第22話 群衆の支配者と羨望の在り処
1999年5月1日、土曜日。
世間はゴールデンウィークの只中にあるが、進学校である私立桜花学園はカレンダー通りの授業日だ。ただし、第1土曜日であるため、午前中で放課となる。
初夏を思わせる爽やかな5月の風が吹き抜ける通学路を、ハイヤーの静謐な後部座席で読書に耽りながら移動していた。
滑らかに滑るようなタイヤの感触と、微かなエンジンの重低音。革張りのシートに深く背を預け、ページを捲る。手にあるのは、フランスの社会心理学者ギュスターヴ・ル・ボンの古典的名著『群衆心理』だ。
個人としては理性的で聡明な人間であっても、集団の一部となった途端に衝動的で暗示にかかりやすくなり、論理よりも感情で動く存在へと変貌する性質を説いた本である。
100年以上も前に書かれた書物だが、その鋭い洞察は、現代のネット社会、そして投資の世界の動きを克明に言い当てている。
熱狂の渦中にある市場では、人はしばしば合理的な判断能力を失い、実態のない熱に浮かされて不当な価格で取引を繰り返す。
本を閉じ、静かに流れる東京の景色に視線を移した。
現在、渋谷を中心に沸き起こっているビットバレー・ブーム。
「ドットコム」と名がつけば何でも資金が集まる狂乱の中、無数のネットベンチャーが雨後の筍のように乱立し、実体のない期待値だけで法外な株価がついている。
だが、永遠に続く相場はない。来年、2000年の春に訪れるバブル崩壊で、市場は極端な調整局面を迎え、その多くは淘汰されて退場していくことになる。
資金繰りに行き詰まり、優秀な技術や特許、そして顧客リストを持ちながらも、経営者の資金管理の甘さゆえに売りに出される企業が溢れるはずだ。
その時こそが、「レオ・キャピタル」が次のフェーズへ移行するタイミングだ。
サーバー事業と着メロ事業で蓄えた潤沢なキャッシュを使い、弱りきった優良な競合他社を片っ端から買収する。
技術、人材、データ。
それらを適正な価格で吸収し、事業を統合して強固な基盤を形成する。それがビジネスにおける資本の論理だ。
★★★★★★★★★★★
3限目、倫理。
担当教師は、教科書の内容をなぞるよりも哲学的な問いを生徒に投げかけるのが好きな、ロマンスグレーの初老の男性だ。
連休の合間でどこか浮ついた空気が漂う教室に、チョークが黒板を叩く音と、彼の静かで重みのある声が響く。
「さて。ニッコロ・マキァヴェッリは『君主論』において、君主は愛されるよりも恐れられるべきだと説いた。しかし、現代社会の組織論においてこの思想は有効だろうか? 西園寺くん、君の考えを聞かせてくれたまえ」
どうやら教師陣の間で、授業の空気が緩んだ時や、少し難解な問いかけをする時は俺に当てろという暗黙の了解ができているらしい。
ゆっくりと席を立ち、周囲の視線を集めながら静かに口を開いた。
「恐怖による支配は長期的には反発を生みます。最終的には実力への敬意と信頼で統治されるべきでしょう」
端的に答えると、教師は我が意を得たりとばかりに深く頷いた。
「実力への敬意、か。実利に基づいた視点だね。座ってよろしい」
着席すると、少しだけ開いた窓から吹き込む風がノートの端をパラパラと揺らした。微かな眠気を孕んでいた教室の空気が少し引き締まったのを感じながら、黒板の文字へ視線を戻す。
休み時間。
手を洗うために喧騒の廊下に出た。
前方から、ジャージ姿の巨漢が早足で歩いてくる。体育教師の鷹森だ。
普段なら、廊下の真ん中を我が物顔で歩き、女子生徒を見ればねっとりとした不快な視線を送る男だが、今日の様子は明らかに違っていた。
視線は落ち着きなく宙を泳ぎ、脂ぎった額には玉のような冷や汗が滲んでいる。
すれ違いざま、彼は俺を睨みつけた。
「……チッ」
露骨な、敵意のこもった舌打ち。
足を止めることなく、ただ淡々と彼を見返した。
舞による徹底的な身辺調査、そして理事会の反鷹森派への周到な根回し。
彼の不正の証拠――部費の私的流用や、過去の体罰もみ消しの事実――が、徐々に外堀を埋めつつある。状況が詰んでいることに、鈍感な彼も本能的に気づき始めたのだろう。
ただ静かに、脂汗を流して歩き去るその背中が見えなくなるまで見送った。
★★★★★★★★★★★
放課後。
図書室へ向かった。
借りていた『プロパガンダ工作論』と『群衆心理』を返却するためだ。
古い紙と埃の匂いが漂う静寂に包まれたカウンターで手続きを済ませ、書架の間を歩きながら新たな本を探す。次に必要なのは、硬直した組織を解体するための理論と、より実践的な心理テクニックだ。
選んだのは2冊。
『失敗の本質』。
鷹森のような旧態依然とした権力構造を崩すための、生きたヒントになるはずだ。
もう一冊は『影響力の武器』。
人が他者の要請を受け入れてしまう心理的トリガーを科学的に解説した本だ。ビジネスの交渉にも、対人関係の駆け引きにも応用が利く。
貸出処理を終え、鞄にしまう。
さて、今日はこれから舞と次回キャンペーンの打ち合わせをする予定だったが。
図書室を出て携帯電話を取り出し、舞に連絡を入れる。
だが、コール音は鳴るものの、一向に出る気配がない。
完璧主義の彼女が、業務連絡に応答しないなど異常事態だ。
少し考え、連絡先リストから別の番号を呼び出した。沙耶さんだ。
『もしもし? 西園寺くん?』
数コールの後、沙耶さんのハスキーな声が聞こえた。
「急な連絡で申し訳ありません、沙耶さん。実は舞と連絡がつかず、心配になりまして」
『ああ……やっぱり。ごめんね、今連絡しようと思ってたところ』
電話の向こうで、小さくため息をつく気配がした。
『舞、ダウンしちゃったのよ。風邪で高熱出しちゃって』
「風邪、ですか」
『ええ。あんたの激務に付き合って、気が張ってたのが連休で一気に緩んだんじゃない? 今、私が彼女のマンションで看病してるとこ』
舞が倒れるまで無理をしていたことに気づけなかった自分に、微かな苛立ちを覚える。
「申し訳ありません。俺の配慮不足です」
『いいわよ、別に。あの子が好きでやってることなんだから。……でもさ』
沙耶さんの声色が、少し変わった。
普段のアンニュイで皮肉めいた響きではなく、どこか真剣で、寂しげな色が混じっていた。
『西園寺くん。今から少し、会えないかしら?』
「沙耶さんと、ですか?」
『ええ。舞は薬飲んで寝ちゃったし、私も看病疲れで息抜きしたいのよ。……付き合ってくれる?』
拒否する理由はなかった。
ハイヤーを回させ、彼女の指定した場所へ向かった。
★★★★★★★★★★★
お台場海浜公園のボードウォークを歩いていた。
時刻は夕暮れ時。レインボーブリッジと対岸のビル群が、深い紫から茜色へと変わる空のグラデーションの中に、黒いシルエットとして浮かび上がっている。
寄せては返す静かな波の音と、頬を撫でる潮風が心地よい。
今日の沙耶さんは、ラフなパーカーにデニムという、看病明けらしいリラックスした服装だった。
スレンダーな肢体とアンニュイな顔立ち。化粧っ気のない素顔は、普段の武装した彼女よりもずっと幼く、儚げに見えた。
「舞ね、うわ言で謝ってたわよ。『社長、申し訳ありません』って」
沙耶さんが、海沿いの手すりに寄りかかりながらぽつりと言った。
「あの子、昔からそうなの。一度決めたら一直線。自分のことなんて二の次で、誰かのためにボロボロになるまで尽くしちゃう」
「ええ。彼女の献身には、いつも助けられています」
「私ね、あの子が羨ましいのよ」
海を見つめたまま、独り言のように続けた。
「舞は迷いがない。それに比べて私は……なんだか、自分が情けなくなるわね」
彼女の言葉には、親友への深い愛情と、コンプレックスが滲んでいた。
大人と子供の境界線で、自分の輪郭が曖昧になる不安。
彼女のその空虚さを否定せず、ただ静かに受け止めた。
「迷うことは、悪いことではありませんよ、沙耶さん」
彼女の隣に立ち、同じオレンジ色の景色を見つめた。
「舞は、没頭できる仕事と場所を見つけただけです。それが俺の立ち上げた会社だったという、ただの偶然ですよ。……沙耶さんのその迷いも、決して無駄ではないはずだ」
「……優しいのね、君は」
こちらを向き、薄く微笑んだ。
その瞳が、夕陽を受けて微かに潤んでいるように見えた。
「年下のくせに、なんでそんなに包容力があるのよ。……調子狂うわ」
「ただの、生意気な後輩ですから」
「ふふっ。ありがと。なんか、スッキリした」
彼女は手すりから体を離し、大きく深呼吸した。
潮風が彼女のショートヘアを揺らす。
「さ、帰りましょ。舞が起きる頃だし、お粥でも作ってあげなきゃ」
「送りましょう。それと、舞への差し入れも用意してあります」
「用意周到ね、社長さん」
並んで歩き出した。
手は繋がなかったが、ウッドデッキを叩く二人の足音のリズムが自然と合っていくのを感じた。
★★★★★★★★★★★
沙耶さんを舞のマンションまで送り届けた後、自宅への帰路についた。
マンションのエントランス付近にある小さな公園で、自販機の放つ白い光の前に立つ小柄な人影を見つけた。
くるみさんだ。
缶コーヒーを片手に、ベンチで台本のようなものを真剣な眼差しで読み込んでいた。
「こんばんは、くるみさん」
「あ、レオ! お帰り」
俺に気づくと、パッと表情を明るくして駆け寄ってきた。
オフの日のラフな格好でも、その天性のオーラは隠しきれない。
「CMの絵コンテですか? 熱心ですね」
「うん。監督さんに言われたイメージ、ちゃんと掴みたくてさ。でも難しいんだよね、『未来を感じさせる表情』って」
眉を寄せて悩ましげに言った。
立ち上げるiモード事業のCM。彼女はその顔となる重要な役割を担っている。
「難しく考える必要はありませんよ。監督の言葉に引っ張られすぎず、くるみさんが一番リラックスできる自然な笑顔を見せてくれれば、それが一番魅力的ですから」
「またぁ、口が上手いんだから。……でも、ありがと。頑張る」
力強く頷いた。
その瞳には、かつてのような迷いはない。
用意したステージで、彼女は確実に自らの光で輝き始めている。
「じゃ、あたしも帰るわ。レオも、無理しちゃダメよ? 舞ちゃんがダウンしたって聞いたし」
「ええ。お気をつけて」
手を振って去っていく彼女を見送り、マンションのエントランスへ向かった。
帰宅し、ジャケットを脱いだところで携帯が鳴った。
母・ソフィアからだ。
嫌な予感がする。
『Leo? こんばんは。ねえ、今から付き合ってくれない?』
「母さん。一昨日、誕生会をしたばかりでしょう? 今夜は何ですか」
『小腹が空いちゃったのよ。貴方の作る、あのお夜食が食べたいわ』
「ルームサービスを取ればいいじゃないですか」
『嫌よ。レオの作ったものがいいの。ね、お願い?』
甘えたような声。
舞がダウンしている今、自ら動くしかない。
「分かりました。材料を持って、そちらへ向かいます」
通話を切り、ため息を一つついてから冷蔵庫を開けた。
消化に良さそうな食材を見繕う。うどんと卵、それに長ネギと出汁昆布。
甘えん坊な母親の夜食作りに付き合うのも、親孝行な息子の務めだ。
まな板の上にネギを取り出し、規則正しい音を立てながら静かに包丁を握った。




