第28話 国民服の夜明けとほろ酔いの心理学
ゴールデンウィーク明けの最初の週末。
俺は、教室の窓から五月の空を見上げながら、頭の中で資産ポートフォリオを組み替えていた。
世間はITバブルの真っ只中だ。ソフトバンクやヤフーといった銘柄が連日のように高値を更新し、投資家たちは熱病に浮かされたように買い注文を出している。
だが、俺の狙いはそこではない。
虚像ではなく、実需で稼ぐ企業。
山口県に本社を置くアパレル企業、『ファーストリテイリング』だ。
ブランド名は『ユニクロ』。
現時点では「地方のロードサイドにある安い服屋」「安かろう悪かろう」というイメージが強い。ファッションに敏感な若者が着るブランドではない、というのが一般的な認識だ。
だが、昨年の原宿出店を皮切りに、風向きは変わりつつある。
そして今年の冬、彼らが投下する『フリース』キャンペーンが、日本のアパレル史を塗り替えることになる。
1,900円という価格破壊と、高品質な素材。
それは単なる流行ではなく、デフレ時代における「国民服」の誕生だ。
「……ここだ」
俺は携帯電話で証券口座にアクセスし、昨夜計画していた通り、4,500万円の買い注文を確定させた。
ITバブルで浮かれる市場の裏で、着実に実力を蓄えているこの銘柄は、まだ割安に放置されている。
このまま長期保有すれば、配当金だけで生活できるレベルの資産に成長する。為替リスクや技術革新の波に左右されない、最強のディフェンシブ・ストックだ。
1限目、公民。
教壇には、スパルタ教師の真田厳が立っている。
今日の授業内容は「地方自治と住民参加」。
教科書通りの退屈な説明が続くかと思いきや、真田は唐突に黒板に図を描き始めた。
「……いいか、この『住民投票条例』の制定プロセスには、ある特殊な判例が関わっている。新潟県の巻町における原発建設を巡る住民投票だ。これは国策と地方自治が衝突した象徴的な事例でな……」
真田が熱っぽく語り出したのは、教科書には数行しか載っていないマイナーな、しかし民主主義の本質を問う重要な事例だった。
意外だ。
ただの規律マシーンだと思っていたが、専門分野に関しては独自の知見を持っているらしい。
俺が興味深く聞き入っていると、真田の視線がふと俺の隣に向けられた。
そこでは、城戸隼人が船を漕いでいた。
「――城戸ォ!!」
怒声と共に、真田の右腕が閃く。
チョーク・スナイプ。
白亜の弾丸が、隼人の眉間を狙って正確に射出される。
だが、その軌道上に俺の頭があった。またしても巻き添えだ。
俺は視線を黒板から外さず、首をわずかに右に傾けた。
ヒュッ。
風切り音。
チョークは俺の左耳を掠め、背後で爆睡していた隼人の額に「ゴッ」という鈍い音と共に命中した。
「ってぇぇ!! 何すんだよ!」
「貴様が寝ているのが悪い! ……西園寺、また避けたな?」
「偶然ですよ。首が凝ったので」
俺は涼しい顔で答えた。
真田は「……ふん」と鼻を鳴らし、授業を再開した。
理不尽だが、この緊張感も悪くはない。
放課後。
帰ろうとする俺に、一人の男子生徒が恐る恐る近づいてきた。
草野健太だ。
地味なルックスに、少し猫背気味の姿勢。クラスでは目立たない存在だが、ネットリテラシーが高く、俺の行動を密かに崇拝している「信者」でもある。
「あ、あの……西園寺! ちょっといいか?」
「なんだ、草野」
「その……昨日のニュース見たよ。鷹森が自首したって。……あれ、西園寺がやったんだろ?」
彼は声を潜めて、しかし興奮した様子で言った。
「……何のことだ? 僕は何もしていないよ」
「とぼけんなよ! ネットの掲示板じゃ『桜花学園の闇を暴いた救世主がいる』って持ちきりなんだぜ! 俺には分かる、お前しかいないって!」
彼の瞳は、英雄を見るような熱っぽい光を帯びている。
承認欲求と、強いものへの憧れ。
扱いを間違えれば厄介だが、味方につければ有用な情報源になるタイプだ。
「……想像力豊かなのは良いことだ。だが、根拠のない噂を広めるのは感心しないな」
「わ、分かってるよ! 誰にも言わねぇって! ……ただ、俺もお前の役に立ちたくてさ」
彼はもじもじしながら言った。
「その……ゲーセン、行かね? 新作のシューティングが入ったんだよ」
「……いいだろう。付き合うよ」
俺たちは駅前のゲームセンターへ向かった。
『タイムクライシス2』で協力プレイをする。
草野の腕前はかなりのものだった。画面の中では、彼は頼れる相棒として敵を次々と撃ち抜いていく。
「へへっ、やったな西園寺! 全クリだ!」
「やるな。背中を任せられる腕前だ」
「マジ!? ……へへ、嬉しいぜ」
草野は照れくさそうに鼻を擦った。
現実世界でも、彼が俺の「目」となり「耳」となる日は近いかもしれない。
草野と別れた後、俺は渋谷の書店へ向かった。
大型書店のビジネス書コーナーで、新刊をチェックする。
『IT革命の衝撃』『デフレ経済の歩き方』。
この時代の空気を再確認し、2冊ほど購入した。
店を出ると、近くのカフェのテラス席に桜木マナの姿があった。
彼女は一人で紅茶を飲みながら、参考書を広げている。
先日渡した予備校のパンフレットも傍らにある。
「……桜木さん」
「あ、西園寺くん! こんばんは」
彼女は俺に気づくと、柔らかく微笑んだ。
その笑顔には、もう翔太への未練による陰りはない。
ショートボブが似合う、健康的で愛らしい美少女。
自立を決意した彼女は、以前よりも輝いて見えた。
「勉強ですか?」
「うん。特待生試験、受けてみようと思って。……私、もっと広い世界を見てみたいの」
「素晴らしい。君なら必ず合格できますよ」
「えへへ、頑張るね。……西園寺くんに背中押してもらったんだもん、負けられないよ」
彼女はガッツポーズを作った。
その前向きな姿勢を確認し、俺は安心してその場を離れた。
駅前広場へ向かうと、嗄れた声で演説をする男性がいた。
元衆議院議員の宮島寅雄だ。
薄汚れたタスキをかけ、誰も立ち止まらない雑踏に向かって、日本の未来を憂う言葉を投げ続けている。
「……こんばんは、先生」
「おお、少年か。また聴きに来てくれたのか」
宮島は演説を中断し、ニカッと笑った。
俺たちは缶コーヒーを飲みながら、しばし政治談義に花を咲かせた。
彼の持つ「泥臭い政治の現実」と、俺の持つ「経済の視点」。
異なる視点が交錯し、互いに刺激を与え合う。
彼は将来、俺が政界にアプローチする際の重要なパイプとなるだろう。
さらに路地裏へ足を運び、源田鉄次の店『G-ARMS』へ。
強面の店主に挨拶し、注文しておいた海外製のサプリメントを受け取る。
「……チッ。相変わらず変なモンばかり欲しがるガキだ」
「品質にはこだわりますので。……では、また」
源田さんはぶっきらぼうだが、その眼差しには信頼の色がある。
学園、ビジネス、政治、裏社会。
俺のネットワークは着実に広がっている。
帰宅途中、母から電話があった。
『Leo! 今夜、そっちに遊びに行っていい?』
「……母さん、またですか。これで週に3回目ですよ」
『いいじゃない。日本にいる間くらい、甘えさせてよ。……美味しいお酒、買っていくから』
世界的な大女優も、息子には弱い。
俺は苦笑しつつ、夕食のメニューを考えた。
母が来るなら、和食がいいだろう。
東急本店のデパ地下で、最高級の食材を買い揃える。
メインは長崎県産の『イサキ』。
産卵前のこの時期、脂が乗って最も美味しくなる「麦わらイサキ」だ。これを塩焼きにする。
付け合わせには、旬の終わりの菜の花と、大粒のあさり。
これを酒蒸しにして添える。
副菜は、ちぢみほうれん草のお浸しと、絹ごし豆腐の味噌汁。
酒は、福井の銘酒『梵 超吟』。
皇室献上酒としても知られる、究極の純米大吟醸だ。
帰宅後、手際よく調理を進める。
イサキは振り塩をして少し置き、余分な水分を抜いてから遠火の強火で焼き上げる。
皮はパリッと、身はふっくらと。
あさりと菜の花は、日本酒で蒸して旨味を凝縮させる。
出汁の香りがキッチンを満たした頃、母が到着した。
「ただいま、Leo! ……あぁ、いい香り。やっぱり和食が一番ね」
「お帰りなさい、母さん。……どうぞ」
テーブルに並べられた料理を見て、母は目を輝かせた。
イサキの塩焼きに箸を入れる。
溢れ出す脂と、白身の上品な旨味。
そこに『梵』を合わせる。
洗練された香りと透き通るような味わいが、魚の味を引き立てる。
「……Delicious. 貴方の料理は、どんなレストランよりも心が安らぐわ」
「お世辞でも嬉しいですよ」
母との穏やかな食事。
それは、ビジネスという戦場に身を置く俺にとって、かけがえのない休息の時間だ。
母が帰った後、俺は再び外出した。
深夜のバーで、着メロ事業の提携先である音楽事務所の役員と商談があったからだ。
西麻布の会員制バー。
薄暗い照明とジャズが流れる大人の空間で、契約の詰めを行う。
「……では、この条件で。よろしくお願いします」
「ええ。西園寺社長と組めるなんて光栄ですよ」
役員と握手を交わし、彼を見送った後だった。
カウンターの隅で、突っ伏している女性の姿に気づいた。
見覚えのあるシルエット。
アンニュイなショートボブ。
柚木沙耶さんだ。
俺は近づき、声をかけた。
「……柚木さん?」
「……んぅ? ……あら、社長さん……?」
彼女が顔を上げた。
その瞳はとろんと潤み、頬は上気している。
完全に出来上がっている。
テーブルには空になったカクテルグラスが数個。
「どうしたんですか、こんなに飲んで」
「……んー、付き合いよぉ。友達がね、失恋したって言うから……慰めてたんだけど、先に潰れちゃって帰っちゃった……」
彼女はふにゃりと笑った。
普段のクールで分析的な彼女とは別人のような、無防備な姿。
大人の色気と、少女のような隙。
そのギャップが強烈だ。
「……一人で帰れますか?」
「むりぃ……。あし、動かないもん……」
彼女は俺の袖を掴み、上目遣いで見つめてきた。
これを放置して帰るわけにはいかない。
俺はバーテンダーに会計を頼み、彼女の肩を抱いて店を出た。
「……タクシー呼びますね」
「うん……ありがとぉ……」
タクシーの後部座席。
沙耶さんは俺の肩に頭を預け、すーすーと寝息を立てている。
甘い香水の匂いと、アルコールの匂い。
彼女のバッグから免許証を確認し、住所をドライバーに告げる。
マンションに到着し、彼女を支えながら玄関まで送る。
鍵を開け、ソファに座らせると、彼女が不意に俺の首に腕を回してきた。
「……行かないでよぉ」
潤んだ瞳で見つめられる。
顔が近い。
吐息がかかる距離。
普通の男子高校生なら、理性が吹き飛んでいただろう。
だが、俺は41歳の紳士だ。
弱っている女性につけ込むような真似はしない。
「……水を持ってきます。飲んで、ゆっくり寝てください」
俺は優しく彼女の腕を解き、キッチンで水を用意した。
枕元に水を置き、ブランケットを掛ける。
「……おやすみなさい、柚木さん」
彼女の寝顔を一瞥し、俺は静かに部屋を出た。
扉の向こうで、彼女が何かを呟いた気がしたが、それは夜の闇に溶けていった。
翌朝。
俺の携帯に、沙耶さんから着信があった。
電話に出ると、鼓膜が破れそうなほどの絶叫が聞こえてきた。
『キャアアアアアッ!!』
「……おはようございます、柚木さん」
『う、嘘でしょ!? 私、昨日……西園寺くんに……!?』
記憶が戻ったらしい。
『あんな恥ずかしいとこ、年下に見られるなんて……! もうお嫁に行けない!』
「大丈夫ですよ。昨日の柚木さんも、とても魅力的でしたから」
『からかわないでよぉ! ……うぅ、穴があったら入りたい……』
電話の向こうで彼女が悶絶しているのが目に浮かぶようだ。
昨夜の艶っぽい姿と、今の慌てふためく姿。
その両方を知っているのは、俺だけの特権だ。




