第4話
春の陽気がコンクリートジャングルである東京を暖かく包み込む朝。 俺の優雅な朝食の時間は、またしても理不尽に中断された。
「Good morning, Leo! 生きてる?」
電子ロックの解除音と共に、リビングのドアが勢いよく開く。 現れたのは、ベージュのトレンチコートを颯爽と着こなした美女――母さんだ。 彼女の背後には、大量の荷物を持った秘書の如月舞が控えている。
「……母さん。俺は今、優雅にコーヒーを飲んでいたんだが」
「あら、コーヒーだけで足りるの? 育ち盛りでしょう? だからママが朝食を持ってきてあげたわ」
母さんはテーブルに有名ホテルのテイクアウトボックスを広げ始めた。 焼きたてのクロワッサン、トリュフ入りのオムレツ、そして色鮮やかなフルーツ。 独り暮らしの男子高校生の食卓には不釣り合いな豪華さだ。
「……で? 飯を届けに来ただけじゃないだろ」
俺はナイフを手に取りながら、冷ややかな視線を送った。母さんはニヤリと笑い、1枚の書類を滑らせた。
「これよ。私の個人資産管理口座のレポート。……レオ、あなたまたやったわね?」 「……ああ」
書類には、俺が先日仕込んだ『ヤフー』と『ソフトバンク』の購入履歴、そして現在の含み益が記載されている。
「1億4800万円。私の遊ぶ金を全額突っ込むなんて、相変わらず良い度胸してるわ」
「不服か?」
「いいえ、最高よ。会計士が『息子さんは正気ですか!?』って悲鳴を上げていたけれど、私は止めたわ。『あの子の目には未来が見えているから黙ってなさい』ってね」
母さんは俺の頬にキスをした。
「期待しているわよ、私の可愛いCFO。この利益で、次は南の島でも買いましょうか」
「……断る。俺は平穏な生活を買いたいんだ」
「ふふ。行ってらっしゃい、レオ」
嵐のように現れ、嵐のように去っていく母さんを見送り、俺はため息をついた。 ……やれやれ。朝からカロリーが高い。
5時限目、現代社会。 朝の「投資会議」の余韻が残る頭で、窓の外を眺めていた。 教壇に立つ中年教師は、チョークを弄びながら、明らかに値踏みするような視線を投げてきた。 入学式での生意気な新入生代表スピーチが、職員室でも話題になっているのだろう。
「……では、そこの西園寺。入学早々、優秀な君なら答えられるだろう?」
教師が意地悪く口角を上げる。
「現在、日本の株式市場は低迷していると言われているが、一部で異常な加熱を見せているセクターがある。その背景と、代表的な企業名を挙げてみたまえ。教科書には載っていないぞ」
クラス中の視線が俺に集まる。 隣の席の日向翔太が「ざまあみろ」と言わんばかりにニヤついているのが視界の端に入った。 溜息を一つついて、ゆっくりと立ち上がった。 つい数時間前、母さんとその話題で盛り上がったばかりだ。
「インターネット関連銘柄、いわゆるITセクターです」
俺は淀みなく答えた。
「1995年以降のWindows95の発売、およびインターネットの爆発的な普及に伴い、米国市場ではドットコム企業への投資が過熱。その波が日本にも波及しています。具体的には、孫正義氏率いる『ソフトバンク』、そして同社が筆頭株主である『ヤフー』です」
教室が静まり返る。教師の顔から余裕が消えた。
「正解……だが、それだけか?」
「いいえ。重要なのはここからです」
俺は前世の記憶と、今朝確認したポートフォリオの数字を脳裏に浮かべながら続けた。
「特にヤフーの株価上昇は、既存のPERの概念を逸脱しています。市場は実態経済ではなく『未来への期待値』に金を払っている。このバブルは、来年にヤフーが日本株史上初となる『1株1億円』を突破するまで、加速度的に膨張し続けるでしょう」
「い、1億円だと!? 馬鹿な、そんなことが……」
「あり得ますよ。需要と供給、そして大衆の熱狂が揃えば。……以上です」
俺は着席した。 教師は口をパクパクさせ、日向はポカンと口を開けていた。 教室の後ろの方で、「すげー……」という呟きが聞こえた。金髪の不良の声だ。たしか、自己紹介で城戸隼人と言っていたな。
(……やれやれ)
俺は窓の外を見る。空は青い。だが、その下ではインターネットという怪物が世界を飲み込もうとしている。 母さんとの共犯関係がある限り、この波を乗りこなせるはずだ。
放課後。 ホームルームが終わると同時に教室を飛び出した。 向かった先は、学校から2駅離れた繁華街にあるゲームセンターだ。
薄暗い店内。紫煙と電子音が充満する、アングラな空気。 俺はブレザーを脱ぎ、ワイシャツの袖を捲り上げると、対戦格闘ゲームの筐体にコインを投入した。
「……ストレス解消だ」
学校では「優等生」や「金持ち」の仮面を被っているが、中身はただのゲーム好きの元おっさんだ。 この時代のゲームにノスタルジーと興奮を覚えて慣れた手付きでレバーを操作する。画面の中のキャラクターが、俺の思考と直結したかのように動く。
『Here comes a new challenger!』
乱入演出。 対面の筐体に座ったのは、金髪の男だった。隙間から見える制服は、ウチの学校のものだ。
(……相手にとって不足なし)
俺はニヤリと笑い、本気モードに入った。 試合は一方的だった。相手の動きは悪くない。反射神経もいい。だが、読みが甘い。 前世で培ったフレーム単位の知識と、今の西園寺玲央のスペックをフル動員し、相手の攻撃をすべて「ブロッキング」してカウンターを叩き込んだ。
『K.O.!』
パーフェクト勝ち。 俺が息をつくと、対面の男がガタッと椅子を鳴らして立ち上がり、こちらへ回ってきた。
「おい! お前、今の動きなんだよ!?」
金髪のツンツン頭。着崩した学ラン。 クラスメイトの城戸だった。 目つきは悪いが、その瞳は怒りではなく、純粋な興奮で輝いている。
「……ただの読み合いだ」
「読み合いってレベルじゃねーだろ! 俺の必殺技、全部見切ったじゃねーか! お前、プロか!?」
「いや、ただの趣味だ」
「すげぇ……マジですげぇよ! なあ、俺に教えてくれよ! お前、うちのクラスの西園寺だろ。俺は城戸だ。覚えてるかもしれないけど一応な」
「……ああ、覚えてはいる」
城戸は目をキラキラさせて俺に詰め寄った。 俺が「西園寺家の人間」だとか、「新入生代表」だとか、そんなことはどうでもいいらしい。 ただ純粋に、「ゲームが強い奴」として俺を見ている。
(……悪くない感覚だ)
前世でも今世でも、周囲の人間は俺の「金」か「地位」を見て寄ってきた。だが、こいつは違う。 ポケットから缶コーヒーを取り出し、彼に投げた。
「いいだろう。ただし、俺の指導は厳しいぞ」
「うっす! 一生ついていきます、師匠! 俺の事は隼人って呼んでくれ」
隼人がニカッと笑う。 その笑顔は、不良のそれではなく、無邪気な子供のようだった。
1時間後。 俺たちは渋谷のホテルにあるビュッフェレストランにいた。 「師匠、腹減った!」というリクエストに応え、奢ることにしたのだ。
「うめぇ! なんだこれ、肉が溶ける!」
隼人は皿に山盛りのローストビーフを積み上げ、猛然と食らいついている。
「遠慮するな。経費で落ちる」
「ケヒ? よく分かんねーけど、サンキューな!」
俺はアイスティーを飲みながら、隼人を観察した。 直情径行で単純。だが、嘘がない。そして、負けてもすぐに食らいつく根性。 これは「使える」。
「なあ、隼人。バイトに興味はないか?」
「バイト? 金は欲しいけどよ、俺、頭わりーし」
「俺の会社だ。表向きは資産管理会社だが、実態は俺の投資活動の拠点だ」
俺は懐から名刺を取り出し、テーブルに滑らせた。
「マジか!? 師匠、社長なのかよ!?」
「ああ。仕事の内容はシンプルだ。俺の雑用、護衛、そして話し相手。時給は相場の3倍出す」
「さ、3倍!? 怪しい薬の売人とかじゃねーだろうな?」
「違う。株だ。さっき授業で言っただろう。ヤフー株はいずれ1億円になる。俺はその波に乗る。お前には、そのサーフボードのワックス掛けを頼みたい」
隼人はポカンとしていたが、すぐにニヤリと笑った。
「1億とか全然分かんねーけど、師匠が言うなら本当なんだろうな! 分かった、やるよ! 俺を、好きに使ってくれ!」
「よし、最初の指示だ。師匠はやめろ。玲央でいい」
「分かったぜ。玲央。よろしくな」
契約成立だ。これで、俺の青春をサポートする「相棒」が手に入った。
食後の運動がてら、渋谷から原宿方面へ歩いていた。 その時、前方の人だかりの中に、見知った顔があった。
「あれ、ウチのクラスの……日向と、桜木じゃね?」
雑踏の中でも、桜木マナの存在感は異常だった。 黄金色の粒子を纏ったように輝くショートカット。雑誌の切り抜きのような立ち姿。 彼女の周りには、数人の怪しげなスカウトマンたちが群がっていた。
「ねえ君、可愛いね! 芸能界興味ない? お茶行こうよ!」
「あ、あの……すみません、急いでて……」
マナは困り果てていた。 そこへ、日向翔太が割って入った。震える声で、精一杯の虚勢を張って。
「お、俺の連れに何すんだよ!」
「あ? なんだボウズ。彼氏か?」
「そ、そうだよ! ……いや、彼氏っていうか……とにかく! この子は俺のだから! 手ェ出すな!」
翔太はマナの手首をガシリと掴み、自分の後ろへ引き寄せた。 その言葉が聞こえた瞬間、俺の隣で隼人が「うわっ……」と顔をしかめた。
「……なんか、ダサくね?」
隼人が素直な感想を漏らす。
「『俺のもの』って。モノじゃねーんだぞ」
その通りだ。俺は視線をマナに向けた。 彼女の瞳には、感謝よりも先に「所有物扱いされた」ことへの生理的な拒絶が浮かんでいた。
「……行くぞ、マナ!」
「あ、うん……。痛いよ、翔太……」
翔太はマナの拒絶に気づかず、自分の「ヒーロー的行動」に酔いしれながら彼女を引きずって去っていった。 典型的な「勘違いヒーロー」の誕生だ。これで好感度は、上昇するどころか急降下を始めたことだろう。
「……行くぞ、隼人」
「おう。なんか後味悪ぃな」
俺たちはその場を離れた。 今はまだ、介入する時ではない。
帰宅したのは夜の8時を過ぎていた。 港区のマンション。 リビングに入ると、デスクの上には完璧に整理された資料と、湯気を立てるコーヒーが置かれていた。
「おかえりなさいませ、社長」
秘書の如月舞が控えていた。 カップを手に取る。温度は「飲める熱さ」の上限ギリギリ。完璧だ。
「……舞。見ている理由はなんだ?」
ふと視線を感じて顔を上げると、舞が瞬きもせずに俺を直視していた。
「社長が『正常』に呼吸しているか、確認していました」
「……は?」
「心拍数、呼吸のリズム、顔色。過労は敵です。社長の健康を守るのが、私の最優先任務ですので」
彼女の声は平坦だったが、その瞳の奥には狂信的な熱が渦巻いている。
「……監視を健康管理と言い換えるな」
「監視ではありません。……愛護です」
舞の口元が、ほんの一ミリだけ緩む。 その冷ややかな微笑を見て、俺は改めて思い知った。
朝は豪快な母に振り回され、学校ではヤンキーとバカ騒ぎし、街では勘違い主人公を目撃し、夜はこの重すぎる秘書に管理される。 求めていた「平穏な青春」は、やはりどこにも存在しないのかもしれない。
「……仕事に戻るぞ」
「はい。存分に」




