第30話 電気街の信奉者と南蛮漬けの酸味
ゴールデンウィーク明けの週末となる、五月九日の日曜日。
ペントハウスの広大なリビングに、初夏の力強い日差しが差し込んでいる。
連休中の投資の仕込みと、鷹森を排除した学園での盤石な立ち位置の構築を終えた俺は、淹れたてのブラックコーヒーを静かに飲み干し、休日の実地調査へと向かう準備を整えた。
今日は、これから立ち上げるモバイルECサイトのインフラ強化と、情報収集の要となる「手駒」を視察するための秋葉原行きだ。
午前11時。俺はハイヤーを降り、秋葉原駅の電気街口に立っていた。
1999年の秋葉原。
のちに「萌え」や「メイド喫茶」といったポップカルチャーに席巻される前の、むせ返るようなオタクの熱気と、硬派なテクノロジーの匂いが色濃く残る時代だ。
無数の電子音が入り乱れる中、PCパーツショップ、無線機屋、マニアックなジャンク屋がひしめき合い、自作PCの愛好家たちが血眼になって目当ての基盤やケーブルを漁っている。
「お、おい西園寺! こっちこっち!」
駅前広場のラジオ会館の近くで、キョロキョロと周囲を見回していた小柄な少年が、俺を見つけて大きく手を振った。
クラスメイトの草野健太だ。
色褪せたチェックのシャツに、使い込まれたリュックサック。度の強い眼鏡の奥の瞳が、俺の姿を認めて興奮に輝いている。
「待たせたな、草野」
「全然! 俺も今着たとこだし! ……ていうか、西園寺が本当にアキバに来てくれるなんてスゲェ意外だよ。お前、もっと青山とか六本木みたいなオシャレなとこにしか行かないイメージだし」
「偏見だな。ここは日本のテクノロジーの最前線であり、最も純度の高い情報の集積地だ。視察する価値は十二分にある」
俺が静かに答えると、草野は嬉しそうに何度も頷いた。
「だよな! 分かってるねぇ西園寺は! ……よし、じゃあ俺が最高のルートを案内するぜ。ディープなジャンク屋から最新パーツの店まで、任せとけ!」
草野の先導で、俺たちは裏路地の雑居ビルに足を踏み入れた。
すれ違うのもやっとの狭い通路に、ダンボール箱に無造作に突っ込まれたマザーボードや、バルク品のメモリ、出所不明のハードディスクが山積みにされている。
教室の隅で縮こまっている普段の姿からは想像もつかないほど、このフィールドでの草野は水を得た魚のように活き活きとしていた。
「見てくれよ西園寺! このメモリ、バルク品だけど規格外に安いぜ! 相性保証はないけど、基盤のロット番号を見る限り、間違いなくアタリのロットだ!」
「なるほど。……確かに、DRAMチップの刻印から推測するに、オーバークロックへの耐性も高そうだな」
「えっ、西園寺……そういうマニアックな知識もあんの!?」
草野が驚愕の声を上げる。
俺は自社で構築しているサーバー群のスペックや、最新のハードウェアアーキテクチャについては、投資家として当然のごとく頭に入れている。
俺が専門用語を交えて基盤の設計を論評すると、草野は尊敬の眼差しを超え、もはや崇拝に近い視線を向けてきた。
「すげぇ……。やっぱお前、ただの頭いい奴じゃねぇよ。ネットのアンダーグラウンドな掲示板でもお前のこと『桜花の救世主』って噂になってるけど、俺はお前がもっとデカい存在だって確信したぜ」
草野の鼻息が荒くなる。
彼はネットリテラシーが高く、学内やネット上の情報収集能力に長けている。この時代のアキバ系オタクが持つ特有の「情報に対する異常な執着心」は、扱い方次第で極めて強力な武器になる。
俺は草野を単なるクラスメイトとしてではなく、将来的な「使える駒」――有能な私兵として手懐けるための布石を打つことにした。
「……草野。お前、今一番欲しいパーツは何だ?」
「え? 俺? ……そりゃあ、今度新しく出たPentium IIIの最上位モデルと、Voodoo3のグラフィックボードだけど……高校生の小遣いじゃ、あと半年はバイトして貯金しねぇと無理かな」
「そうか。店を案内してくれ」
俺は彼を大通りの大型PCパーツショップへと促した。
彼が欲しがっていた最新鋭のCPUと、ハイエンドのグラフィックボードをショーケースから出させ、店員にブラックカードを提示する。
十数万円という、高校生にとっては目の眩むような大金が一瞬で決済された。
「はい、これだ。受け取れ」
「……は!? いやいやいや! 待てって西園寺! こんな高価なもん、もらえるわけねぇだろ! 何の冗談だよ!」
受け取った紙袋の重みに、草野が完全にパニックに陥っている。
俺は彼の肩を軽く叩き、冷徹な大人の声色で告げた。
「これは施しではない。お前の情報収集能力と、テクノロジーへの熱意に対する『先行投資』だ。……そのパーツを組み込んで、お前のPC環境を最強にしろ。そして、俺が何か情報を求めた時、最高の速度で俺の期待に応えろ」
「投資……俺に……?」
「そうだ。頼りにしてるぞ、草野」
草野の眼鏡の奥の瞳が、震え、やがて強烈な忠誠心と使命感に満ちた光へと変わった。
言葉は不要だった。彼は紙袋を抱きしめるように強く握り、何度も、何度も深く頷いた。
金で人の心は買えないが、金で人の才能に火をつけることはできる。十数万の端金で、将来有望な情報屋の絶対的な忠誠を手に入れられたのなら、安すぎる買い物だ。
草野と別れ、秋葉原の無機質な熱気を背にハイヤーへ乗り込んだ俺は、夕食の食材を調達するために麻布十番へと向かった。
ビジネスの布石は打った。週末の夜は、一人静かに極上の味覚と向き合う時間に充てる。
懇意にしている老舗の鮮魚店に足を踏み入れると、大将が顔を輝かせた。
「お待ちしてましたよ、西園寺さん! 今日は最高の真アジが入ってますぜ。長崎産の、丸々と太った極上品だ!」
「もらうよ。三枚におろして、骨も抜いておいてくれ」
目が澄み、背が青々と輝く真アジを購入し、さらに近くの高級青果店で初夏の風物詩である千葉県産の『そら豆』を。そして贔屓の豆腐専門店で、大豆の甘みが凝縮された特製の『寄せ豆腐』と、高知県産のミョウガ、大葉を手に入れた。
帰宅後、俺は一切の無駄のない動作でキッチンに立った。
今日のメインは、アジの南蛮漬けだ。南蛮漬けは、作ってすぐよりも、粗熱を取りながら甘酢をじっくりと染み込ませた方が圧倒的に美味くなる。
まずは南蛮酢の仕込みからだ。
一番出汁に、上質な純米酢、薄口醤油、てんさい糖を合わせて火にかけ、赤唐辛子の小口切りを落とす。
そこに、極細の千切りにした新玉ねぎ、人参、ピーマンを熱いままの南蛮酢に漬け込む。野菜の持つ自然な甘みを引き出しつつ、シャキシャキとした食感を殺さないためのメソッドだ。
続いて真アジの下処理。
一口大に切り分けたアジに、軽く塩胡椒を振り、片栗粉を薄く、均一にまぶす。
170度に熱した太白胡麻油へ静かに滑り込ませる。
――ジュワッ……!
軽快な破裂音がキッチンに響く。
表面が美しい狐色に色づき、中までふっくらと火が通った絶妙のタイミングで油から引き上げ、油を切らずに熱々のまま南蛮酢のバットへと投入する。
ジュッ、という音と共に、アジの衣が旨味の詰まった南蛮酢を一気に吸い込んでいく。
このまま冷蔵庫へ入れ、味を完全に馴染ませる。
その間に、そら豆を茹でる。
黒い筋に切り込みを入れ、塩を強めに効かせた熱湯でわずか2分。茹で過ぎは豆の香りを殺す。ザルに上げ、団扇で扇いで一気に粗熱を取る。水に晒して水っぽくするなど三流の仕事だ。
最後に、パックから出した寄せ豆腐に、刻んだミョウガと大葉を山のように盛り付ける。
ダイニングテーブルに、初夏の彩りが並んだ。
酒は、鹿児島産の幻の芋焼酎『森伊蔵』。伝統的な甕壺仕込みで作られるその一杯を、氷を入れたロックグラスに静かに注ぐ。
「……いただきます」
まずは、味が染み込んだアジの南蛮漬けからだ。
ひんやりとしたアジを口に運ぶ。
油のコクと甘酢の角のない酸味が舌の上で絶妙に絡み合い、アジのふっくらとした身から溢れ出す濃厚な旨味を優しく持ち上げていく。新玉ねぎのシャキシャキとした食感が、味わいに鮮やかなリズムを与えている。
そして、グラスの森伊蔵を静かに一口含む。
上質な芋が持つふくよかな香りが、南蛮漬けの酸味と反発することなく口内で美しく交わり合う。安易に油を洗い流してリセットするのではなく、互いの輪郭を際立たせながら、より深く、重層的な余韻へと味覚を昇華させていく。
これこそが、酒と料理が並走し、調和を生み出す大人の味わい方だ。
そら豆の薄皮を剥いて頬張れば、ホクホクとした食感と共に初夏特有の青々とした香りが広がり、塩気がさらに酒の風味を引き立てる。
冷奴は、あえて醤油ではなく少量の藻塩と極上のオリーブオイルでいただく。大豆本来の濃厚な甘みが引き立ち、薬味の爽やかさが鼻腔を抜けていく。
一人きりの静謐なダイニングで、自ら厳選した旬の素材と、極上の酒に向き合う時間。
誰の評価も必要ない。自分の五感のみを満足させるこの孤独な美食のひとときこそが、過酷なビジネスの世界を生き抜くための最も確実なエネルギーの補給源だ。
食後。
俺は書斎のレザーチェアに深く腰掛け、グラスに残った森伊蔵の氷をカランと揺らした。
マルチモニターには、テスト公開を目前に控えた自社のモバイルサイトのコードと、今日秋葉原で感じた熱気――草野健太のような、ネットの深淵に生きる若者たちが集うアンダーグラウンドな掲示板のログが表示されている。
彼らオタク層が持つ、特定分野への異常なまでの執着心と熱量。
それを単なるサブカルチャーとして終わらせるつもりはない。彼らの膨大なエネルギーを、俺が構築するモバイルプラットフォームへと巧みに誘導し、莫大なトラフィックと利益へと変換する仕組みを組み込む。
資本主義という巨大なゲームにおいて、熱狂する大衆は常に「養分」だ。
だが、俺はその熱狂を冷徹にコントロールし、確実な富の源泉として使い尽くす。
グラスの焼酎を静かに飲み干し、俺はキーボードに手を置いた。
静寂のペントハウスで、新たなシステムを構築するタイピング音だけが、深夜まで途切れることなく響き続けていた。




