第3話
桜の花びらがアスファルトにピンク色の絨毯を敷き詰める、春の盛り。 私立秀明館学園の正門前は、期待と不安を混ぜ合わせたような新入生たちの喧騒に包まれていた。
「……面倒だ」
真新しいブレザーに袖を通した俺は、校門の少し手前でリムジンから降り立ち、深いため息をついた。 俺の望みは「平穏な青春」だ。 放課後はゲーセンや買い食いをして、適度にサボる。 そんな高校生活を夢見ていた。
だが、現実は非情だ。 内ポケットには、「新入生代表 答辞」と書かれた式次第が入っている。 中身が元経営者である俺と西園寺玲央の元のスペックにかかると、高校入試の問題など児戯に等しい。ぶっちぎりの首席で合格してしまったのだ。まさに原作通りに。
何故か入試を受けた時も学校名を聞いていたはずなのに、ここがゲーム世界だと思い出したのは合格通知が届いた後なのを世界の悪意を疑うのは仕方のないことだと思う。
「……まあいい。事務的に済ませよう」
歩き出そうとしたその時、周囲の様子がおかしいことに気付く。前方を歩く一組の男女に、周囲の視線が釘付けになっていたからだ。 いや、正確には「彼女」の方に。
「ねえマナ! クラス、一緒だといいよな!」
「あ、うん……そうだね、翔太」
男の声は上ずり、女の声はどこか困惑を含んで透き通っている。
桜木マナ。 この世界における「原作メインヒロイン」。 一目見て、俺は「ああ、これはメインヒロインだ」と納得してしまった。
彼女は、ただの美少女ではない。 「画面映え」するために設計されたかのような、圧倒的な完成度を持っていた。 ショートカットの黒髪は、春風に揺れるたびに天使の輪のような艶を走らせる。 うなじから首筋にかけてのラインが恐ろしく綺麗で、制服の襟元から覗く白い肌は、春の日差しを吸い込んで自ら発光しているかのように見えた。
顔立ちは、まさに「彫刻」だ。 大きな瞳は虹彩の縁がくっきりとしていて、瞬きをするたびに長い睫毛が影を落とす。 派手な化粧などしていないのに、その存在感だけで周囲の色彩が一段階鮮やかになる。 すれ違う生徒たちが、男子も女子も関係なく、吸い寄せられるように振り返る。 原宿を歩けば10メートルごとにスカウトされるという伝説も、この立ち姿を見れば事実だと分かる。Sランクの原石だ。
だが、その隣にいる男がすべてを台無しにしていた。
日向翔太。原作主人公。 茶髪に気崩した制服。顔立ちは悪くないはずだが、猫背でキョロキョロと周囲を威嚇するような視線が、彼を「頼りないモブ」に見せている。
「おい、何見てんだよ! 行くぞマナ!」
「ちょっと翔太、引っ張らないでよ……」
翔太はマナの腕を掴み、周囲の視線から隠すように、そして「こいつは俺の女だ」と誇示するように歩いている。 マナの眉がわずかに歪む。 それは照れではなく、明確な不快感と、幼馴染への情けなさがないまぜになった表情だ。
(……下手な営業マンだな)
俺は後ろを歩きながら、冷ややかな分析を下した。 顧客のニーズを無視し、自分の売り込みと独占欲だけを押し付ける。 あれでは好感度パラメータが上がるはずがない。むしろ、マイナスに振り切れている。 本来なら介入すべき場面ではないが、あのSランクの原石が凡人の手垢で曇っていくのを見るのは、経営者として――いや、美的な観点から精神衛生上よろしくない。
「……ふん」
俺はあえて彼らの横を通り抜ける際、背筋を伸ばし、視線だけを真っ直ぐ前に向けたまま、無言の圧ですれ違った。 母さん譲りの「貴族的な歩行」だ。
「っ……!?」
翔太がビクリと肩を震わせて道を空ける。 マナがハッとして俺を見る。 その「彫刻のような目」と一瞬だけ視線が交差した。 俺は何も言わず、ただの風景の一部として通り過ぎる。 それだけで、彼女の中に「今の人は誰?」という強烈なフックを残したことを確信しつつ、俺は体育館へと向かった。
入学式は退屈そのものだった。 答辞は、定型文を無視した30秒のスピーチで終わらせた。 「時間は有限なリソースです。3年間の投資対効果を最大化するか、浪費するかは君たち次第だ」 教師たちは苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、生徒たちからはどよめきと、一部の女子からの熱っぽい視線を感じた。
そして、教室。1年A組。最高な事と最悪なことが一つずつ。最高なのは席は窓際の一番後ろ。 最悪なのはその二つ前の席に桜木マナ、その隣に日向翔太がいた。
ホームルームが始まる前の休み時間。 早速、翔太のマナへの「アプローチ」が始まっていた。
「なぁマナ、部活どうする? 俺たち、やっぱり同じとこ入るべきだよな?」 「え……私、まだ迷ってて……」
「迷うことないって! ほら、軽音部とかどう? 俺がギターやって、マナがボーカルとかさ!」
「翔太、楽器弾けないじゃん……それに私、もっと真剣に考えたいの」
「なんだよ、付き合い悪いなぁ。……あ、もしかして芸能界とか考えてんの? やめとけって! お前ドジだし、絶対騙されるから!」
教室の空気が微妙に凍る。 マナが俯き、唇を噛む。
「……翔太には関係ないでしょ」
「関係あるだろ! 幼馴染なんだから!」
(……見ていられないな)
俺は鞄を持って席を立った。 これ以上、この茶番を聞いていると、うっかり説教してしまいそうだ。 教師が来る前に教室を抜け出した。
向かった先は、校舎の端にある特別棟。 人目につかない渡り廊下を抜け、静寂に包まれた一室――保健室だ。 サボりの聖地。 入学式直後の今なら、養護教諭も会議で不在のはずだ。
「失礼します」
一応ノックもしたが反応が無いためにドアを開ける。鍵はかかっておらず、予想通り、誰もいない。 消毒液と清潔なリネンの匂い。 窓の外からは、遠くグラウンドの喧騒が波の音のように聞こえる。
「……極楽だ」
俺は一番奥のベッドへ向かった。 カーテンが閉まっている。 先客か? 足音を殺して近づいた。
カーテンの隙間から、その「先客」の姿が見えた。 息を呑む。
そこにいたのは、この世の美しさを煮詰めたような少女だった。 パイプ椅子に座り、ベッドに突っ伏して眠っている。 長い黒髪がシーツに散らばり、窓からの木漏れ日を浴びて艶やかに光っている。
霧島セイラ。 高校2年生。俺の1つ上の先輩であり、若手女優として名を馳せる「霧島セイラ」その人だ。 テレビで見る彼女は「クールビューティー」だが、今ここにいる彼女は、ただひたすらに「薄い」。 存在が希薄で、今にも空気中に溶けて消えてしまいそうだ。
白い肌は陶器のように滑らかだが、血の気がない。 長い睫毛が震えている。 整いすぎた顔立ちは、眠っていても「画」になってしまうが、その眉間には微かな皺が寄せられていた。
耳にはヘッドホンが装着されている。 外部の音を遮断し、世界から逃避するように。
(……酷いな)
俺は前世の経験から、彼女の状態を一瞬で看破した。 典型的なバーンアウト。 そして、慢性的な睡眠不足と自律神経の失調。 事務所に搾取され、大人たちに消費され、心身ともに限界を迎えている。
「……」
俺は独り言のように呟いた。
「……そこで寝ている先輩。いびきはないが、呼吸が浅いです」
返事はない。 ヘッドホン越しの沈黙。 だが、彼女の肩がピクリと跳ねたのを俺は見逃さなかった。起きている。いや、眠れずに目を閉じているだけだ。
「過労ですね」
俺は彼女の横にあるサイドテーブルに近づいた。 鞄の中から、あるものを取り出す。 本来は快適な昼寝をするために常備している「サボりセット」だ。
一つは、スイス製の高級アロマオイル。ラベンダーとベルガモットをベースにした、深層睡眠を誘うブレンド。 もう一つは、シルク製のアイマスク。遮光性が高く、肌への負担が極限まで少ない特注品だ。
コト、と小さな音を立てて、それらをテーブルに置く。
セイラが薄く目を開けた気配がした。 カーテン越しに、彼女の視線を感じる。怯えた小動物のような、警戒と疲労が滲む視線。
彼女を見ない。 あえて、壁のカレンダーを見ながら淡々と告げる。
「睡眠の質を上げた方がいいです。先輩に必要なのは根性じゃないです。回復です」
説明書きも、名刺も、見返りを求める言葉も何もない。 ただの事実として、それだけを置く。
俺はそれ以上、彼女の領域に踏み込まなかった。 「頑張れ」とも「ファンです」とも言わない。 今の彼女にとって、他人の関心こそが最大の毒だと知っているからだ。
「……失礼します」
俺は踵を返し、保健室を出た。 挨拶も名乗ることもせず、風のように。
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静寂が戻った保健室。 カーテンの裏で、霧島セイラはゆっくりと身体を起こした。
「……なんなの」
掠れた声が出た。 ヘッドホンをずらし、テーブルの上を見る。 そこには、見たこともないブランドの小さな小瓶と、手触りの良さそうなアイマスク。
彼女は震える手で小瓶を手に取った。 蓋を開けると、ふわりと優しい香りが漂った。 キツい香水の匂いではない。森の奥深く、静かな夜を連想させる香り。 その香りを吸い込んだ瞬間、強張っていた胸の奥が、嘘のようにスッとほどけていくのを感じた。
「……変な奴」
今日が入学式のはずの新入生。 名前も知らない。顔もよく見ていない。 普通なら、彼女を見れば色めき立つか、遠巻きにするか、写真を撮ろうとする。 なのに、あの男子生徒は、彼女を「ただの疲れた人間」として扱い、必要な物だけを置いて去っていった。
「ファンでも、アンチでもない……」
それは、彼女が芸能界に入って以来、ずっと求めていた「透明な関係」。 誰にも見られない、誰にも評価されない、ただの「隣人」としての距離感。
アイマスクを手に取り、顔に当てた。 シルクの感触が、熱を持った瞼に心地よい。 視界が完全に遮断される。闇。 でも、それは孤独な闇ではなく、守られているような温かい闇だった。
「……いい匂い」
彼女は小瓶を握りしめたまま、ベッドに深く沈み込んだ。 ここ数ヶ月、薬を飲んでも訪れなかった「本物の眠気」が、波のように押し寄せてくる。
(……また、来るかしら)
意識が落ちる寸前、彼女の脳裏に浮かんだのは、脚本の台詞でも、明日のスケジュールのことでもなかった。 驚くほど的確に自分を見抜いた、名前も知らない少年の背中だった。




