第23話 筋肉への投資と早すぎた動画革命
ゴールデンウィークの連休中日。
俺は、リビングの一角に構築したホームジムで、フラットベンチに仰向けになっていた。
手にした可変式ダンベルの重量は、片側20キロ。
大胸筋に意識を集中させながら、ゆっくりと腕を開き、そして力強く押し上げる。
筋肉の繊維が限界まで引き伸ばされ、悲鳴を上げる感覚。
テレビの画面では、海外のマッチョな男性と笑顔の女性が、車輪にグリップのついた奇妙な器具を使って腹筋運動を繰り返している。
「たった数分で理想の腹筋が!」という大仰な謳い文句と共に、特別価格のテロップが点滅していた。
「……安易だな」
俺は冷ややかに独りごちて、ダンベルを静かに床のジョイントマットへ下ろした。
努力の過程をすっ飛ばし、手軽な道具で結果だけを得ようとする大衆心理。だが、肉体作りもビジネスも、本質的な強さを得るためには、地道な物理的負荷と理論に基づいた破壊と再生のプロセスが不可欠だ。
汗をタオルで拭いながら、俺は傍らのノートパソコンを開いた。
秘書の舞から送られてきた、新規の投資案件に関するレポートだ。
某ベンチャー企業から持ち込まれた『インターネットカフェ事業の全国チェーン展開』に対する出資要請。
だが、レポートの末尾には、舞自身の見解が冷徹な文面で添えられていた。
『本案件は却下を具申いたします。莫大な家賃、内装費、PCの頻繁なメンテナンスコストを要する上に、本質は労働集約型の時間貸しビジネスであり、当社の求めるスケールメリットと投資基準に合致しません』
俺は口元に満足げな笑みを浮かべた。
完璧なスクリーニングだ。俺が指示を出すまでもなく、彼女は俺の思考のトレースを終えている。
「その通りだ、舞」
俺は短い承認の返信を打った。
俺が目指すのは、店舗という物理的な制約に縛られた小手先のビジネスではない。
俺たちが構築するのは、強固なデジタルインフラを基盤とし、時代がどのように変遷しようとも莫大なキャッシュフローを自動的かつ半永久的に生み出し続ける、巨大な「生態系」そのものだ。
それに比べれば、深夜の通販番組も、ネットカフェの出資話も、視界の端を通り過ぎるノイズでしかない。
午後。
俺は激しいトレーニングで枯渇した肉体に極上のタンパク質を補給するため、ハイヤーで南青山へと向かった。
贔屓にしている老舗の精肉店で、スタミナをつけるための極上の肉を仕入れるためだ。
目抜き通りから少し入った路地を歩いていると、前方に大きなスーパーのレジ袋を両手に抱えて歩く女性の姿があった。
白のノースリーブニットに、色落ちしたデニム。
装飾を削ぎ落としたシンプルな服装が、彼女のすらりとした長い四肢と、透き通るような肌の白さを際立たせている。
早坂涼だ。
「……涼さん」
俺が背後から声をかけると、彼女はビクリと肩をすくませ、振り返った。
「あれ、ボンじゃん! 奇遇だね」
彼女は驚きつつも、すぐにパァッと花が咲くような人懐っこい笑顔を見せた。
元不良の刺々しいオーラは完全に消え去り、そこには充実した日々を送る一人の美しい女子大生の姿がある。
「すごい荷物ですね。俺が持ちますよ」
「えっ、いいよ悪いし! アタシ、結構力あるからさ」
「遠慮しないでください。レディに重い荷物を持たせたまま歩くのは、俺の流儀に反します」
俺は有無を言わせず、彼女の両手からずしりと重い袋を受け取った。
中には大量の野菜や肉、そしてスナック菓子などが詰め込まれている。
「……相変わらず、強引でキザな男の子だね。でも、ありがと。助かるよ」
彼女は少し照れくさそうに笑い、俺の隣に並んで歩き始めた。
「大学の友人たちとパーティーですか?」
「うん。アタシのアパートで、ゼミの連中とタコパするんだ。……大学ってさ、色んな奴がいて面白いよ。高校の時みたいに、突っ張らなくても普通に話せるし」
彼女は眩しそうに目を細めた。
教師になるという目標に向かって、新しい人間関係を築き、着実に歩みを進めている。
俺が彼女を理不尽な暴力から救い出したあの日から、彼女は自らの力で未来を切り拓いているのだ。
「充実しているようで何よりです。……ですが、あまり無理はしないでくださいね」
「分かってるって。……アンタこそ、ちょっと大人びすぎてるから心配なんだよ。ちゃんと高校生らしいこと、してる?」
姉御肌な彼女は、俺の顔を覗き込んでクスリと笑った。
そのあどけなさと大人びた表情のギャップが、春の陽気のように心地よい。
「ええ。十分に楽しんでいますよ」
「そっか。ならいいけど。……あ、アタシの家、この先の角曲がったとこだから、ここでいいよ。重かったでしょ、サンキュな」
彼女は荷物を受け取り、俺に向かって大きく手を振った。
「またな、ボン! 今度、なんか美味いもん奢ってやるよ!」
「楽しみにしています」
彼女の凛とした背中を見送り、俺は目的の精肉店へと足を向けた。
ショーケース越しに店主と直接言葉を交わし、最高級の黒毛和牛を厳選する。
芸術的なサシが入った松阪牛のカルビ、とろけるような肉質の仙台牛のロース、そして希少な黒タンを極厚切りで包んでもらう。
帰りがけに高級スーパーへ寄り、ナムル用の野菜と本場韓国の熟成キムチ、そして『ヱビスビール』の瓶を購入した。
帰宅後、すぐに調理に取り掛かる。
豆もやし、ほうれん草、ゼンマイを絶妙な硬さに茹で上げ、上質なごま油、海塩、すりおろしニンニクでシンプルに和える。
タレは特級醤油をベースに、擦りおろした梨とコチュジャンを混ぜ合わせて一煮立ちさせた自家製だ。
ダイニングテーブルに無煙ロースターをセットし、俺は一人、至福の晩餐を開始した。
「……いただきます」
まずは極厚の黒タンからだ。
熱したプレートに乗せると、ジュウッという音と共に香ばしい匂いが立ち上る。
表面の色が変わった瞬間に裏返し、サッと炙る程度で引き上げ、搾りたてのレモン汁と岩塩で口に運ぶ。
サクッとした極上の歯ごたえと、噛むほどに溢れ出す強烈な旨味。
間髪入れずに、キンキンに冷やしたヱビスビールを煽る。
和牛の野性味溢れる暴力的な脂を、麦芽100%の重厚な苦味と冷たい炭酸が真正面から受け止め、胃の腑へと力強く落とし込んでいく。
美味い。
特製タレにくぐらせたカルビを焼き、サンチュとエゴマの葉で包んで喰らう。
静謐な空間で、極上の肉とビールだけに向き合う時間。
筋肉の超回復を促す栄養素が、身体の隅々にまで行き渡り、明日からのビジネスという名の戦争に向かうための「闘争心」へと変換されていくのが分かった。
完食し、片付けを終えた後、俺はバスルームへと向かった。
職人の手による総檜造りの浴槽に、本物の檜チップと柚子を浮かべる。
服を脱ぎ、42度の熱い湯に身を沈めた。
「……ふぅ」
湯の熱が身体の芯まで浸透し、一日かけて痛めつけた大胸筋や広背筋が、喜びに粟立つような感覚を覚える。
立ち上る深い森の香りと柑橘の香りが、思考のノイズを完全にクリアにしてくれた。
俺は湯船から立ち上がり、曇った鏡を手のひらで拭った。
そこに映るのは、かつての線の細い少年ではない。継続的な負荷によって確実に厚みを増し、引き締まり始めた闘う男の肉体だ。
これから訪れるであろう、苛烈なビジネスの荒波と、水面下で蠢く悪意。
いかなる嵐が来ようとも、決して揺るがない強靭な「器」と「基盤」の構築。
明日からの戦場へ向けた刃の研磨は、こうして静かに完了した。




