第7話 渋谷の城と黄金の鍵
放課後の渋谷。若者たちの熱気と喧騒が渦巻くこの街の一角、桜丘町にあるオフィスビルの一室に、俺はいた。
まだ什器もまばらなフロアだが、ここが俺の新たな拠点、「レオ・キャピタル」の作戦司令室となる。
窓の外には、建設中のセルリアンタワーのクレーンが見える。
この渋谷一帯は、間もなく「ビットバレー」と呼ばれ、日本のITベンチャーの中心地となる場所だ。
だが、その多くは学生気分の延長で消えていく。俺が作るのは、そんな泡沫の夢ではない。
「社長。採用予定のエンジニアの方ですが、先ほど承諾の連絡が入りました」
秘書の如月舞が、淹れたてのコーヒーをデスクに置きながら報告する。
今日の彼女は、ライトグレーのパンツスーツ姿だ。知的な美貌と、身体のラインに沿ったスーツのシルエットが、無機質なオフィスに彩りを添えている。
19歳にしてこの落ち着き。彼女がいるだけで、この空間が引き締まる。
「釣れたか。条件は?」
「年収1,000万円。加えて、プロジェクトの裁量権を保証しました。……大手SIerからの引き抜きとしては、破格かと」
舞が少し心配そうに眉を寄せる。
無理もない。1999年の今、ネットベンチャーのエンジニアといえば、学生バイトか独学のアマチュアが主流だ。そこに1,000万円プレイヤーを投入するのは、常識外れと言える。
だが、ここが勝負の分かれ目だ。
当時のネットサービスは、アクセスが集中すればすぐにサーバーが落ち、データベースが破損する脆弱なものばかりだった。
俺が必要としているのは、OracleデータベースとUNIXを使いこなし、堅牢なインフラを構築できる「本物のプロ」だ。
「安いものだよ。ストックオプションという不確かな餌ではなく、現金で誠意を見せる。それが大人の流儀だ」
「……承知いたしました。社長の慧眼を信じます」
舞は深く一礼した。
次に、俺は重厚なアタッシュケースに視線を落とした。
中には、鈍く光る延べ棒が鎮座している。
金地金。総額4,000万円分だ。
現在の金価格は1グラム1,000円前後。歴史的な安値圏にある。
世間はドットコム株やIT関連銘柄に熱狂し、利子を生まない金など見向きもしない。
だが、俺は知っている。この黄金こそが、来るべきバブル崩壊と、その後の不安定な世界経済における最強の盾となることを。
「舞。これを貸金庫へ。契約期間は無期限だ」
「……はい。いつ取り出しますか?」
「25年は忘れておくつもりだ。鍵と暗証番号は厳重に管理し、俺が『開けろ』と言うまで封印してくれ」
2024年には、この金塊は10倍以上の価値を持つことになる。
これは投資というより、タイムカプセルだ。
俺は未来への布石を打ち終え、学園での出来事を反芻した。
時計の針を数時間戻す。
昼休み、俺は教室の喧騒を離れ、中庭のベンチで経済誌を読んでいた。
春の陽気が心地よい。
だが、その平穏は、聞き覚えのある甲高い声によって破られた。
「だーかーら! 俺、今日は部活のミーティングがあるんだって! 宿題やってる暇ないの!」
植え込みの向こう側。
日向翔太が、一人の女子生徒にプリントの束を押し付けようとしていた。
相手は、高城藍。
桜木マナの親友であり、クールで知的な雰囲気を纏った美少女だ。
切り揃えられた黒髪のボブカットと、少し吊り上がった涼しげな瞳が印象的だ。クラスでも「高嶺の花」として密かに人気があるが、今はその美貌が冷ややかな軽蔑の色を帯びている。
「……日向。自分の宿題くらい、自分でやりなさい」
「ケチだなぁ高城は! マナなら『しょうがないなぁ』ってやってくれるのにさー」
翔太は悪びれもせず、マナの名前を出した。
藍の瞳が、スッと細められる。
「……貴方ね。マナは貴方の母親でも家政婦でもないのよ」
「はあ? 何マジになってんの? 俺たち幼馴染だし、助け合うの普通だろ?」
「それは助け合いじゃなくて、搾取よ」
藍はピシャリと言い放った。
正論だ。だが、翔太にはその言葉の真意が届かない。彼は「なんだよ、付き合い悪いな」と不満げに口を尖らせている。
「……私はマナほど甘くないわよ。自分のことは自分でなさい。これ以上マナに甘えるなら、私が許さない」
藍は翔太を睨みつけ、その場を立ち去った。
残された翔太は「ちぇっ、なんだよアイツ」と舌打ちをしている。
植え込みの陰で、俺は静かに溜息をついた。
翔太の無自覚な甘えと、それを許容してきた環境。
だが、藍のような存在がいることは、マナにとっても救いになるだろう。
俺が直接手を下さずとも、彼女たちの意識は確実に変わり始めている。
放課後。
俺は校舎裏手にある体育教官室へと向かっていた。
マブダチとなった城戸隼人が、体育教師の鷹森恒一に呼び出されたのを目撃したからだ。
鷹森は、隼人を目の敵にしている。
何か因縁めいたものを感じるが、今のところ隼人と鷹森の間に過去の接点はないはずだ。単に、隼人の反抗的な態度が、鷹森の歪んだ支配欲を逆撫でしているのだろう。
教官室のドア越しに、怒鳴り声が聞こえてくる。
「おい城戸! なんだその態度は! 教師に対する口の利き方を知らんのか!」
「……っせーな。シャツ入れただろ。他に何があんだよ」
「その目だ! その腐った目が気に食わんと言ってるんだ! ……陸上部崩れの落ちこぼれが、粋がるのもいい加減にしろよ?」
ドン、と机を叩く音。
俺はドアの隙間から中の様子を窺った。
鷹森が隼人の胸倉を掴み、壁に押し付けている。
明らかな体罰、いや暴行だ。
だが、隼人は手を出さずに耐えている。ここで手を出せば、退学になることを理解しているからだ。
「……離せよ。俺は何もしてねぇ」
「口答えするな! ……いいか、俺はお前みたいなクズを更生させるために指導してやってるんだ。感謝しろ!」
鷹森の顔には、嗜虐的な笑みが浮かんでいた。
教育者の仮面を被った、ただのサディスト。
俺は胸ポケットのICレコーダーを確認し、録音ボタンを押した。
まだだ。
今ここで飛び込んでも、鷹森は「指導の一環」と言い逃れ、学校側も揉み消すだろう。
もっと決定的な証拠、彼を社会的に抹殺できるだけのカードが必要だ。
幸い、舞への調査依頼は順調に進んでいる。
俺は録音を続けながら、隼人が解放されるのを見届け、静かにその場を離れた。
夜。
ビジネスの打ち合わせを終えた俺は、とあるファミリーレストランの駐車場にいた。
店内には、一人の少女の姿がある。
天童くるみだ。
昨日の逃亡劇から一夜明け、彼女は仕事に復帰していたが、やはりその表情には疲労の色が濃い。
深夜のファミレスで一人、サラダをつついている姿は痛々しかった。
「……行くぞ」
俺は車を降り、店内へと入った。
くるみさんの席の向かいに、断りもなく座る。
「えっ……!? レ、レオ!? なんでここに……」
「こんばんは、くるみさん。ボディーガードから連絡がありました。……こんな時間までお疲れ様です」
「あ、あんたねぇ……ストーカーみたいなことしないでよ」
彼女は呆れたように言ったが、その声には安堵が混じっていた。
俺は店員を呼び、メニューには載っていないオーダーを告げた。
「サーロインステーキ、300グラム。焼き加減はミディアムレアで。……ああ、この店ごと買い取ってあるから、厨房には話が通っている」
店員は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに「かしこまりました、オーナー」と恭しく頭を下げた。
くるみさんが目を丸くする。
「はぁ!? 店ごと買い取った!? あんたバカなの!?」
「投資の一環ですよ。それに、くるみさんの肌荒れの原因は栄養不足だ。サラダだけで身体が持つわけがない」
やがて運ばれてきたのは、ファミレスのレベルを超越した、最高級の和牛ステーキだった。
香ばしい匂いが漂う。
「……なによこれ。めちゃくちゃ美味しそうじゃん」
「さあ、食べてください。肉体は資本です」
くるみさんは躊躇いながらもナイフを入れ、一口食べた瞬間、瞳を輝かせた。
昨日のような怯えた顔ではない。年相応の、幸せそうな笑顔だ。
俺はその様子を見守りながら、本題を切り出した。
「くるみさん。……僕が立ち上げる新しい事業のCMに、君を起用したいと考えています」
「え? 新しい事業?」
「モバイルオークションとECのサイトです。携帯電話一つで、世界中の物が買えるようになる。……その未来の顔に、君が相応しい」
俺は企画書をテーブルに置いた。
くるみさんはフォークを止め、真剣な眼差しでそれを見る。
「……あたしで、いいの? もっと有名な女優とかじゃなくて」
「君がいいんです。君の持つ『強さ』と『親しみやすさ』が、新しい文化を広める鍵になる。……引き受けてくれますか?」
彼女は少し考えて、ニカッと笑った。
「……いいわよ。その代わり、ギャラは弾んでよね!」
「交渉成立ですね」
食後。
「腹ごなしに付き合ってください」と、俺は彼女を近くのダーツバーへ連れ出した。
もちろん、貸切だ。
薄暗い店内に、ジャズが流れている。
「へえ、ダーツ? やったことないけど」
「教えますよ。単純ですが、奥が深い」
俺は手本を見せ、彼女にダーツの矢を渡した。
フォームを教えるため、自然と身体が密着する。
彼女のふわりと香るシャンプーの匂い。
アイドルとして完璧に作られた美貌が、今は無防備に俺の近くにある。
「こう? ……えいっ!」
放たれた矢は、的の端に刺さった。
「あーっ! 惜しい! もう一回!」
はしゃぐ彼女は、ただの18歳の少女に戻っていた。
俺もまた、社長や御曹司という肩書きを忘れ、彼女とのゲームを楽しんだ。
「……ねえ、レオ」
数ゲーム終えた後、くるみさんがカウンターでジュースを飲みながら言った。
「あたし、頑張るから。……あんたが用意してくれたステージで、一番輝いてみせる」
「ええ。期待していますよ」




