第1話 再会と買収のレシピ
1999年4月10日、土曜日。
窓の外には、春の夜の帳が下りようとしていた。東京の街を行き交う人々の手には普及し始めたばかりの携帯電話やPHSが握られ、テレビではノストラダムスの大予言を笑い話にするバラエティ番組が流れている。バブル崩壊後の停滞感の中で、インターネットという未知の領域への期待が静かに熱を帯び始めていた。世紀末という響きがどこか浮かれた空気を作り出し、誰もが新しい時代への漠然とした希望と不安を抱いている。そんな時代だ。
港区の高台に聳え立つ、総戸数わずか三十戸の超高級マンション『グラン・エターナル麻布』。
その最上階、ペントハウスの一室。
広大なリビングの窓からは、東京タワーのオレンジ色の光と、その足元に広がる街並みが一望できた。眼下を行き交う車のライトが、まるで血管を流れる赤血球のように見える。
「……悪くない眺めだ」
グラスの中のミネラルウォーターを揺らしながら、俺――西園寺玲央は独りごちた。
今日からここが俺の城だ。実家である西園寺の本邸も居心地は悪くなかったが、やはり使用人の目を気にせず寛げる空間が必要だった。それに、これから本格化するビジネスの拠点としても、都心の隠れ家は都合がいい。15歳の高校入学祝いに、マンションの一室をねだる子供はいなかっただろう。だが、俺が提示した『今後の資産運用計画書』と、自分自身の個人資産だけで購入するという条件に、父は何も言わずにハンコを押した。
俺には、前世でIT企業を経営していた四十一歳の男性としての記憶がある。
そして、この世界が前世で知るギャルゲーの世界であり、俺自身がやがて破滅の運命をたどる「悪役御曹司」であることも理解していた。だが、ただ敷かれたレールの上を歩いて不幸になるつもりはない。前世で培った経営経験と知識、そして転生後に築き上げた三百十億円の個人資産。俺の手の届く範囲で、原作で不幸になるはずだった人々の運命を変え、同時に俺自身の人生も選び取る。俺が自由に動き、事業を広げるための前線基地として、この場所は最適だった。
「さて、まずは腹ごしらえといきたいところだが……」
アイランドキッチンの広さは申し分ない。ドイツ製の最新オーダーキッチンは、プロのシェフを呼んでも十分に対応できるスペックだ。まだ何もない冷蔵庫を見つめ、今夜のメニューを思案していた、その時だった。
ピンポーン、と重厚なチャイムが鳴り響く。
エントランスのオートロックではなく、玄関前のチャイムだ。コンシェルジュには来客を通さないように言っておいたはずだが、このセキュリティを顔パスで突破できる人間は限られている。
嫌な予感を覚えながら、俺は重厚な扉を開けた。
「Surprise! レオ、引っ越しおめでとう!」
「あんたー! ついに一人暮らしなんて生意気よ!」
案の定だった。
両手に抱えきれないほどの花束とシャンパンを持った女性が三人。
台風のような勢いで玄関になだれ込んできたのは、俺の母である西園寺ソフィアと、姉の摩耶。そしてもう一人、記憶の片隅にある顔立ちの女性が立っていた。
「あら、ごめんなさいねレオ。入居初日くらい、家族で祝ってあげようと思って。……ほら、素敵なゲストも連れてきたわよ」
母、ソフィアがウインクをする。
ブロンドの髪をラフにまとめ、シンプルなワンピースを纏っているだけなのに、その堂々とした立ち姿と華やかな笑顔には、現役ハリウッド女優としての抗いがたい魅力が満ちている。
「お邪魔しまーす。……うわ、なにこのリビング! サッカーできそうじゃん!」
続いて靴を脱ぎ捨てたのは、姉の摩耶だ。
東大に入学したばかりの才女なのだが、家では相変わらずの調子だ。ハニーブロンドの柔らかなショートボブを揺らし、上品なトラッド調の服に身を包んだ姉さんは、目を輝かせながら無邪気にリビングを見回している。
「こら、靴くらいちゃんと並べろ」
「えー、あとでやるってば!」
そして、最後に残った女性が、少し気まずそうに俺を見上げていた。
「……久しぶりね、レオ。覚えてる?」
記憶にある「彼女」は、泥だらけになって男子と喧嘩をしていた、男勝りな少女だったはずだ。だが、目の前にいる女性は、洗練された大人の女性へと変貌を遂げていた。
くるみさん。姉の高校時代の友人で、現在は芸能事務所に所属するタレントだ。
ブラウン管越しに見るよりも遥かに線が細く、華奢な肢体。トレンドの茶髪を緩く巻き、体にフィットしたニットとミニスカートを着こなしている。大きな瞳は猫のように愛らしく、少し釣り上がった目尻が彼女らしい気の強さを残していた。
俺は少しばかり意表を突かれ、一拍遅れて口を開いた。
「くるみ……さん、ですか?」
「ぶっ! 何その敬語! 気持ち悪っ!」
俺が丁寧に応対すると、くるみさんは吹き出した。
緊張が解けたのか、彼女はズカズカとリビングに入り込み、イタリア製の革張りソファに腰を下ろした。
「あんたさー、昔は『おいババア、どけよ』とか言ってたくせに。何よその猫かぶった態度は。あたしよあたし、くるみ!」
「お久しぶりです。俺ももう高校生ですから、昔のような無礼は働きませんよ」
「はいはい、お利口さんになっちゃって。つまんないの」
くるみさんは頬杖をつきながら、俺を品定めするようにじろじろと眺める。
その視線が、不意に止まった。
「……ていうか、あんた。近くで見るとマジで顔良いわね。そのアッシュブロンドの髪に、氷みたいな青い目……ソフィアさんの遺伝子、仕事しすぎじゃない?」
彼女は少し顔を逸らし、小さく咳払いをした。どうやら、外見の成長ぶりには驚いてくれたらしい。俺は苦笑しながら、彼女たちのために紅茶の準備を始めた。
★★★★★★★★★★★
リビングでは、女性陣による姦しいお喋りが始まっていた。
キッチンで湯を沸かしながら、俺は自然と彼女たちの会話に耳を傾ける。
「でね、聞いてよ摩耶! うちの事務所、マジでヤバいのよ」
くるみさんが声を荒らげた。
「社長が株で失敗したらしくてさー。資金繰りがショート寸前なんだって。で、新しいスポンサーを見つけてきたって言うんだけど、それがどう見てもヤクザまがいの不動産屋なわけ」
「ええっ、大丈夫なのそれ? くるみ、逃げたほうがいいんじゃない?」
「契約があと二年残ってるし……違約金なんて払えないよ。その不動産屋の社長、あたしのこと『愛人にしたい』とか平気で言うような奴なのよ? もう最悪!」
くるみさんはクッションを抱きしめ、ぎゅっと指先に力を込めた。テレビでは見せない疲労と焦燥が、その横顔に色濃く滲んでいる。
「来週の月曜に契約する予定。……あたしが我慢すれば、後輩たちも路頭に迷わずに済むし」
無能な経営者の尻拭いをさせられるのは御免だ。何より、俺の目の前で、理不尽な理由によって一人の女性のキャリアが潰されようとしているのを放置する気はなかった。
「少し、失礼します」
俺はトレイにティーカップを載せてリビングへ戻ると、胸ポケットから携帯電話を取り出した。
「もしもし、明智か? 俺だ」
電話の相手は、俺の資産管理会社の代表を務める代理人だ。
「今から社名を送る。その会社について、興信所の調査資料を確認してくれ。『スターダスト・エージェンシー』……ああ、そうだ。資金繰りがショート寸前のはずだ」
俺は淡々と、しかし明確に要件を伝えていく。
「まずは債務と株主構成を調査しろ。経営権を取得できるか確認し、適正価格の算定を急がせろ。迅速な解決のために必要ならプレミアムを上乗せしても構わないが、現経営陣の刷新が絶対条件だ。……ああ、それから、その不動産屋に関しては、法人登記や取引履歴、資金の出所を洗ってくれ。違法行為や税務上の不正が見つかり次第、然るべき機関へ情報を提供する準備をしておくようにな」
通話を切り、携帯電話を閉じてくるみさんに向き直った。
「は、はぁ!? あんた何言ってんの!? 債務を調べるとか経営権とか、億単位の話よ!?」
くるみさんは信じられないものを見る目で俺を凝視していた。
「くるみさん、まだ正式に解決したわけではありませんが、打てる手はあります」
俺は紅茶を一口啜り、言葉を続けた。
「月曜日の契約を止められるよう、すぐに動きます。タレントにとって、信用と実力は何より大切な資産です。理不尽な事情で、その価値を傷つけさせるわけにはいきませんから。……でも、準備だけは始めましたが、くるみさんが今の事務所に残りたいのか、それとも移りたいのかは、ちゃんと聞いておきたいです」
俺が尋ねると、彼女はしばらく押し黙った。戸惑うように言葉を探していたが、やがて抱えていたクッションから手を放し、真っ直ぐに俺を見た。
「あたしは……逃げたくない。ちゃんと自分の力で、評価されたい。後輩たちのためにも、今の場所で頑張りたいの」
その力強い言葉に、俺は一つ頷いた。
「わかりました。……くるみさんは、安心して芸を磨くことに集中してください」
リビングに沈黙が落ちた。
姉は「またやった……」と頭を抱え、母さんは「That's my boy!」と手を叩いて喜んでいる。
「あんた……何者?」
震える声で問うくるみさんに、俺は肩を竦めてみせた。
「そんなに驚かなくても。まだ調査を頼んだだけですよ」
★★★★★★★★★★★
「さて、お祝いのディナーといきましょうか」
一段落したところで、俺は立ち上がった。
デリバリーでも頼もうかという空気が流れたが、母さんと姉さんが「レオの手料理が食べたい!」と騒ぎ出したため、急遽俺が腕を振るうことになった。
「買い出しに行きましょう。くるみさんも、リクエストしてください」
「じゃあ、中華? 最近忙しくてまともなご飯食べてないから、ガッツリしたのがいいかも」
来客用のハイヤーを手配させ、向かった先は麻布にある高級スーパー『ナショナル麻布』だ。大使館御用達のこの店なら、品質の確かな食材が手に入る。
「うわー、高っ! なにこの豚肉、一〇〇グラムのお値段!?」
くるみさんが精肉コーナーで素っ頓狂な声を上げる。俺はその横で、鹿児島県産の最高級黒豚バラ肉ブロックをカゴに入れた。脂身の甘みが段違いなのだ。
「中華なら、まずはこれですね。あとは春の食材を使いましょうか」
「レオ、このフカヒレも買っていい?」
「母さん、それは戻すのに三日かかるんだ。今日は諦めてくれ」
「ちぇっ」
まるで遠足に来た子供のようにはしゃぐ女性陣を引き連れ、俺は会計を済ませた。
★★★★★★★★★★★
帰宅後、俺はエプロンを締め、キッチンに立った。
女性陣はリビングでテレビを見ながら、先ほど購入した果汁百パーセントのジュースで作った特製チューハイを楽しんでいる。
プロ用の高火力コンロに火を入れ、中華鍋を熱する。黒豚バラ肉は厚めにスライスし、紹興酒と醤油で下味をつけ、片栗粉を薄くまぶす。
熱した鍋に油を馴染ませ、豚肉を投入する。
ジュワアアァァッ! という激しい音が響き渡り、香ばしい肉の香りがリビングまで届いた。
「いい匂い!」
姉の声が聞こえ、俺は手早く作業を進める。
肉の色が変わったら一度取り出し、同じ鍋で香味野菜を炒め、豆板醤を加える。そこへタケノコを加えて強火で炒め、続いてピーマンとパプリカを投入。鍋を勢いよく煽る。
カンッ、カンッ、と五徳に鍋が当たる軽快なリズムに合わせ、リビングから「テレビの料理番組みたい!」と声が飛ぶ。
「レオくんの手料理なんて、何年ぶりかしら~」
「あいつ、料理だけは昔から異常に上手いんだよね」
そんな声を聞きながら、野菜に油が回ったら肉を戻し入れ、合わせ調味料を一気に回しかけた。ジューッという爆発的な蒸気とともに、オイスターソースの濃厚な香りが広がる。最後に香り付けのごま油を垂らし、青ネギを散らせば完成だ。
『鹿児島産黒豚と朝採れタケノコのオイスター炒め』。
並行して作っていた『トマトと卵の酸辣スープ』と『春雨と海老のヤムウンセン風サラダ』もテーブルに運ぶ。
「お待たせしました。ディナーの準備が整いましたよ」
四人で食卓を囲む。くるみさんがオイスター炒めを一口食べた瞬間、その目が大きく見開かれた。
「……んんっ! 何これ、お肉柔らかっ! タケノコしゃきしゃき! ……ヤバい、白飯ほしい!」
「ふふ、ご飯も炊けてますよ。最高級の魚沼産コシヒカリです」
「最高かよ……あんた、あたしのお婿さんになりなさいよ」
母さんも姉さんも、「美味しい!」を連呼しながら紹興酒のグラスを傾けている。
テレビのクイズ番組では、解答者が珍解答を出してスタジオの笑いを誘っていた。
「絶対違うでしょ!」と摩耶姉さんがテレビにツッコミを入れ、ソフィアが「あら、私は正解だと思うわよ?」と返す。「あはは、ソフィアさん適当すぎ!」とくるみさんが笑いながら、再びオイスター炒めに箸を伸ばした。
独り静かに過ごすはずだった引っ越し初日の夜は、予想外に騒がしく、そして温かいものとなった。
ふと、摩耶姉さんが思い出したように口を開いた。
「そういえば、涼から連絡あってね。なんか最近、昔の知り合い? に絡まれてるっぽくてさ。ちょっと機嫌悪かったんだよね」
早坂涼。姉の親友であり、元不良という過去を持つ女性だ。彼女が昔の知人に絡まれている……。少しばかり嫌な予感がする。
「……そうか。なら、明日少し様子を見てみよう」
俺は内心の懸念を記憶の片隅に置きつつ、食事の手を進めた。
やがて、ふいにくるみさんと目が合った。
彼女は小さな声で、しかしはっきりとした口調で囁いた。
「……ありがとね、レオ。今日のことは、一生忘れないから」
「まだ何も解決していませんよ。でも、できる限りのことはします」
俺はグラスを掲げ、彼女のグラスにカチンと軽く当てた。
美しいクリスタルの音が、賑やかなリビングの空気に溶け込むように、静かに澄んだ響きを残した。




