第22話 群衆の支配者と羨望の在り処
世間はゴールデンウィークの只中にあるが、進学校である私立桜花学園はカレンダー通りの授業日だ。ただし、第1土曜日のため、午前中で放課となる「半ドン」。
爽やかな5月の風が吹き抜ける通学路を、俺はハイヤーの静謐な後部座席で読書に耽りながら移動していた。
手にあるのは、フランスの社会心理学者ギュスターヴ・ル・ボンの古典的名著『群衆心理』。
個人としては理性的で聡明な人間でも、集団の一部となった途端に暗示にかかりやすくなり、論理よりも感情で動く存在へと変貌する性質を説いた本だ。
区切りの良いところで本にしおりを挟み、窓の外を流れる東京の景色に視線を移す。
車窓の向こうでは、連休を楽しむ人々の群れが絶え間なく行き交っていた。スクランブル交差点を埋め尽くすほどの人が、信号の色が変わると同時に一斉に同じ方向へと歩き出す。少し離れた場所から俯瞰して見れば、それはまるで一つの巨大な生き物のようにも見えた。
俺は鞄に本をしまい、到着した学園の校門に向けて静かに車を降りた。
3限目、倫理。
担当教師は、教科書の内容よりも哲学的な問いを投げかけるのが好きな、ロマンスグレーの初老の男性だ。
連休の合間で浮ついた空気が漂う教室に、彼の静かで重みのある声が響く。
「……さて。ニッコロ・マキァヴェッリは『君主論』において、君主は愛されるよりも恐れられるべきだと説いた。しかし、現代社会の組織論においてこの思想は有効だろうか? ……西園寺、君の考えを聞かせてくれたまえ」
また俺か。
どうやら教師陣の間で、「授業の空気が緩んだ時や、回答に困った時は西園寺に当てろ」という暗黙の了解ができているらしい。
俺は音を立てずに席を立ち、静かに口を開いた。
「有効な側面はあると考えます。組織の統率において、ある種の畏怖は規律を生み、秩序を維持します。しかし、恐怖のみによる支配は、構成員の面従腹背を招き、長期的には組織の内側からの脆弱化を招くでしょう。現代においては、恐怖ではなく『圧倒的な実力への敬意』によって統治されるべきです。リーダーは愛される必要はありませんが、信頼される必要はあります」
俺の言葉に、教師は深く、我が意を得たりとばかりに頷いた。
「……実力への敬意、か。素晴らしい回答だ。教科書的な理想論ではなく、実利に基づいた視点だね。座ってよろしい」
着席すると、教室の空気が少し引き締まったのを感じた。俺は再び、静かにノートへペンを走らせる。
休み時間。
俺は手を洗うために廊下に出た。
前方から、ジャージ姿の巨漢が早足で、何かに追われるように歩いてくる。
体育教師の鷹森だ。
普段なら、廊下の真ん中を我が物顔で歩き、女子生徒を見ればねっとりとした不快な視線を送る男だが、今日は明らかに様子がおかしい。
視線は落ち着きなく泳ぎ、脂ぎった額には玉のような冷や汗が滲んでいる。
すれ違いざま、彼は俺を睨みつけた。
「……チッ」
露骨な、敵意のこもった舌打ち。
俺は足を止めず、しかし冷徹な視線だけで彼を射抜いた。
舞による徹底的な身辺調査、および理事会の反鷹森派への根回し。彼の不正の証拠――部費の私的流用や、過去の体罰もみ消しの事実――が、徐々に外堀を埋めていることに、彼も本能的に気づき始めたのだろう。
俺は口元を緩めることなく、その背中を無言で見送った。
放課後。
俺は図書室へ向かった。
借りていた本を返却するためだ。カウンターで手続きを済ませ、新たな本を探す。次に必要なのは、硬直した組織を解体するための理論と、より実践的な心理テクニックだ。
選んだのは『失敗の本質――日本軍の組織論的研究』と『影響力の武器』の2冊。
貸出処理を終え、鞄にしまう。
さて、今日はこれから舞と打ち合わせをする予定だったが……。
携帯電話を取り出し、舞に連絡を入れる。
だが、コール音は鳴るものの、一向に出る気配がない。
完璧主義の彼女が、業務連絡に応答しないなど異常事態だ。
俺は少し考え、連絡先リストから別の番号を呼び出した。
沙耶さん。舞の親友であり、彼女のプライベートを唯一知る人物だ。
『……もしもし? 西園寺くん?』
数コールの後、沙耶さんのハスキーな声が聞こえた。
「急な連絡で申し訳ない、沙耶さん。実は舞と連絡がつかず、心配になってな」
『ああ……やっぱり。ごめんね、今連絡しようと思ってたところ』
電話の向こうで、沙耶さんが小さくため息をつく気配がした。
『舞、ダウンしちゃったのよ。過労で高熱出しちゃって』
「過労、か」
『ええ。気が張ってたのが連休で一気に緩んだんじゃない? 今、私が彼女のマンションで看病してるとこ』
舞が倒れるまで無理をしていたことに気づけなかった自分に、強い自責の念を覚える。
「……すまない。俺の配慮不足だ。今すぐそちらへ向かう」
『えっ、ちょっと……』
沙耶さんの返事を待たずに通話を切り、俺はハイヤーを回させた。
舞が暮らす、セキュリティの強固なマンション。
そのエントランスロビーで、沙耶さんと合流した。
今日の彼女は、ラフなパーカーにデニムという、看病明けらしいリラックスした服装だった。
化粧っ気のない素顔は、普段の武装した彼女よりもずっと幼く、そして儚げに見えた。
「……舞ね、うわ言で謝ってたわよ。『申し訳ありません』って」
沙耶さんが、エントランスのソファに腰を下ろしながらぽつりと言った。
「あの子、昔からそうなの。一度決めたら一直線。自分のことなんて二の次で、誰かのためにボロボロになるまで尽くしちゃう」
「ええ。彼女の献身には、いつも助けられています」
「……私ね、あの子が羨ましいのよ」
沙耶さんは視線を落とし、独り言のように続けた。
「完璧に見えて、不器用でしょ? でも、迷いがない。……私なんて、心理学なんて専攻してるけど、自分の心一つ分からないまま、フラフラしてるだけ。何かに没頭できるって、それだけで才能だわ」
彼女の言葉には、親友への深い愛情と、コンプレックスが滲んでいた。
大人と子供の境界線で、自分の輪郭が曖昧になる不安。俺は彼女のその空虚さを否定せず、ただ静かに受け止めた。
「……迷うことは、悪いことではありませんよ、沙耶さん」
俺は静かに言葉を返す。
「沙耶さんのその迷いも、思考も、決して無駄ではないはずだ」
「……優しいのね、君は」
沙耶さんがこちらを向き、薄く微笑んだ。
「なんでそんなに包容力があるのよ。……調子狂うわ」
「ただの、少し老成した少年ですから」
「ふふっ。……ありがと。なんか、スッキリした」
彼女は伸びをして、大きく深呼吸した。
「ありがとう、沙耶さん。俺はこれから、少しキッチンを借りる」
「えっ? 料理するの?」
「ええ。腹に何も入れないままでは、薬も飲めませんからね」
沙耶さんの案内で舞の部屋へ入り、俺はすぐにキッチンへ立った。
手早く一番出汁を引き、シンプルな雑炊を作る。弱り切った胃腸への負担を最小限に抑えるため、米は形が崩れる直前まで柔らかく煮込む。具材は丁寧に解した白身魚と、ふんわりとした溶き卵のみ。塩気は極力抑え、出汁の旨味だけで食べられるように仕上げた。
やがて寝室からふらふらと起きてきた舞は、キッチンに立つ俺の姿を見て、熱で潤んだ目を限界まで見開いた。
「しゃ、社長……!? なぜ、ここに……それに、お料理まで……っ! 申し訳ありません、私の体調管理不足で……!」
「喋るな。そして謝るな。お前をここまで働かせたのは俺だ」
俺は出来立ての雑炊をトレイに乗せ、彼女の前に置いた。
「今はただ、これを食べて休め。お前の責任感が強いのは分かっているが、少し無理をさせすぎた。今は仕事のことはすべて忘れて、自分の体を回復させることだけを考えてくれ」
立ち上る出汁の香りに、舞はポロポロと大粒の涙を零し、何度も頷きながら雑炊を口に運んだ。
その姿を見届け、俺は彼女のマンションを後にした。
自宅マンションのエントランス付近の公園。
自販機の前のベンチで、小柄な人影を見つけた。くるみさんだ。
キャップを目深に被り、ペンを片手に真剣な表情でページをめくっている。
「……こんばんは、くるみさん」
「あ、レオ! お帰り」
彼女は俺に気づくと、パッと表情を明るくした。
「CMの絵コンテですか? 熱心ですね」
「うん。……監督さんに言われたイメージ、ちゃんと掴みたくてさ。でも難しいんだよね、『未来を感じさせる表情』って」
彼女は眉を寄せて悩ましげに言った。
俺が立ち上げる事業のCM。彼女はその顔となる。
「難しく考える必要はありませんよ。監督は単に、変に作り込まない自然な明るさを求めているだけでしょう。いつものように、楽しそうに笑っていれば十分伝わりますよ」
「そっか。……考えすぎてもドツボにハマるだけだもんね。ありがと、なんか気が楽になった」
彼女は明るく頷いた。
その瞳には、かつてのような迷いはない。
「じゃ、あたしも帰るわ。……レオも、無理しちゃダメよ? 舞がダウンしたって聞いたし」
「ええ。お気をつけて」
手を振って去っていく彼女を見送り、俺はマンションのエントランスへ向かった。
帰宅し、ジャケットを脱いだところで携帯が鳴った。
母からだ。
『Leo? こんばんは。……ねえ、今からそっちに行っていいかしら? 貴方の作る、あのお夜食が食べたいわ』
「……母さん。今日は勘弁してください。少し疲れているんです。夜食なら、実家でシェフを呼んでください」
『Oh... そっか。ごめんなさいレオ、今日はゆっくり休んでちょうだい! おやすみなさい!』
あっさりと引き下がり、通話が切れた。
俺は携帯電話をテーブルに置き、小さく溜息をついた。
キッチンへ向かい、グラスに水を注ぐ。喉を潤し、静かになったリビングを見渡した。
流しの電気を消し、俺は静寂に包まれた寝室へと歩みを進めた。




