第2話 休日の流儀と裏路地の定義
翌朝、1999年4月11日、日曜日。
ペントハウスの広大な窓から差し込む春の朝日が、モノトーンのリビングを柔らかく照らし出していた。
俺は淹れたてのエスプレッソが入ったカップを片手に、書斎のデスクに広げた分厚い紙の束に目を通していた。
日曜日の朝。日本の株式市場は休場日だ。平日のように刻一刻と変動するチャートの波を追いかける必要はない。その代わり、この静寂に包まれた時間は、各企業の財務諸表や中期経営計画書を精読し、次週以降の戦略を練るための貴重なリソースとなる。
世間ではインターネット関連企業が連日のように話題をさらい、実態の伴わないベンチャー企業にまで莫大な資金が流れ込んでいる。だが、市場の熱気とは適度な距離を保たなければならない。数字の裏側に隠された企業の真の体力を読み解き、適切なタイミングで撤退するラインを事前に引いておく。それが、資本の海を生き残るための最低限の防衛策だ。
「……数字の粉飾まではいかなくとも、随分と強気な予測を立てているな」
1つの事業計画書を指先で弾き、つぶやく。
書類の端に赤の万年筆でいくつか懸念事項を書き込んだその時、背後からふわりと甘い香水の香りが漂ってきた。
「Good morning, レオ。休日だっていうのに、また朝から難しい顔をして紙の束とにらめっこ?」
振り返ると、ソフィアが立っていた。
シルクのガウンを羽織っただけの無防備な寝起き姿ですら、彼女の持つ大女優としての存在感は隠しきれていない。
「おはようございます、母さん。昨夜はよく眠れましたか?」
「ええ、最高のベッドだったわ。……摩耶とくるみちゃんは仕事の準備があるからって帰っちゃったけど、私は残って正解だったわね。レオの淹れるエスプレッソが飲めるもの」
昨夜の引っ越し祝いの後、姉とくるみさんはタクシーで帰宅したが、自由奔放な母は当然のようにゲストルームに居座ったのだ。実家である本邸に父を残してきているはずだが、気にする素振りもない。
俺は新しいカップを取り出し、丁寧にタンピングをした粉をセットして、母の分のエスプレッソを抽出して手渡した。
「今日はどうするの? せっかくの日曜日よ」
「特に予定はありません。片付けも、必要なものはすでに明智に手配させてありますから」
「じゃあデート決定ね! 久しぶりに東京の街を歩きたいわ。エスコートしてくれるわよね?」
母はカップを両手で持ちながら、有無を言わせぬ上目遣いを向けてくる。世界中の観客を魅了してきたその表情を実の息子に向けてくるとは、反則に近い。どうやら、断るという選択肢は最初から用意されていないらしい。
俺はやれやれと肩をすくめ、デスクの上の資料をまとめた。親孝行も、時には優先すべきタスクの1つだ。
「仰せのままに」
午後。俺たちは青山周辺の大通りを歩いていた。
春の穏やかな陽気に誘われたのか、休日の街は多くの人で賑わっている。真新しいショーウィンドウが並ぶ通りには、華やいだ空気と人々の活気が満ちていた。
母には変装のために大きめのサングラスと深めの帽子を被ってもらっているが、シンプルな白のシャツにデニムという出で立ちでも、その凛とした姿勢と隠しきれないオーラが周囲の目を惹きつけていた。すれ違う人々が思わず振り返り、その隣を歩く俺に訝しげな視線を向けてくる。
「ねえレオ、あのお店に入りましょうよ」
「母さん、あそこはメンズのセレクトショップですよ」
「いいじゃない。あなたに似合う服がありそうだわ。……良い服を着ることは、自分を誇示するためではなく、相手への敬意の表れなのよ。若いうちから本物に触れておくことは、決して無駄にはならないわ」
母の買い物に付き合い、いくつかのブティックを巡った後だった。
カフェで休憩しようと、大通りから一本入った、人通りの少ない裏路地を歩いていた時のことだ。急に、前方の空気が冷え込んだような気がした。
「おい、無視すんなって言ってんだろ!」
「テメェだけ綺麗さっぱり抜けて、大学デビューかよ? 笑わせんな」
怒声と、壁を蹴るくぐもった音が響く。
路地の奥にある自動販売機の死角で、数人の男たちが1人の女性を取り囲んでいた。男たちは派手な柄のシャツやダボついたパンツを履き、いかにも遊び半分のイベントサークルに属していそうな風情だ。薄っぺらい優越感を誇示するように、ヘラヘラと笑いながら女性の逃げ道を塞いでいる。
そして、囲まれている女性の横顔に、俺は見覚えがあった。
「……早坂さん?」
早坂涼。
姉の高校時代の同級生であり、親友の1人だ。
現在は都内の大学に通っていると聞いている。ショートカットの黒髪から覗く涼しげな目元は、今、明らかな怒りと屈辱に歪んでいた。
「……アタシはもう、アンタらとは関係ないって言ったはずだ」
「サークルの金、早く返せよ。みんな怒ってんだぜ?」
「ふざけんな! アタシは自分が立て替えてた分を精算しただけだろ!」
「うるせぇよ。金がねぇなら……他に稼ぐ方法、俺らが教えてやろうか?」
下卑た笑い声を上げながら、リーダー格の男が早坂さんの肩に手を伸ばす。
彼女の拳が、白くなるほど強く握りしめられるのが見えた。
姉から聞いた話によれば、早坂さんはかつて地元で名の知れた不良グループに属しており、喧嘩なら男を数人相手にしても引かないほどの実力を持っている。その気になれば、目の前の男たちなどすぐに沈黙させられるはずだ。
だが、彼女はその拳を細かく震わせながら、じっと耐えていた。
ここで手を出せば、警察沙汰になる。やっとの思いで入学した大学で問題を起こせば、退学になりかねない。彼女なりに更生し、必死に掴み取った今の生活を守るために、理不尽な侮辱にひたすら耐えているのだ。その姿は痛ましく、同時に、自分の進むべき道に対して驚くほど誠実だった。
「……あら、レオ。お知り合い?」
隣で母がサングラスをずらし、表情を強張らせて俺の腕を掴んだ。
「ええ。姉の友人です。ここで待っていてください」
「でも、相手は3人よ……」
「すぐに終わらせます」
俺は母を安全な物陰に留まらせると、足音を殺して彼らの背後に近づいた。
「そこまでにしておけ」
感情を抑えた声をかける。
男たちが苛立ちを露わにして振り返った。
「あぁ? なんだテメェ、ガキがすっこんでろ……」
リーダー格が俺の胸倉を掴もうと手を伸ばしてくる。
俺は半歩下がってその手を危なげなく躱し、相手の手首を軽く制した。関節を極めない程度に、しかし確実に動きを封じる。
「い、痛っ……! ふざけんな!」
「大声を出さない方がいいですよ。この先の大通りには週末で警察のパトロールが出ています。これ以上騒ぎを大きくすれば、あなた方が大学の学生課に呼び出されることになりますが、それでも構いませんか?」
「はっ、警察だぁ? ハッタリかましてんじゃねえぞ」
別の男が凄んでくるが、その声には微かに焦りが混じっている。
俺は彼らの虚勢を冷徹に見透かした。
「ハッタリかどうか、試してみますか? 既に知人が交番へ向かっていますが」
俺が母の隠れている方へ視線を向けると、男たちは顔を見合わせた。
彼らも根っからの極道ではなく、ただ群れて強がっているだけの大学生だ。「警察」や「大学からの処分」といった現実的なリスクを突きつけられれば、それ以上強行する度胸はない。
「チッ……! マジで警察来たら面倒だぞ」
手首を制されていたリーダー格が、痛みに顔をしかめながら仲間を制止した。俺が手を離すと、彼は後ずさりしながら早坂さんを睨みつけた。
「……クソッ。行くぞ。おい早坂、これで終わったと思うなよ!」
男たちは足早に路地を抜けて逃げていった。
俺は壁に背中を預けて荒い息を吐いている彼女に向き直った。
「お怪我はありませんか、早坂さん」
早坂さんは、ぽかんと口を開けたまま俺の顔を見上げていた。
「……あんた、摩耶の弟……だよね?」
「はい。偶然通りかかりまして」
「……今の、本当なの? パトロールとか」
「半分はブラフですよ。あの手の人たちは、大学への連絡といったペナルティを提示されると、あっさり引くものです」
俺が事実だけを告げると、早坂さんは全身からどっと力が抜けたように、膝から崩れ落ちそうになった。俺は慌ててその細い腕を支える。
「……余計なお世話だっつの。アタシ1人でもなんとかなったんだけど」
自嘲気味に笑う彼女に、俺は首を横に振った。
「手を出さなかったのは賢明な判断です。早坂さんがその気になれば、彼らを病院送りにできたでしょうが、経歴に傷がつきます。……教師になるという目標、姉から聞いていますよ」
早坂さんはハッと顔を上げた。
「! ……摩耶のやつ、余計なことを」
彼女はバツが悪そうに視線を逸らしたが、その頬は微かに紅潮していた。自分の秘めた夢を知られていた羞恥心と、それを守り抜けたことへの安堵が入り混じっているのだろう。
「レオ、終わったかしら?」
そこへ、母が優雅な足取りで近づいてきた。サングラスを外したその素顔を見て、早坂さんは言葉を失ったように完全に硬直した。
「え、うそ……西園寺ソフィア!? 本物!?」
「あら、私のファンかしら? 嬉しいわ。怪我がなくてよかった」
母が屈み込み、優しく微笑む。大女優のオーラを至近距離で浴び、早坂さんは口をパクパクとさせている。
「は、初めまして! 早坂涼です! 摩耶の……その、友人です!」
「知っているわ、摩耶から聞いているもの。写真で見るよりずっとチャーミングね。そのショートヘア、とてもよく似合っているわよ」
「あ、ありがとうございます……!」
つい先ほどまでの凄みはどこへやら、憧れの存在を前にしてガチガチに緊張している。そのあまりのギャップに、俺は思わず口元を緩めた。
「立ち話もなんですし、場所を変えましょう。早坂さん、落ち着ける場所でお茶でもいかがですか? 母も、姉の親友とゆっくり話したがっていますから」
「え、でもアタシ、こんな格好だし……」
「気にすることはありません。それに、ここで1人にするのは気が引けます」
俺は立ち上がった彼女の背中をさりげなく押し、大通りへと向かうようにエスコートした。早坂さんは迷ったようだったが、俺と母の顔を交互に見比べ、頷いた。
「……ん。じゃあ、お言葉に甘えるわ。……サンキュな。食えないガキだけど、助かった」
「玲央で構いませんよ、涼さん」
俺が自然な距離感でそう呼ぶと、彼女は驚いたように瞬きをし、それからフッと肩の力を抜いて笑った。
「……じゃあ、玲央。よろしくな」
俺たちは大通りへと歩みを進めた。
喧騒の中、母が楽しげに涼さんに話しかけ、彼女が戸惑いながら答える声が響く。俺は2人の背中を見ながら、先導して歩き出した。




