央! 開けなさいよ、お姉ちゃんよ!」
母と、姉だ。
オートロックを解除し、エレベーターホールで彼女たちを迎える。
ソフィアは今日も完璧だった。
42歳とは思えないプロポーションを、イタリア製のドレスで包んでいる。その美貌は、マンションの豪華な内装すら霞ませるほどだ。
一方の姉も、母譲りの整った顔立ちをした美少女だ。
ハニーブロンドのショートボブが愛らしく、大学でもさぞモテているだろうに、弟の前では残念な姉オーラ全開だ。
「Surprise! レオ、元気にしてた? マミー寂しくて死にそうだったわ!」
「嘘ばっかり。昨日も電話してたじゃない」
母がいきなり抱きついてくる。甘い香水の香り。
姉は両手に抱えた紙袋を掲げた。




