第27話 搾取される善意とユニクロの夜明け
ゴールデンウィークが明け、東京の街には日常の喧騒が戻っていた。
五月病の気配が漂う気だるげな朝。
俺は、通学用のハイヤーの後部座席でノートパソコンを開き、昨夜の米国市場の終値を確認していた。
連休中に仕込んだ複数の銘柄群は、俺の想定したラインを正確にトレースしながら、市場の片隅で静かに身を潜めている。
今はまだ誰にも見向きもされていないペニー株たち。だが、これらが数年後に世界を席巻し、投じた資金を天文学的な数字へとバケさせることは確定している。
1999年から2020年代にかけてのこれらの株価上昇率は、株式分割を考慮すれば凄まじい倍率になる。現実的な利確ラインで計算しても、投じた資金は数百億から一千億円クラスの強大な資産へと膨れ上がるポテンシャルを秘めているのだ。
「……圧倒的な資本力こそが、最強の盾となる」
無駄な感傷や自己陶酔は不要だ。ディスプレイに並ぶ数字の羅列だけが、盤石な未来への確かな道標となる。
俺は静かにPCを閉じ、これから向かう学園という閉鎖空間へと意識のスイッチを切り替えた。
学校に到着し、1年A組の教室に入る。
そこは連休明け特有の重苦しい空気と、ある一つのニュースに対する異様な熱気がないまぜになっていた。
「おい、聞いたかよ。鷹森のオッサン、マジで警察にパクられたらしいぜ」
「体罰だけじゃなくて、部費ちょろまかしてたってマジ?」
黒板の前に集まった男子生徒たちが、声を潜めながらも興奮気味に噂話に花を咲かせている。
俺が自席に鞄を置くと、隣の席から不敵な笑みを浮かべた城戸隼人が身を乗り出してきた。
「よぉ、西園寺。……聞いたか? 鬱陶しい厄介払いが済んだらしいぜ」
「ああ。自業自得というやつだな」
「へっ、違いねぇ。……昨日、陸上部の顧問やってる別の先生から声かけられてさ。もう一回、トラック走ってみる気はないかってよ」
隼人は少し照れくさそうに、鼻の頭を擦った。
中学時代に理不尽な指導で足を壊され、入学直後から鷹森にも目をつけられていた彼にとって、学園のグラウンドは忌まわしい記憶の象徴だったはずだ。だが、呪縛の元凶が完全に社会から消え去った今、彼の目には再び闘志の火が灯り始めている。
「良い知らせだ。お前の本来の居場所は、そこだろう」
「……おう。ブランクがあるからすぐにタイムは戻んねぇだろうけどな。まあ、ボチボチやってくわ。お前も、たまには見学に来いよな」
「気が向いたらな」
俺は短く答え、彼との拳を軽く合わせた。
権力という不完全なシステムによって不当に抑圧されていた才能が、再び自らの意志で動き出す。俺が裏で引いたトリガーは、確実に関係者の運命を好転させている。
HR前の慌ただしさが落ち着き始めた頃、今度は日向翔太の机の周りが騒がしくなった。
「おい翔太! このノートすげぇな! めっちゃ分かりやすいじゃん!」
「マジで? お前がまとめたの? 意外と天才じゃん!」
男子生徒たちが群がり、コピーされたプリントを奪い合っている。
それは、来週に迫った中間テストの対策ノートのコピーだった。
要点が完璧に整理され、重要な箇所には手書きの丁寧な図解まで入っている。誰が見ても一級品の学習資料だ。
翔太は机にふんぞり返り、得意満面で鼻を鳴らした。
「へっ、まあな! 俺様にかかればこんなもんよ。感謝しろよお前ら!」
「すげー! さすが翔太!」
中身のない称賛を浴びる翔太。
だが、その光景を、教室の隅から静かな怒りを湛えた瞳で見つめる少女がいた。
桜木マナだ。
クラスでも一際目を引く可憐な彼女は、意を決したように群がっている男子たちの輪を掻き分け、翔太の元へ歩み寄った。
「……翔太。それ、私が自分のためにまとめたノートだよね。勝手にカバンから出さないで」
教室が一瞬静まり返る。
マナの声は低く、はっきりとしていた。
連休中、彼女が自分の将来と実家の店のために必死で勉強し、作り上げたノート。それを翔太は無断で盗み出し、あろうことか「自分が作った」と吹聴して配り歩いているのだ。
翔太はバツが悪そうにするどころか、面倒くさそうに顔をしかめた。
「あー、バレた? まぁいいじゃん、細かいこと言うなよマナ。お前のノート分かりやすいから、みんなにシェアしてやったんだよ。感謝されこそすれ、文句言われる筋合いなくね?」
盗人猛々しいとはこのことだ。
彼は自分の薄っぺらな承認欲求を満たすために、他人の血のにじむような努力を平然と搾取している。
無自覚な悪意。彼は本気で「良いことをした」と信じ込んでいるのだ。
「最低。……私はもう、翔太のモノでも世話係でもないって言ったはずだよ」
「はあ? 減るもんじゃないし、ケチくせーこと言うなよ! お前、最近調子乗ってんぞ!」
翔太が逆ギレし、苛立たしげに机を蹴った。
ガンッ、という音が教室に響き、空気が凍りつく。
その瞬間、俺は席を立った。
だが、俺が動くより早く、後方の席から高城藍が動いていた。
「……いい加減にしなさい、泥棒猫」
藍が翔太の前に立ちはだかり、彼の手から原本のノートをひったくった。
涼しげな瞳が、路傍のゴミを見るような絶対零度の軽蔑を帯びている。
俺は彼女たちに近づき、幼稚な言い訳を喚き始めた翔太を完全に無視して、マナの正面に立った。
翔太の嘘を暴き、論破することは造作もない。だが、それでは彼女がより高い場所へ飛び立つための「きっかけ」にはならない。
「……桜木さん」
俺は胸ポケットから、一冊の真新しいパンフレットを取り出し、彼女に差し出した。
大手予備校の『特待生選抜試験』の案内だ。
「これを。桜木さんの学力と、そのノートをまとめる高度な分析力なら、特待生として無料で最高レベルの授業が受けられます」
「え……西園寺くん?」
「桜木さんの才能と努力は、それを搾取する人間のために浪費していい資源じゃない。桜木さん自身の未来のために、正しく投資するべきだ」
俺の言葉に、マナはハッとして顔を上げた。
その瞳から、幼馴染への僅かな戸惑いすらも完全に消え去っていくのが分かった。
「……うん。私、受けてみる。……ありがとう、西園寺くん」
彼女は涙を拭い、パンフレットを両手でしっかりと受け取った。
「もし勉強で行き詰まることがあれば、いつでも相談に乗る。桜木さんの優秀な頭脳なら、すぐに結果はついてくるはずだ」
「……うんっ!」
マナの顔に、迷いのない清々しい笑顔が浮かんだ。翔太への依存を完全に断ち切り、自立した一人の女性として歩み始めた瞬間だった。
翔太は「おい無視すんなよ!」と喚いていたが、クラスメイトたちの視線はすでに侮蔑を含んだ冷ややかなものに変わっていた。他人の褌で相撲を取る人間の虚勢など、もはや誰の心も動かさない。
放課後。
俺は渋谷・桜丘町の「レオ・キャピタル」のオフィスに直行していた。
整然とデスクが並ぶ静謐なフロアで、秘書の舞と向かい合う。
まずは、現在進行中のモバイル事業の進捗確認からだ。
「社長、着信メロディの配信プラットフォーム構築についてですが、システム開発は最終のテストフェーズに入りました。並行して進めている大手通信キャリアへの公式メニュー参入交渉も、大詰めの段階です」
舞が手元の資料を淀みなく読み上げる。
「先方の反応は?」
「我々が提示したサーバーの強靭なトラフィック処理能力と、天童くるみを起用したプロモーション計画の規模感に、先方の担当者も色めき立っています。競合他社を完全に凌駕するスペックですので、一等地のポジション確保は間違いありません」
「上出来だ。システムの安定性こそが、このビジネスの生命線になる。リリース初日からアクセスが集中しても、絶対にサーバーを落とすな」
「承知いたしました」
舞は力強く頷いた。
この時代、アクセス集中によるサーバーダウンはどの企業も抱える致命的な弱点だ。そこに莫大なインフラ投資を行える資本力こそが、俺たちのアドバンテージとなる。
「さて、次は投資の話だ。国内市場における、新規のヘッジ投資先を追加する。山口県に本社を置く『ファーストリテイリング』。ブランド名は『ユニクロ』だ」
舞は淀みない動作で、手元の端末に同社の財務状況を呼び出した。
「アパレル企業ですね。現在はソフトバンクやヤフーなど、IT関連銘柄に市場の資金が集中していますが、あえて低価格帯の実体経済に資金を投じるのでしょうか?」
「ああ。世間はIT革命という熱狂に浮かれているが、日本の実体経済は深刻な『デフレ』へと沈みつつある。山一證券の破綻以降、人々の財布の紐は固く結ばれている。このデフレ時代において、勝者となる条件は『圧倒的な低価格』と『実用的な品質』の両立だ」
「なるほど。SPA(製造小売業)モデルを確立し、企画から販売までを自社で完結させている同社なら、その条件を完全に満たせますね」
「そうだ。彼らが今年の冬に向けて進めている『フリース』の増産体制とマーケティング戦略の規模を分析すれば、結果は火を見るより明らかだ。凄まじい価格破壊で日本中を席巻する社会現象になる確率が極めて高い。それが、彼らが一介の地方衣料品店から国民的ブランドへと脱皮する歴史的瞬間になる。市場がそのポテンシャルに気づき、株価が爆発的に上昇する前に、今の底値圏で仕込んでおく」
俺のロジックを理解した舞の瞳に、鋭い知性の光が宿った。
「承知いたしました。ITバブルの波に乗ってハイテク株で利益を最大化しつつ、実体経済における『デフレの勝ち組』にも資金を振り分け、盤石なポートフォリオを構築するのですね。ただちに市場で買い集めを開始します」
舞がキーボードを叩き、静かなオフィスに心地よいタイピング音が響き始めた。
俺は手元に置かれたブラックコーヒーを一口飲み、すでに画面に表示させていた次のM&A候補のリストへと視線を移した。
立ち止まって過去の勝利の余韻を味わう暇はない。
盤面は常に動き続けている。俺はただ冷徹に、次の一手を選択し続けるだけだ。




