第28話 国民服の夜明けとほろ酔いの心理学
ゴールデンウィーク明けの喧騒が少し落ち着き始めた、五月の第二週。
空は薄い雲に覆われ、初夏の強い日差しを和らげている。
俺は通学用のハイヤーの静謐な車内で、秘書の舞から送られてきた暗号化されたレポートに目を通していた。
『――指示通り、ファーストリテイリング株の底値圏での大規模な買い集めを完了いたしました。市場の警戒を引かないよう、複数のダミー口座を経由し、時間をかけて分散取得しております』
完璧な仕事だ。
世間の投資家たちが、ソフトバンクやヤフーといったIT関連銘柄の乱高下に熱狂し、実体のないバブルの波に踊らされている間、俺たちはその裏で、確実な実体経済の「勝者」を青田買いした。
先日、オフィスで舞に語った通りだ。来るべきデフレ不況において、この銘柄は為替リスクや技術革新の波に左右されにくい、俺のポートフォリオにおける最強のディフェンシブ・ストックとなる。
「……ご苦労。これで実体経済におけるヘッジは完了した。ITバブルが弾けた時の、強力な防波堤になる」
俺は短い返信を打ち込み、ノートパソコンを閉じた。
投じた巨額の資金は、数年後には一つの企業を買収できるほどの強大なキャッシュマシーンへと化けるはずだ。
盤石な基盤は整った。俺は思考を切り替え、これから向かう学園での立ち回りへと意識を向けた。
1限目、公民。
教壇には、規律に厳しいスパルタ教師の真田厳が立っている。
体育教師の鷹森が自首し、学園から姿を消して数日が経過していた。
暴力という理不尽な抑圧から解放された生徒たちの顔には、目に見えて生気が戻っている。俺の隣の席の城戸隼人も、もはや怯えた様子を見せることなく、真面目にノートを取っていた。
今日の授業内容は「法と権力の自浄作用」についてだ。
真田は黒板に力強いチョークの文字を書き連ね、ふと生徒たちの方を振り返った。
「……権力というものは、構造的に腐敗しやすい性質を持っている。だが、健全な組織には、その腐敗を内部から取り除く『自浄作用』が備わっていなければならない。……西園寺。この自浄作用が機能しなくなった時、組織はどうなるか。君の考えを述べよ」
真田の鋭い視線が俺を射抜いた。
彼は鷹森の一件について、何かを感じ取っているのかもしれない。だが、確証はないはずだ。
俺はゆっくりと立ち上がり、冷徹なロジックを紡いだ。
「自浄作用を失った組織は、外部からの強烈な圧力、あるいは致命的なスキャンダルの露見によって、強制的に解体されるしかありません。腐敗した個の隠蔽は、やがて組織全体の信用を失墜させます。ゆえに、真に合理的な組織であれば、傷が浅いうちに自ら『ガン細胞』を切り捨てる冷酷な決断を下すべきです」
「……なるほど。綺麗事ではない、極めて冷徹な組織論だ」
真田は小さく頷いた。
「外部からの強烈な圧力、か。……確かに、時としてそれは、組織にとって必要なショック療法になり得る。座ってよろしい」
真田の言葉には、どこか安堵したような響きが含まれていた。
鷹森の横暴を苦々しく思いながらも、教師という立場のしがらみから手を出せなかった者たちにとって、今回の外部告発による「強制的な自浄」は、望外の救いであったはずだ。
俺は静かに着席し、再び黒板へと視線を戻した。
昼休み。
俺は購買で水を買った帰り、渡り廊下で一人の女子生徒とすれ違った。
生徒会副会長、霧島セイラ先輩だ。
艶やかな黒髪とエキゾチックな美貌は相変わらずだが、以前のような、周囲を威圧するようなピリピリとした空気は少し和らいでいるように見えた。
「……こんにちは、霧島先輩。生徒会のお仕事ですか?」
俺が声をかけると、彼女は足を止め、涼しげな瞳で俺を見た。
「ええ。体育祭の予算編成のやり直しよ。……あの元体育教師が、信じられないくらい杜撰な経理をしていたせいでね」
「それは災難ですね。ですが、腐敗した柱が折れたことで、生徒会の風通しも少しは良くなったのではありませんか?」
俺がカマをかけると、セイラ先輩はフッと小さく笑った。
「……ええ。おかげで、鷹森の後ろ盾だった無能な理事たちも、今はすっかり大人しくなっているわ」
彼女は周囲に人がいないことを確認し、声を潜めた。
「あの男が自首に追い込まれるほどの完璧な証拠。……警察やマスコミにリークしたのが誰なのか、私には何となく想像がつくわ」
「俺は一介の高校生ですよ。世の中には、自らの悪行の重さに耐えかねて自滅していく人間もいるというだけです」
「ふふ、そう言うと思ったわ。絶対に尻尾を出さないのね」
彼女の瞳には、警戒よりも、得体の知れない実力者に対する奇妙な信頼感が混じり始めていた。
没落寸前の霧島家を背負う彼女にとって、盤面をひっくり返す力を持つ存在は、敵に回すよりも味方につけた方が得策だと判断したのだろう。
彼女の抱える時限爆弾のタイムリミットが来れば、俺がその力を行使する番だ。
放課後。
俺は渋谷の桜丘町にある「レオ・キャピタル」のオフィスに直行した。
来週に迫ったモバイル事業――着信メロディ配信サイトのローンチに向けた、最終ミーティングのためだ。
無機質な会議室には、舞の他に、大手SIerから破格の報酬で引き抜いたリードエンジニアの男が同席していた。
「着メロ配信サーバーのロードバランシングテストの結果はどうなっている」
俺が尋ねると、目の下に薄いクマを作ったエンジニアが、自信に満ちた表情で分厚い資料を提示した。
「完璧です、社長。想定される最大トラフィックの3倍の負荷をダミーデータでぶつけましたが、分散処理のアルゴリズムが正常に機能し、サーバー群のCPU使用率は平均40%以下を維持しています。これなら、ドコモの公式メニューのトップに載って全国からアクセスが殺到しても、絶対に落ちません」
「見事だ。インフラの圧倒的な安定性こそが、我々の最大の武器になる。落ちないサイトは、それだけで顧客の信頼を生む」
「ええ。プロとして、最高の環境を構築しました。あとはリリースを待つだけです」
エンジニアが力強く頷く。
この時代、アクセス集中によるサーバーダウンはどの企業も抱える致命的な弱点だ。そこに巨額の先行投資を行い、本物のプロを雇い入れた資本力こそが、俺の強みだ。
「舞。天童くるみを起用した雑誌広告の出稿スケジュールも問題ないな?」
「はい。主要な女子高生向けファッション誌の次号において、表4と巻頭カラーを見開きでジャックします。キャッチコピーは『あなたの携帯が、あなただけの音楽になる』。事前のリサーチでも、ターゲット層の反応は上々です」
「上出来だ。ローンチ初日からフルスロットルでいくぞ」
実務的な確認を終え、俺はオフィスを後にした。
向かったのは、青山通りから少し路地に入った場所にある、閑静なオープンテラスのカフェだ。
舞から頼まれた、大学のゼミで使用する専門書の資料を、彼女の親友である柚木沙耶に手渡すためである。
過労から復帰したばかりの舞に無理をさせないための、ボスとしての小さな配慮だ。
テラス席で、柚木はすでにアールグレイのティーカップを傾けていた。
今日の彼女は、黒のタイトなタートルネックに、細身のパンツスタイル。
飾り気のないシンプルな装いが、彼女の持つアンニュイな美貌と、シャープな知性を際立たせている。
「……お待たせしました、柚木さん。頼まれていた資料です」
「わざわざごめんなさいね、社長さん。舞ったら、復帰した途端にまた仕事の鬼になっちゃって。……まあ、君が休ませてるみたいだから、前ほど無茶はしてないようだけど」
柚木は資料を受け取り、探るような、どこか見透かすような視線で俺を見つめた。
「……学園の方、大変だったみたいね」
「何のことですか?」
「とぼけなくていいわよ。ニュースで見たわ。君の学校の体育教師が、傷害と横領で逮捕されたって話」
彼女はカップをソーサーに置き、口元に微かな笑みを浮かべた。
「あの生真面目な舞が、先月あたりから妙に法律や探偵まがいの身辺調査の資料を読み漁っていたのよ。……そして、連休明けに君の学校の厄介な教師が、完璧な証拠を突きつけられて自首した。……偶然にしては、出来すぎていると思わない?」
心理学を専攻する彼女の観察眼と推理力は、並の大人を遥かに凌駕している。
俺と舞の動きから、裏で糸を引いたのが誰なのか、完全にアタリをつけているのだ。
「……想像力が豊かですね。ですが、世の中には自らの悪行の重さに耐えかねて、勝手に自滅していく人間もいるものです」
俺は表情を一切崩さず、静かにアイスコーヒーを啜った。
明確な肯定も否定もしない。それが大人の交渉術だ。
「ふふっ……ほんと、可愛げのない高校生。絶対に尻尾を掴ませないんだから」
柚木は呆れたように息を吐いたが、その瞳には非難の色はなく、むしろ得体の知れない存在に対する強い知的好奇心が宿っていた。
「でも、感謝してるわ。君が舞を利用したんじゃなく、舞の能力を正しく評価して、一緒に戦ってくれてること。……あの子、今すごく生き生きしてるから」
「彼女は優秀なパートナーです。俺のビジネスに不可欠な存在ですよ」
「……ビジネス、ね」
柚木は頬杖をつき、俺の顔をじっと見つめた。
大人の色気と、心理学者としての鋭いメスのような視線が交錯する。
「君を見ていると、時々不思議な感覚になるの。15歳の少年と話しているはずなのに、まるで、はるか年上の、何十年も修羅場を潜り抜けてきた熟練の勝負師と対峙しているような……そんな錯覚に陥るわ」
「……買い被りすぎです。ただの、少し理屈っぽい高校生ですよ」
「そう言っておくわ。……でも、気をつけてね。あまり深みにハマって、君自身が怪物のようにならないように」
それは、彼女なりの真摯な忠告だった。
深淵を覗く者は、深淵からもまた覗かれている。
強大な力と金を持てば、人間は容易くその本質を見失う。彼女は心理学の徒として、その危険性を危惧してくれているのだ。
「肝に銘じておきます。俺の目的は、あくまで平穏な日常と、大切なものを守るための力を得ることですから」
「……なら、いいけど」
柚木は柔らかく微笑み、ティーカップを持ち上げた。
互いの知性と境界線を尊重し合う、心地よい緊張感。
こうした大人の対話ができる相手は、今の俺にとって非常に貴重な存在だ。
カフェを出て彼女と別れた後、俺は麻布十番にある贔屓の鮮魚店へと向かった。
ビジネスの大きな節目を前に、今日は自室で静かに英気を養うと決めていた。
選んだのは、初夏の訪れを告げる『初鰹』のサクと、氷水の中で跳ね回る活きの良い『稚鮎』だ。
酒は、山形の銘酒『八海山』の大吟醸を購入した。
帰宅後、俺はすぐにキッチンに立った。
まずは初鰹だ。
鮮やかな赤身のサクに金串を打ち、プロ用の高火力コンロの直火で一気に表面を炙る。
パチパチと皮目の脂が弾け、香ばしい匂いが立ち上った瞬間に火から下ろし、氷水に取って身を締める。
水気をしっかりと拭き取り、厚めに切り分ける。
たっぷりの茗荷、千切りの大葉、そしておろしたての生姜とニンニクを乗せ、柑橘を効かせた自家製のポン酢を回しかける。
並行して、稚鮎の下処理を行う。
腹を絞って砂を出し、薄く衣を纏わせる。
180度に熱した太白胡麻油に静かに滑り込ませると、ジュワッという軽快な音が響く。
骨まで食べられるよう、カラリと揚げて塩を振る。
ダイニングテーブルに料理を並べ、冷酒グラスに『八海山』を注ぐ。
透き通った液体から、フルーティーな吟醸香が漂う。
「いただきます」
まずは初鰹のタタキから。
口に運ぶと、濃厚な赤身の旨味と、炙った皮目の香ばしさが、薬味の鮮烈な風味と共に弾けた。
力強い初夏の味が、身体の細胞を目覚めさせていく。
すかさず大吟醸を一口。
透明感のあるキレの良い味わいが、鰹の鉄分を綺麗に洗い流す。
続いて、稚鮎の天ぷらだ。
サクッとした衣を噛み破ると、ふっくらとした白身の中から、鮎特有の川苔のような爽やかな香りと、ワタの心地よい苦味が広がる。
そこに再び冷酒を合わせる。
魚の繊細な苦味と日本酒の甘みが、口の中で完璧な調和を見せた。
無駄な感傷も、不要なポエムも入り込む余地のない、研ぎ澄まされた味覚との対話。
一人静かに味わうこの孤独な美食こそが、戦う男にとって最高の報酬だ。
食後。
俺はリビングのソファに深く腰掛け、手元の最新型携帯電話――iモード端末を開いた。
画面には、明日全国に向けてローンチされる自社の着信メロディ配信サイトの、最終テスト画面が表示されている。
シンプルなテキストとリンクの羅列。
だが、この小さな液晶画面の向こうには、数百万、数千万という巨大なユーザーと、莫大な金脈が眠っている。
窓の外の夜景を見下ろす必要などない。
世界はすでに、この手のひらの中にあるのだから。
俺は画面を静かに閉じ、明日から始まる新しい戦いへ向けて、鋭い闘志の炎を静かに燃やし続けた。




