第29話 青き怪物の咆哮と週末の洗車
ゴールデンウィークの喧騒がすっかり鳴りを潜めた、五月半ばの週末。
抜けるような青空から降り注ぐ陽光が、ペントハウスの広大なリビングを明るく照らし出していた。
午前中、俺は自宅であるこの部屋に、クラスメイトの城戸隼人を招いていた。
名目は「中間テスト対策・緊急強化合宿」だ。
「……で、ここの現在完了形が『継続』になる理由は?」
「えーっと……『since』があるから?」
「正解だ。期間を表す『for』や起点を表す『since』があれば、基本的には継続用法と判断していい。現在完了は『過去から今まで繋がっている線』をイメージしろ」
俺が図解を交えて解説すると、隼人は「っしゃあ!」と大きな声でガッツポーズをした。
派手な外見とは裏腹に、ノートに向かう彼の眼差しは、アスリート特有の鋭い集中力を帯びていた。
体育教師の鷹森という重圧から完全に解放された彼は、水を得た魚のように本来の活力を取り戻している。元々、陸上で鍛え上げた体力と忍耐力があり、地頭も悪くない。学習のコツさえ掴めば、赤点回避どころか平均点以上も容易に狙えるだろう。
「西園寺、お前マジで教えんの上手いな。どっかの予備校のカリスマ講師になれるんじゃねぇの?」
「人に教えるという行為は、自分の論理的思考を再構築するプロセスにもなる。俺にとっても頭の体操として有益な時間だよ」
「またそういう小難しいこと言って……。ま、サンキュな。これで赤点での部活停止は免れそうだわ。来週から、またトラック走れそうだしよ」
隼人は大きく背伸びをして、ペンを置いた。
その横顔には、もう過去の理不尽な暴力に怯える影はない。自分の足で未来を切り拓こうとする、少年の純粋な力強さがあった。
「よし、午前中のノルマは達成だ。……昼飯はどうする? 何か出前でも取るか。寿司か、鰻でも」
「おっ、マジか!? いや、せっかくならジャンクなもん食いてぇな! ピザ! Lサイズのペパロニとテリヤキのハーフ&ハーフで!」
「……お前の胃袋は底なしか」
俺は苦笑しながら、引き出しから宅配ピザのチラシを取り出した。
普段は健康管理のために避けているジャンクフードだが、必死に脳をフル回転させた後の身体には、暴力的なまでの糖質と脂質が最高の報酬になるのだろう。
数十分後、届いた焼きたてのLサイズピザを男二人で囲み、炭酸飲料を煽りながら他愛のない話で盛り上がる。
それは、大人のビジネス社会では決して味わうことのできない、損得勘定の一切ない純粋な時間だった。
午後。
隼人が「腹ごなしにひとっ走り行ってくるわ!」と嵐のように帰っていった後、俺はハイヤーを呼び出し、秘書の如月舞と合流した。
向かった先は、都内の日産プリンス販売会社だ。
広々としたショールームの最も目立つ特等席に、その「怪物」は鎮座していた。
『スカイラインGT-R(BNR34)』。
今年の1月に発売されたばかりの、日産が誇るスポーツカーの最高峰にして最新モデルだ。
アスリートの筋肉のように引き締まったボディライン、伝統の丸目4灯テールランプ、そして獲物を睨みつけるような攻撃的なフロントマスク。
展示車のカラーは、このモデルを象徴する鮮烈な「ベイサイドブルー」だ。
「人に翼を」というキャッチコピーと共に登場したこの車は、国産スポーツカーの黄金期を締めくくる、内燃機関の歴史に残る最後の傑作となる。
「……美しいな」
俺は思わず感嘆の息を漏らし、滑らかなボディラインに沿って視線を滑らせた。
ボンネットの下に収められているのは、名機『RB26DETT』。直列6気筒ツインターボエンジンだ。
カタログスペックは当時の国内自主規制枠いっぱいの280馬力とされているが、実力はその比ではない。アテーサE-TSプロによる高度な四輪駆動制御は、物理法則を無視したかのような圧倒的なコーナリング性能を叩き出す。
「社長。……本日は、こちらのお車を購入されるのですか?」
俺の一歩斜め後ろに立つ舞が、少し困惑したような声で尋ねた。
今日の彼女は、休日の呼び出しにも関わらず、完璧に仕立てられたチャコールグレーのパンツスーツ姿だ。その隙のない知的な美貌と凛とした佇まいは、ショールームの営業マンたちの視線を完全に釘付けにしている。
「ああ。最高グレードの『V-spec』だ。専用のエアロパーツとカーボンディフューザーが装備されているモデルを選ぶ。オプションもフル装備で手配してくれ」
「……承知いたしました。ですが、社長はまだ運転免許を取得できる年齢ではありません。実用性という点では、現行の送迎用ハイヤーで十分かと存じますが」
「投資だよ、舞」
俺はベイサイドブルーのボンネットに軽く指先を触れた。
ひんやりとした金属の感触の奥に、猛獣の心臓が眠っているのを感じる。
「このV-specの新車価格は、諸経費込みで約600万円といったところだ。……だが、25年後にはどうなっていると思う?」
「……中古車になれば、当然ながら年式相応に減価償却され、価値は下がるものでは?」
「通常の車ならな。だが、こいつは例外中の例外だ。これから世界は環境規制を強め、ガソリンエンジンの内燃機関は終焉を迎え、電気自動車が主流になる。その未来において、純粋な『走る喜び』を追求したこの『R34』は、もはや車ではなく伝説の工芸品になる」
俺は断言した。
2020年代、R34 GT-Rの中古価格は世界的な需要の爆発により異常な高騰を見せる。状態の良い個体なら3,000万円から5,000万円は下らない。
アメリカの輸入規制である「25年ルール」が解禁された瞬間、JDM(日本国内市場)スポーツカーの頂点であるこの車を求めて、世界中の富裕層やコレクターが血で血を洗う争奪戦を繰り広げるからだ。
「つまり、今ここで600万円で買っておけば、ガレージでただ眠らせておくだけで数千万円の確実な資産になる。……利回りで言えば、下手な金融商品や不動産よりも遥かに優秀で手堅いリターンを生む」
「……車という実物資産が、そこまでの価値を生むのですね。社長の読みが外れたことは一度もありませんから、信じます」
舞は半信半疑ながらも、すぐに手元の端末を取り出し、実務の段取りに入った。
営業担当者を呼び、法人の実務権限を持つ舞が、淀みない手つきで契約書にサインと代表印を押印していく。個人ではなく、「レオ・キャピタル」という強固な法人の名の下にすべてが処理され、支払いはキャッシュ一括だ。
「納車までの間は、マンションの地下駐車場に専用のセキュリティゲート付きガレージを追加で確保し、そこで厳重に保管する。運転は……俺が免許を取るまではお前に任せるか、あるいはクローズドのサーキットを貸し切って走らせるのもいいだろう」
「私が、このモンスターを運転するのですか……? 少し、荷が重いかもしれません」
「お前の冷静なアクセルワークなら十分に乗りこなせるさ。……それに、単純に手元に置いておきたいんだ。男のロマンとしてね」
俺がそう言うと、舞は少し呆れたように、しかし可笑しそうに微笑んだ。
契約を済ませ、俺は再び青き怪物を見つめた。
その獰猛な姿は、これから俺が駆け抜ける激動の時代を共に戦う、無言の相棒のように見えた。
ディーラーを出た後、俺は舞と別れて広尾のカフェに向かった。
オープンテラスの奥まった席で待っていると、指定した時間通りに、一人の女性が近づいてきた。
「……お待たせ、レオ」
天童くるみさんだ。
深めのバケットハットと鼈甲縁の伊達眼鏡で巧みに素顔を隠している。だが、徹底的に磨き上げられたプロポーションと、周囲の空気を切り裂くような凛とした歩き方は、どれほど隠そうとしても一人の表現者としての特異な存在感を放っていた。
「こんにちは、くるみさん。わざわざ呼び出してすみません」
「いいわよ、ちょうどオフだったし。……で? 急に呼び出してどうしたのよ。改まって」
彼女は俺の向かいの席に座り、伊達眼鏡を少しだけずらして大きな瞳を覗かせた。
俺は手元のブリーフケースから、数枚の資料を取り出してテーブルに置いた。
「先日から全国で放映が開始されたモバイルECサイトのテレビCMは、期待を遥かに上回る反響を呼んでいます。今日は来週に控えている、主要ファッション誌向けのタイアップ広告のスチール撮影についての最終すり合わせです」
「へへっ、数字出てるなら安心した! ……スチールの衣装デザイン、これね。うん、あの『新しい未来を見据える少女』っていうコンセプト、あたしなりにしっかり表現してみせるわ」
彼女はデザイン画を見つめながら、得意げに瞳を輝かせた。
その目には、かつて理不尽な大人たちの事情に振り回され、路地裏で怯えていた時の弱さは微塵もない。
一人の表現者としてのプロの矜持と、未来への確かな希望が宿っている。
「それにね、最近すごく楽しいの。……仕事が」
「ほう?」
「前まではさ、事務所の大人たちに言われた通りに笑って、与えられた歌をただ歌ってただけだった。……でも今は、レオが作ってくれたこの大きなステージで、どうやったら一番輝けるか、どうすれば見ている人の心を動かせるか、自分で考えるのが面白くて仕方ないの」
彼女はストローをくるくると回しながら、少し照れくさそうに笑った。
「……ありがとね。あんたのおかげで、あたし、アイドル辞めなくて済んだよ」
「礼には及びません。俺は投資家として、最も勝率の高い馬に賭けただけです。くるみさんの魅力と実力が本物だからこそ、このプロジェクトは成立するんです」
「むぅ……相変わらず可愛くない言い方。そこは『君の魅力に惹かれたからだ』とか、甘いセリフを言うとこでしょ!」
くるみさんは頬を膨らませて抗議したが、その表情は心底楽しそうだ。
オーナーと所属タレントという契約上の関係を超え、互いに信頼し合える対等なパートナーとしての距離感。それが今の俺たちにはある。
「……じゃ、あたしそろそろ行くね。明日のために、表情の練習しとかなきゃ」
「送りますよ」
「いいって。事務所の車が近くで待機してるから。……じゃあね、レオ! 来週の撮影も、絶対にいいものにするからね!」
彼女は席を立ち、待機させていた事務所のバンへと軽やかなステップで乗り込んだ。スモークガラスの奥から自信に満ちたウインクを残して、車は静かに走り去っていった。
その軌跡は、以前よりもずっと大きく、頼もしい表現者のそれに成長していた。
帰宅後。
エントランスを抜けると、微かにシトラスの香りが漂っていた。
俺が外出している間に、専属契約を結んでいるプロのハウスクリーニング業者が入り、広大なペントハウスの隅々まで完璧に仕上げて退室した証だ。
物理的なタスクはすべてプロに外注し、俺は浮いた時間を億を生み出す思考と決断のためだけに投資する。それが資本家としての絶対的なルールだ。
俺はジャケットを脱ぎ、静まり返った書斎のデスクについた。
今日は一日、実社会を動き回った。
隼人との勉強、GT-Rという物理的な名車の購入、くるみさんとの打ち合わせ。
デスクの上に設置されたマルチモニターを起動し、さらに手元には、ドコモから提供されているiモードのテスト用端末を用意する。
数日後にプレオープンを迎える自社サイトの、最終のUIチェックだ。
モノクロの小さな液晶画面。表示できる文字数にも厳しい制限があり、画像の読み込みにも時間がかかる。
現代の感覚からすれば、あまりにも不自由で原始的な環境だ。
「……だが、この不自由さの中にこそ、ユーザーの想像力を掻き立てる余白がある」
俺は端末のテンキーを親指で操作し、リンクの配置、文字のスクロール速度、そして購入ボタンへの導線を自らの手で一つずつ確認していく。
コンマ数秒のレスポンスの遅れが、ユーザーの離脱を招く。無駄な装飾を削ぎ落とし、いかに直感的に「欲しい」と思わせるか。
俺は気になる点を即座にキーボードで打ち込み、エンジニアチームへ修正指示を飛ばした。
今日手に入れたGT-Rの、ガソリンを爆発させて走る野性的な咆哮。
そして今、目の前の画面の中で、無音のまま数百万人のデータを処理しようとしているデジタルなインフラ。
アナログの極致と、デジタルの夜明け。
その両方を掌握し、来るべき未来の頂点に立つ。
静寂に包まれたペントハウスの書斎で、マウスをクリックする硬質な音だけが、新たな時代を開く秒針のように静かに響き続けていた。




