第6話 逃亡する偶像と紫煙の心理学
空は薄い灰色に覆われ、いまにも泣き出しそうな湿り気を帯びていた。
放課後。俺は、都内のテレビ局近くの路地を歩いていた。
舞に頼んでおいた、芸能プロダクション関連の資料を受け取る前の時間調整だ。
この辺りは表通りこそ華やかだが、一本裏に入れば雑居ビルがひしめき合い、室外機の熱風と都会の喧騒が澱んでいる。
その時だった。
不規則な足音と、荒い息遣いが路地の向こうから聞こえてきた。
「……はぁ、はぁっ……!」
角を曲がってきたのは、一人の少女だった。
深めに被ったキャップに、大きなサングラス。オーバーサイズのパーカーで体型を隠しているが、その足元は場違いなピンヒールだ。
彼女は時折後ろを気にしながら、何かに怯えるように走っている。
だが、ヒールが路面の窪みに足を取られた。
「きゃっ……!」
少女が体勢を崩す。
俺は反射的に数歩踏み出し、倒れそうになった彼女の腕を支えた。
「大丈夫ですか?」
「っ! ……離して! あたしは戻らないから!」
少女は過敏に反応し、俺の手を振り払おうとした。
その拍子にサングラスがずれ落ち、隠されていた素顔が露わになる。
俺は息を呑んだ。
テレビのブラウン管越しに見るよりも遥かに小顔で、人形のように整った目鼻立ち。
猫のように大きな瞳は、今は焦燥と恐怖で揺れているが、その奥にある光は隠しようもなく「芸能人」のそれだった。
――天童くるみ。
姉の親友であり、先日俺がオーナーとなった事務所の稼ぎ頭だ。
「……くるみさん?」
「え……?」
名前を呼ばれ、彼女は動きを止めた。
俺の顔を凝視し、数秒後、その瞳が見開かれる。
「……あんた、レオ……?」
「ええ。こんなところで何をしているんですか? 今日は確か、歌番組の収録では」
俺が問いかけると、くるみさんはバツが悪そうに視線を逸らした。
そして、悔しそうに唇を噛む。
「……逃げてきたの」
「逃げた?」
「だって……! 急にセンターになれとか、ソロパート増やすとか……無理よ! 今まで干されかけてたのに、あんたがオーナーになった途端、周りの扱いが変わりすぎて……気持ち悪いのよ!」
彼女は叫ぶように吐き出した。
なるほど。俺が裏で手を回し、事務所の体制を一新させた副作用か。
現場のスタッフたちが、新オーナーの顔色を伺い、彼女を過剰に持ち上げ始めたのだろう。
実力でのし上がりたいと願う彼女のプライドにとって、それは「忖度」による不当な評価に映ったに違いない。
「……なるほど。現場が空回りしているようですね」
「他人事みたいに言わないでよ! 元はと言えばあんたのせいでしょ!?」
「ええ、責任は感じています。……ですが、逃げ出して解決する問題でもないでしょう」
「うるさい! 15歳のガキに何が分かるのよ!」
彼女は俺を突き飛ばそうとした。
だが、その手には力が入っていなかった。
18歳の少女が背負うには、芸能界という場所はあまりに過酷で、孤独だ。
俺は彼女の細い手首を、優しく、しかし離さないように握り留めた。
「……少し、頭を冷やしましょう。このまま路地にいては、パパラッチの餌食です」
「……離してよ」
「離しません。オーナーとして、大切な商品をみすみす傷つけるわけにはいきませんから」
俺は携帯を取り出し、待機させていた送迎車を路地の入り口に回させた。
抵抗する気力も失せたのか、くるみさんは大人しく俺に従った。
スモークガラスに守られた車内。
冷たいミネラルウォーターを渡し、少し落ち着いたところで俺は口を開いた。
「現場のスタッフには、僕から釘を刺しておきます。過剰な忖度は不要だと」
「……そんなことしたら、また干されるかもしれないじゃん」
「まさか。くるみさんの実力は僕が保証します。……先日の歌番組も見ましたよ。カメラが回っていない時の立ち振る舞い、共演者への配慮。くるみさんはプロだ」
それはお世辞ではない。
前世の記憶を含めても、彼女ほどストイックに「アイドル」を全うしようとしている人間は少ない。
くるみさんはキャップを目深に被り直し、小さく呟いた。
「……買いかぶりすぎよ。あたしは、ただの負けず嫌いなだけ」
「その負けず嫌いが、最大の武器ですよ。……くるみさん。背負っているプレッシャーは理解できます。急激な環境の変化に戸惑うのも無理はない」
俺は彼女の方に向き直り、真摯に語りかけた。
「ですが、僕がくるみさんに投資したのは、『西園寺の威光』で売れると思ったからではありません。くるみさん自身が、泥の中でも咲ける花だと確信したからです。……自信を持ってください。誰かの情けでそこに立っているわけではないはずです」
車内に沈黙が流れた。
やがて、くるみさんは顔を上げ、サングラスを外した。
その瞳は少し潤んでいたが、先ほどのような怯えの色は消えていた。
「……あんたってさ。ホントに生意気。年下のくせに、なんでそんなに偉そうなのよ」
「社長ですから」
「ふふっ……何それ」
彼女は小さく笑った。
その笑顔は、テレビで見せる作り笑顔よりもずっと魅力的で、年相応の可愛らしさがあった。
18歳の美少女の素顔。
それを独占できるのは、役得と言ってもいいだろう。
「……送ってくれてありがと。スタジオに戻るわ。……逃げたままじゃ、摩耶にも笑われちゃうしね」
「ええ。君ならやれます」
テレビ局の裏口で車を止めると、彼女はドアを開ける前に振り返った。
「ねえ、レオ。……今度、またご飯作ってよ。あの中華、そこらの店よりずっと美味しかったけど……次はもっと贅沢な材料でね!」
「構いませんよ。出世払いにしておきます」
「バカ。……ありがとね」
彼女は軽やかに車を降り、一度だけこちらに手を振って、雑踏の中へと消えていった。
その背中は、もう逃げる者のそれではなかった。
くるみさんを送り届けた後、俺は指定されたカフェへと向かった。
青山の一角にある、隠れ家的なカフェバーだ。
時刻は夕刻。オレンジ色の照明が店内を落ち着いた雰囲気に染めている。
一番奥のボックス席に、二人の女性の姿があった。
一人は、俺の秘書である如月舞。
いつものタイトなスーツ姿で、背筋を伸ばして座っている。その陶器のような白い肌と、凛とした美貌は、薄暗い店内でも際立っていた。
そして、その向かいに座っている女性。
俺は一瞬、足を止めた。
舞とは対照的な、アンニュイな空気を纏った美女だった。
シャギーの入ったショートボブ。切れ長の瞳と、口元のホクロが印象的だ。
ルーズなニットを気だるげに着こなし、細長い指には煙草が挟まれている。
退廃的でありながら、洗練された都会の色気。
男性なら誰もが一度は振り返り、そして声をかけるのを躊躇うような、独特のオーラがある。
「お待たせしました」
俺が席に近づくと、舞がすぐに立ち上がって頭を下げた。
「お疲れ様です、社長。……急な呼び出しで申し訳ありません」
「構わない。それで、こちらの方は?」
俺は視線を向かいの女性に向けた。
彼女は組んでいた脚をゆっくりと組み替え、品定めするような視線で俺を見上げた。
「へえ……。これが噂の『社長』くん?」
ハスキーで、少し挑発的な声。
彼女は煙草の煙をふぅーっと天井に吐き出し、口角を上げた。
「ふうん。顔はいいけど……中身はどうかしらね」
「沙耶、失礼ですよ」
舞が窘めるが、彼女――沙耶と呼ばれた女性は意に介さない。
「初めまして。私は柚木沙耶。舞の高校時代からの腐れ縁で、今はがない女子大生よ。……ねえ、単刀直入に聞くけど」
沙耶さんは身を乗り出し、俺の目を覗き込んだ。
その瞳には、心理学専攻らしい分析的な光が宿っている。
「君、舞のことどう思ってるの? ……便利な道具? それとも、従順なペット?」
試すような問いかけ。
舞が息を呑む気配がした。
俺は動じることなく、彼女の瞳を真っ直ぐに見返した。
「舞さんはビジネスパートナーであり、僕の命の恩人です。道具などと思ったことは一度もありません。……彼女がいなければ、今の僕も、この会社も存在しなかったでしょう」
嘘偽りのない本心だ。
15歳の俺が社会で戦えるのは、舞という絶対的な味方がいるからだ。
俺の言葉を聞いて、沙耶さんは数秒間、俺の瞳をじっと見つめていた。
やがて、彼女は「ほう」と感心したように息を吐き、手元の灰皿に煙草を押し付けた。
「……合格。舞が入れ込むのも無理ないわね」
「合格、ですか?」
「ええ。目が泳がなかった。……それに、15歳にしては随分と腹が座ってる。舞の『崇拝』も、あながち盲信じゃないってことか」
沙耶さんは笑みを深め、改めて手を差し出してきた。
「ごめんね、意地悪なこと言って。私は舞の保護者みたいなものだからさ。……よろしくね、社長さん」
「こちらこそ。初めまして、柚木さん」
俺は彼女の手を握り返した。
細く、少し冷たい手だった。
ふと、灰皿の中で消された煙草に目が留まる。
火は点いていたが、吸い口はほとんど汚れておらず、短くなってもいない。
「……柚木さん。一つ、忠告させていただいても?」
「ん? 何?」
「その煙草、ファッションですよね? 無理して吸うのは体に毒ですよ」
俺の言葉に、沙耶さんはキョトンとして目を丸くした。
そして次の瞬間、可笑しそうに吹き出した。
「あっはは! ……バレた? すごーい、これ見抜かれたの初めてかも」
彼女は悪びれもせず、髪をかき上げた。
「そうよ、ただのハッタリ。大人ぶるための小道具。……やだなぁ、年下の男の子に見透かされるなんて」
彼女の表情から、先ほどまでの刺々しさが消え、年相応の親しみやすさが覗いた。
この人は、自分を演じている。
アンニュイな大人の女という鎧を纏って、何かを守っているのかもしれない。
それは、舞が「完璧な秘書」を演じているのと、どこか似ている気がした。
「……面白い人ですね、西園寺くんは。舞が夢中になるわけだ」
沙耶さんは頬杖をつき、上目遣いで俺を見た。
その瞳は、今度は明確な興味を持って俺を捉えている。
「分析対象」としてロックオンされたような、背筋がゾクっとする感覚だ。




