第29話 青き怪物の咆哮と週末の洗車
ゴールデンウィーク明けの週末。東京は初夏を思わせる陽気に包まれていた。
俺は、午前中、自宅マンションのリビングに城戸隼人を招いていた。
名目は「中間テスト対策・緊急強化合宿」だ。
「……で、ここの現在完了形が『継続』になる理由は?」
「えーっと……『since』があるから?」
「正解だ。期間を表す『for』や起点を表す『since』があれば、基本的には継続用法と判断していい」
俺が解説すると、隼人は「っしゃあ!」とガッツポーズをした。
金髪にピアスの不良スタイルだが、勉強に向かう姿勢は真剣そのものだ。
鷹森という重圧から解放された彼は、水を得た魚のように活力を取り戻している。
元々地頭は悪くない。コツさえ掴めば、赤点回避どころか平均点以上も狙えるだろう。
「西園寺、お前マジで教えんの上手いな。塾の講師になれるんじゃね?」
「人に教えることは、自分の理解を深めることにも繋がる。俺にとっても有益な時間だよ」
「またそういう小難しいこと言って……。ま、サンキュな。これで部活停止は免れそうだわ」
隼人は伸びをして、ペンを置いた。
窓の外には、東京タワーと青空が広がっている。
平和な週末の風景だ。
「よし、午前中のノルマは達成だ。……昼飯はどうする? 何か出前でも取るか?」
「おっ、いいのか? じゃあピザ! Lサイズで!」
「……城戸の胃袋は底なしか」
俺は苦笑しながら、宅配ピザのチラシを手に取った。
ジャンクフード続きだが、勉強でカロリーを消費した頭脳には糖質と脂質が必要だ。
男二人、ピザを囲んで他愛のない話で盛り上がる。
かつての俺が忘れていた、損得勘定のない時間。
それは、310億円の資産よりも得難い財産なのかもしれない。
午後。
隼人が「ゲーセン行ってくる!」と嵐のように帰った後、俺は舞を呼び出し、外出していた。
向かった先は、都内の日産プリンス販売会社だ。
ショールームのガラス越しに、その「怪物」は鎮座していた。
『スカイラインGT-R』。
今年の1月に発売されたばかりの最新モデルだ。
筋肉質なボディライン、特徴的な丸目4灯のテールランプ、そして攻撃的なフロントマスク。
色は鮮烈な「ベイサイドブルー」。
「人に翼を」というキャッチコピーと共に登場したこの車は、国産スポーツカーの黄金期を締めくくる最後の傑作となる。
「……美しいな」
俺は思わず呟いた。
直列6気筒ツインターボエンジン、RB26DETT。
カタログスペックは自主規制枠いっぱいの280馬力だが、実力はその比ではない。
アテーサE-TSプロによる高度な四輪制御は、物理法則を無視したかのようなコーナリングを実現する。
「社長。……こちらを購入されるのですか?」
隣に立つ舞が、少し困惑したように尋ねた。
今日の彼女は、休日の呼び出しにも関わらず、完璧なパンツスーツ姿だ。
その知的な美貌とスタイルの良さは、ショールームの営業マンたちの視線を独占している。
「ああ。最高グレードの『V-spec』だ。オプションはフル装備で頼む」
「……承知いたしました。ですが、社長はまだ免許をお持ちではありませんが」
「投資だよ、舞」
俺は車のボディに手を触れた。
ひんやりとした金属の感触。
「この車の新車価格は、約500万円から600万円だ。……だが、25年後にはどうなっていると思う?」
「……中古車になれば、価値は下がるものでは?」
「普通はな。だが、こいつは違う。ガソリンエンジンの内燃機関が終焉を迎え、電気自動車が主流になる未来において、この『R34』は伝説になる」
俺は断言した。
2024年現在、R34 GT-Rの中古価格は異常な高騰を見せている。
状態の良い個体なら3,000万円から5,000万円。限定モデルの『Z-tune』に至っては、オークションで数億円の値がつくこともある。
アメリカの「25年ルール」が適用された瞬間、世界中のコレクターが争奪戦を繰り広げた結果だ。
「つまり、今ここで500万円で買っておけば、何もしなくても数千万円の資産になる。……利回りで言えば、どんな金融商品よりも優秀だ」
「……車が、数千万円に? 信じられませんが……社長の仰ることなら」
舞は半信半疑ながらも、俺の言葉を受け入れた。
俺の未来予測が外れたことは、これまで一度もないからだ。
「それに、単純に欲しいんだよ。男のロマンとしてね」
「……ふふ、それが本音ですね」
舞は可笑しそうに微笑んだ。
営業マンを呼び、契約手続きを進める。
支払いはキャッシュ一括。
納車までの間は、マンションの地下駐車場に専用のセキュリティゲート付きガレージを確保し、そこで保管する。
運転は……免許を取るまでは舞にお願いするか、あるいはサーキットを貸し切って走らせるのもいいだろう。
俺は契約書にサインをし、青き怪物を見つめた。
その姿は、これから俺が駆け抜ける激動の時代を象徴しているようだった。
ディーラーを出た後、俺は舞と別れて広尾のカフェに向かった。
テラス席でアイスティーを飲んでいると、サングラスをかけた小柄な女性が近づいてきた。
「……お待たせ、レオ」
天童くるみだ。
キャップを目深に被り、大きめのサングラスで顔を隠しているが、その圧倒的なオーラは隠しきれていない。
華奢な顎のライン、透き通るような肌、そして形の良い唇。
変装していても「美少女がいる」ということだけは周囲に伝わってしまうらしく、道行く人々がチラチラと振り返っている。
「こんにちは、くるみさん。……目立っていますよ」
「えっ、嘘!? ちゃんと変装したのに!」
彼女は慌ててサングラスの位置を直した。
その仕草が愛らしい。
彼女は俺の向かいの席に座り、メニューも見ずにオレンジジュースを注文した。
「……で? 急に呼び出してどうしたのよ。デートの誘い?」
「残念ながら違います。……CM撮影の件で、少し確認したいことがありまして」
俺はビジネスの話題を振った。
来週に迫った、モバイルECサイトのCM撮影。
彼女には、そのメインキャラクターを務めてもらう。
「衣装合わせの写真、拝見しました。……完璧です。あの『未来を見据える少女』というコンセプト、よく理解してくれている」
「へへっ、でしょ? ……あたしなりに考えたのよ。ただ可愛いだけじゃなくて、何か意志を感じさせるような、そんな顔」
彼女はサングラスを少しずらし、得意げに瞳を輝かせた。
その瞳には、かつて路地裏で怯えていた時の弱さはない。
プロのアイドルとしての矜持と、未来への希望が宿っている。
「それにね、最近楽しいの。……仕事が」
「ほう?」
「前まではさ、言われた通りに笑って、言われた通りに歌ってただけだったけど。……今は、レオが作ってくれたステージで、どうやったら一番輝けるか、自分で考えるのが面白くて」
彼女はストローをくるくると回した。
「……ありがとね。あんたのおかげで、あたし、アイドル辞めなくて済んだよ」
「礼には及びません。僕は投資家として、勝てる馬に賭けただけです」
「むぅ……可愛くない言い方。そこは『君の魅力に惹かれたからだ』とか言うとこでしょ!」
くるみさんは頬を膨らませた。
だが、その表情は楽しそうだ。
彼女との距離感も、心地よいものになってきた。
オーナーとタレントという関係を超え、互いに信頼し合えるパートナー。
「……あ、そういえば。隼人のやつ、最近勉強頑張ってるみたいね」
「ええ。今日も午前中、僕の家で勉強していましたよ」
「マジ? あのバカが? ……ふふっ、あんたの影響力、凄すぎない?」
彼女はケラケラと笑った。
その笑顔は、初夏の風のように爽やかだった。
「……じゃ、あたしそろそろ行くね。次のレッスンの時間だから」
「送りますよ」
「いいって。事務所の車が近くまで来てるし。……じゃあね、レオ! 撮影、楽しみにしてて!」
彼女は席を立ち、軽やかに歩き出した。
すれ違いざま、俺の肩をポンと叩く。
甘いシャンプーの香りを残して、彼女は雑踏の中へと消えていった。
その背中は、以前よりもずっと大きく、頼もしく見えた。
帰宅後。
俺はジャケットを脱ぎ、シャツの袖をまくった。
今日は一日動き回った。
隼人との勉強、車の購入、くるみとの会話。
充実した一日だったが、外の世界のノイズを少し持ち込んでしまった気がする。
心を整えるために、掃除をしよう。
1999年。まだルンバのようなお掃除ロボットは存在しない。
俺は掃除機を取り出し、部屋の隅々まで丁寧にかけた。
フローリングの目地に入り込んだ微細な埃を吸い取る。
家具の配置をミリ単位で修正し、空間の歪みを正す。
この作業は、俺にとっての禅だ。
次に、雑巾がけ。
膝をつき、床を磨く。
単純な反復運動が、脳内の思考をクリアにしていく。
今日契約したGT-Rのこと、くるみの笑顔、隼人の成長。
それらの情報が整理され、適切な引き出しに収納されていく感覚。
最後に、窓を拭く。
東京の夜景が、クリアなガラス越しに輝きを増す。
眼下に広がる街の灯り。
その一つ一つに、人々の生活があり、欲望がある。
俺はそれを見下ろしながら、深く息を吸い込んだ。
「……よし」
部屋は完璧に整った。
空気清浄機が静かに稼働音を立てている。
観葉植物のパキラも、心なしか生き生きとして見える。
俺はキッチンで水を一杯飲み、ソファに腰を下ろした。
明日は日曜日。
ゴールデンウィーク最終日だ。
連休が明ければ、いよいよモバイルECサイトのプレオープン、そして鷹森不在となった学園での新たな日常が始まる。
やるべきことは山積みだ。
だが、今の俺には迷いはない。
整えられた部屋と、整えられた心。
それがあれば、どんな戦場でも勝ち抜ける。




