第31話 黄昏の観覧車と情熱のパエリア
五月十日の月曜日。ゴールデンウィークの余韻は完全に消え去り、学内は目前に迫った中間テストへの焦燥感と、初夏の湿気を帯びた空気で満ちていた。
だが、俺にとって学業の成績など、すでに手の中に収まっている確定事項に過ぎない。俺の意識は常に、連休中に仕込んだ莫大な資金が市場でどう蠢き、どう結実するかに向けられている。憂鬱になっている暇など、一秒たりともない。
移動教室へ向かう途中、渡り廊下で霧島セイラ先輩とすれ違った。
完璧にプレスされた制服を纏い、背筋を伸ばして歩く彼女の姿は、周囲の喧騒を切り裂くような鋭さを帯びている。だが、その鋭さは同時に、限界まで張り詰めた糸のような危うさを孕んでいた。
霧島家を巡る金融機関の締め付けは、確実に彼女の足元を脅かし始めているはずだ。だが、彼女は誰にも弱みを見せない。その気高さこそが彼女の魅力であり、最大の枷でもある。
「……ごきげんよう、霧島先輩」
俺が声をかけると、彼女は足を止め、涼しげな瞳で俺を見た。
「……おはよう、西園寺くん。連休が明けても、相変わらず余裕そうね」
「ええ。休みが明けた時こそ、市場が最も大きく動く最大のビジネスチャンスですから」
「相変わらずね。……でも、その強欲さは嫌いじゃないわ」
彼女はフッと小さく笑った。
以前のような刺々しさは消え、対等なプレイヤーとしての敬意が微かに含まれているように感じる。
「結衣が言っていたわ。『西園寺くん、連休中に会えなくて寂しかった』って。中間テストが終わったら、また一緒に食事でもどう?」
「それは光栄ですね。……花村先輩にもよろしくお伝えください。テスト明けの祝杯には、俺が最高の席を用意します」
「ええ、楽しみにしているわ。……それじゃあ」
彼女は優雅に踵を返し、歩き去っていった。
その凛とした背中を見送りながら、俺はふと思った。
彼女が本当に心を許し、その氷の仮面の下にある脆さを晒す時。それを真正面から受け止めるのは、他の誰でもない、俺でありたいと。
放課後。
俺は柚木沙耶さんと待ち合わせをしていた。
場所は、お台場。今年の三月に開業したばかりの大型複合施設『パレットタウン』だ。
巨大な観覧車が、東京湾の夕暮れを背景にそびえ立っている。
「……ごめん、待った?」
海風が吹き抜ける広場に、沙耶さんが現れた。
今日の彼女は、黒のキャミソールワンピースに、透け感のあるシルクのカーディガンを羽織っている。周囲の喧騒から切り離されたような、静謐で洗練された大人の色香。すれ違う男性たちが、思わず振り返って視線を奪われているのが分かった。
「いいえ。俺も着いたところです」
「ふふ、なら良かった。……で? 急に『遊びに行きましょう』なんて、どういう風の吹き回し?」
彼女は悪戯っぽく俺を覗き込んだ。だが、その瞳の奥には、どこか警戒するような、あるいは戸惑うような色が滲んでいる。
「連休中、俺の秘書である舞のことで、柚木さんには色々とご配慮いただきましたから。そのささやかなお礼です」
「律儀ねぇ。……じゃあ、今日は年下の社長さんにエスコートしてもらいましょうか」
俺たちはパレットタウンのアミューズメント施設へ向かった。
ボウリングやクレーンゲームで束の間の休日を楽しむ。沙耶さんはいつものように笑い、俺を年下扱いしてからかってくる。だが、ふとした瞬間に彼女の口数が減り、どこか遠くを見つめるような重い沈黙が落ちることがあった。
日が沈み、辺りが完全に暗くなり始めた頃。
俺たちは大観覧車に乗ることにした。
ゴンドラがゆっくりと上昇していく。眼下には、宝石箱をひっくり返したような東京の夜景と、レインボーブリッジの輝きが広がっている。
密室。二人きりの空間。
「……綺麗ね」
沙耶さんは窓の外を見つめながら呟いた。ガラスに映る彼女の横顔は、いつもの余裕ある笑みではなく、ひどく切なげに歪んでいた。
「柚木さん。……何か悩み事ですか?」
俺が静かに切り出すと、彼女はビクリと肩を震わせた。
そして、ゆっくりと俺の方へ向き直る。
「……君は、鋭いから嫌いよ」
「投資家の職業病ですので」
「……はぁ。敵わないわね」
彼女は自嘲気味に笑い、膝の上でそっと両手を組んだ。
「ねえ、西園寺くん。……私、しばらく君と会うのを控えようと思うの」
静かな、だが明確な拒絶の言葉。
俺は表情を変えずに、その理由を待った。
「最初はね、ただの興味本位だったの。舞が入れ込んでる年下の男の子。どんな子なんだろうって。……でも、気づいたら私、君のことばかり考えてる自分がいるのよ」
「……」
「ダメなの。舞は、私のたった一人の大切な親友なの。あの子がどれだけ君に救われ、君を絶対的に信頼して想っているか、私が一番知ってる。……だから、これ以上近づいたら、私は舞を裏切ることになる」
沙耶さんの告白。
それは、彼女自身の芽生え始めた恋心の自覚と、親友への強烈な罪悪感の吐露だった。
彼女は舞の幸せを心から願っている。だからこそ、自分の感情がこれ以上制御できなくなる前に、自ら明確な線を引こうとしているのだ。
「……柚木さん」
俺が口を開きかけた時、彼女はスッと手を上げて俺の言葉を制した。
ゴンドラが頂上を過ぎ、ゆっくりと地上へと降りていく。
「何も言わないで。……君が悪いわけじゃない。私が、勝手に揺らいだだけだから」
地上に着いた瞬間、扉が開く。
彼女は逃げ出すような真似はしなかった。ゆっくりと立ち上がり、大人としての理性を保ったまま、俺に静かな微笑みを向けた。
「……ごめんね。今日のこと、忘れて。それじゃあ、また」
彼女は小さく手を振り、混雑する夜の広場へと歩み去っていった。
その背中を追いかけることは、彼女の気高い決断を汚すことになる。俺はゴンドラから降り、彼女が人混みの中に完全に消えるまで、ただ静かに立ち尽くしていた。
彼女の優しさと、大人ゆえの自制心。それを抱きしめるには、俺と彼女たちの関係は、まだあまりにも複雑すぎた。
一人でマンションに帰ろうとしていた矢先、携帯電話が鳴った。
母からだ。
『Leo? 今夜、空いてる?』
「……ええ。ちょうど帰るところです」
『じゃあ、六本木のホテルまで来てくれる? ちょっと話したいことがあるの』
彼女の声は明るかったが、どこか含みのある響きだった。
俺はタクシーを拾い、母の滞在するホテルへと向かった。ラウンジで待っていた母は、いつものように美しかったが、少し拗ねたような表情をしていた。
「……昨日は母の日だったのに。私の可愛い息子は、顔も見せてくれなかったわね」
ああ、やはりそこか。
昨日はアキバの実地調査に行き、自炊をし、ビジネスの布石を打つことに没頭してしまっていた。完全に失念していたわけではないが、優先順位を見誤ったようだ。
「申し訳ありません、母さん。……急な仕事が入ってしまいまして」
「言い訳は聞かないわ。……罰として、今夜は私をエスコートしなさい。夕食、まだでしょう?」
彼女はニッコリと笑った。許してくれているようだが、埋め合わせは必須だ。
俺は即座に提案した。
「では、僕の部屋で埋め合わせをさせてください。……最高級のパエリアをご馳走します」
「Paella? ……あら、いいじゃない。乗ったわ!」
母の機嫌は現金なものだ。俺たちはそのまま麻布の高級スーパーへと直行した。
鮮魚コーナーで、手長エビとムール貝、大ぶりのハマグリを購入。さらに鶏肉とチョリソー、パプリカ。
米は、スープを極限まで吸い込んでも崩れないスペイン産の『ボンバ米』を確保した。サフランも惜しまず最上級のものを使う。
酒は、スペインのスパークリングワインの最高峰、『カヴァ』を選んだ。
帰宅後、俺はキッチンで腕を振るった。
専用のパエリア鍋にオリーブオイルを熱し、微塵切りのニンニクと玉ねぎをじっくりと炒める。鶏肉とチョリソーを加え、旨味の脂を出す。
ここで、洗っていないボンバ米を投入する。米粒が透き通るまで炒め、油で完全にコーティングするのが極意だ。そこに、サフランを溶かした熱々のブイヨンを一気に注ぎ込む。
――ジュワアアァァッ!
香ばしい湯気が立ち上る。魚介類を美しく並べ、あとは弱火でじっくりと炊き上げる。
米がスープを吸い込み、鍋底でチリチリとお焦げができる音に耳を澄ませる。
「……できた」
炊き上がったパエリアは、黄金色に輝き、魚介の赤や緑が映える芸術品のような仕上がりだった。
母とカヴァで乾杯し、熱々のパエリアを頬張る。
魚介の濃厚な旨味を吸った米のアルデンテ感と、お焦げのカリカリとした食感。そこに冷えたカヴァのドライな果実味が合わさり、極上のマリアージュを生み出す。
「……美味しいわ、Leo。昨日の寂しさなんて吹き飛んじゃった」
「それは良かった。……いつも感謝していますよ、母さん」
俺は素直に感謝を伝えた。沙耶さんとの一件で心がざわついていたが、母との食事で少し落ち着きを取り戻せた気がする。
母をハイヤーで見送った後、俺の携帯に天童くるみさんからメッセージが入った。
『今、公園でダンスの練習してるんだけど、どうしてもサビの振りが上手くいかなくて……レオ、時間ある?』
俺は即座に眉をひそめた。トップアイドルへの階段を登り始めている「商品」が、深夜の野外で一人で踊っているなど、リスク管理の観点から絶対に容認できない。パパラッチに狙われるか、あるいは不審者に絡まれる危険性すらある。
俺はすぐに彼女に電話をかけ、公園での練習を即刻中止させた。その足で自社の車を手配し、彼女を完全防音・セキュリティ完備の地下プライベートスタジオへと移動させた。
「……ごめん、レオ。つい焦っちゃって」
全面鏡張りのスタジオで、くるみさんは少し気まずそうに肩をすくめた。
「努力は認めますが、今のくるみさんは自分一人の身体ではないことを自覚してください。……さて、問題のサビを見せてください」
彼女が音楽に合わせて踊る。確かに、動きにキレはあるが、どこか視線が泳ぎ、空間を持て余しているように見えた。
俺は客観的な視点から、彼女のパフォーマンスにおける視線の配り方についてアドバイスを送った。
「……ステップ自体は間違っていません。ですが、ターンに入る時、観客を意識できていない。自分の足元ではなく、フロアの奥まで視線を投げるんです。俺がリードしますから、タイミングを合わせてください」
俺は彼女の横に立ち、カウントを取りながら一緒にステップを踏む。
彼女の呼吸を読み、少しだけ大きな動きで引っ張っていく。
俺のリードに合わせてターンを繰り返すうち、彼女の動きから迷いが消え、空間を切り裂くようなシャープなシルエットが生まれ始めた。
「……はぁ、はぁ。……すごい! なんだか、一気に視界が開けた気がする!」
息を切らしながらも、彼女の顔には充実した笑みが浮かんでいた。
その横顔は、プロの表現者としての覚悟に満ちている。
沙耶さんの件で感じた、複雑に絡み合う感情の糸とは違う。一つの明確な目標に向かって走る人間の、どこまでも真っ直ぐで清々しい熱量。
その熱を間近で浴びながら、俺は静かに口元を綻ばせた。




