第21話 電脳の農場と手巻きの宴
ゴールデンウィークの谷間となる平日。世間は連休モードの浮ついた空気に包まれているが、俺のビジネスの歩みに休止符はない。
放課後。渋谷・桜丘町に構えた仮設オフィスの会議室で、俺は秘書の舞と向き合っていた。
壁際に置かれた大型のホワイトボードには、複雑に絡み合うネットワーク構成図と、向こう三年の収支計画が隙間なく書き込まれている。
「……なるほど。これが社長の仰る『サーバー・ファーム』構想ですか」
舞が、手元の分厚い事業計画書から顔を上げ、感嘆の息を漏らした。
着メロ事業のために用意した潤沢な資金を軸に行う、大規模なインフラ投資計画の全貌だ。
「そうだ。現在の日本のレンタルサーバー市場は、あまりに高額で低品質だ。月額数万円という法外な維持費を取りながら、転送量制限は極めて厳しく、顧客サポートも杜撰極まりない。……これでは、個人のクリエイターや資金力のない中小企業は手が出せない」
俺はホワイトボードの構成図を指先でなぞった。
1999年の現在、自前のホームページを立ち上げ、維持することは、技術的にも金銭的にもハードルが高い。だが、自らの手で情報を発信し、誰かと繋がりたいという欲求は、確実に人々の間で高まりつつある。
「そこで我々は、ハイスペックなSun Microsystemsの物理サーバーを大量購入し、それを仮想的に小分けにして貸し出す。価格は月額数百円から数千円。……市場の常識を覆す、圧倒的な価格破壊を起こす」
「月額数百円……! それで本当に採算が取れるのですか?」
「取れる。徹底した薄利多売だ。それに、ハードウェアは一度購入すれば明確な自社資産になる。初期投資の減価償却さえ終えれば、あとは電気代と回線費のランニングコストだけで、半永久的に利益を生み出し続ける強固なシステムになる」
そして、単に箱を貸すだけではない。俺はもう一つの切り札となる仕様書を舞に手渡した。
「さらに、このインフラを利用した『日記サイト作成ツール』を無料で配布する」
「日記サイト、ですか?」
「ああ。HTMLの専門知識が全くなくても、ブラウザ上で文章を打ち込むだけで、日々の記録が即座に公開できるシステムだ。……誰でも簡単に、自分だけのメディアを持てるようになる」
インターネットの黎明期である今、人々はリンク集などに登録し、手打ちのHTMLタグと格闘しながら日記を公開している。その技術的な手間を極限まで省くツールを無料で提供すれば、爆発的な数のユーザーを獲得できるのは火を見るより明らかだ。
「無料ユーザーには、日記のページ内に自動でバナー広告を表示させ、そこから広告収入を得る。より高度な機能を使いたい有料プランに移行すれば、広告を非表示にでき、独自ドメインも使える。……基本的な機能を無料で提供し、付加価値で課金するモデルだ」
舞の知的な瞳が、鋭い光を帯びた。彼女はすぐに手元の電卓を凄まじい速度で叩き始める。
「……素晴らしいです。これなら、初期投資は大きくても、月々のストック収入で十分に回収できます。それに、一度このツールで日記を書き始めたユーザーは、過去のデータの移行が面倒になり、簡単には他社へ乗り換えませんね」
「その通りだ。継続的なストック収入こそが、経営の地盤を盤石にする」
ゴールドラッシュにおいて真の勝者となるのは、自らツルハシを持って金を掘る者ではなく、ツルハシと作業着を売り、鉄道を敷いた者だ。
「直ちに機材の発注をかけろ。データセンターのラックも必要なだけ確保だ。……この連休中に、最強のインフラの基礎を築き上げるぞ」
「はいっ! お任せください、社長!」
舞の力強い返事を聞き、俺は深く頷いた。彼女という執行者がいれば、いかなる無謀な計画も確実な現実へと変換される。
オフィスでの濃密な打ち合わせを終え、俺は夕暮れの渋谷の街を歩いていた。
少し肌寒いが、ビル群の間を吹き抜ける風が心地よい。
駅前のスクランブル交差点を渡り、大型書店の前を通りかかった時、見覚えのある制服姿を見つけた。
桜木さんだった。
彼女は書店の店先で、分厚い専門的な料理雑誌のページを真剣な眼差しで追っていた。以前のような、翔太の世話に追われていた時の疲労感や悲壮感は微塵もなく、自分の目標に向かって真っ直ぐに歩み始めた人間の、確かな活力に満ちていた。夕日が彼女の横顔を柔らかく照らし出している。
「……桜木さん」
俺が静かに声をかけると、彼女はビクリとして顔を上げ、俺の姿を認めるとパァッと明るい笑顔を向けた。
「あ、西園寺くん! こんばんは!」
「こんばんは。熱心ですね。料理の研究ですか」
「えへへ、見つかっちゃった。……実家のお店の新メニュー、お父さんと一緒に相談してるんだけど、ソースの隠し味とか盛り付けとか、なかなか決まらなくて。色んなプロのアイデアを参考にしようと思って」
彼女は少し照れくさそうに雑誌を閉じた。
以前は「幼馴染のために」料理を作っていた彼女が、今は「店のために」、そして「自分自身のために」料理と真摯に向き合っている。その前向きな変化が、俺にとっても純粋に喜ばしかった。
「桜木さんの味覚とセンスなら、きっと素晴らしい新メニューが完成しますよ。……以前頂いた試作のお弁当も、非常に繊細で絶品でしたから」
「ほ、本当!? ……西園寺くんにそう言ってもらえると、すっごく自信になるなぁ。ありがとう!」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。悪魔的な呪縛から完全に解き放たれ、彼女本来の魅力が豊かな土壌で開花し始めているようだ。
「あ、そうだ。……翔太のことなんだけどね」
桜木さんが、少しだけ声を落として言った。
「私からきっぱり距離を置いたから、あいつ、すごく戸惑ってるみたい。クラスでも私のこと、腫れ物扱いして避けてきて」
「そうですか。……後悔していますか?」
「ううん、全然」
彼女は首を横に振り、真っ直ぐに俺の目を見た。迷いのない、透き通った瞳だった。
「むしろ、もっと早くこうすればよかったって思う。私、他人の世話係を卒業して、自分の足で歩くって決めたから。これからは、お店のこととか、自分の将来のために、自分の時間を使うんだ」
彼女は力強く言い切った。痛みを知り、自らの意志で鎖を断ち切った彼女は、確実に自立への階段を登っている。
「その意気です。桜木さんは、誰かの付属物ではありません。一人の自立した魅力的な女性として、ご自身の人生を歩んでください」
「……うん。ありがとう、西園寺くん」
彼女は小さく、けれど力強く頷いた。その瞳には、俺への深い信頼と、それ以上の静かな熱が宿り始めていた。
「じゃあ、私もう行くね! お父さんが仕込みで待ってるから!」
「ええ。気をつけて」
手を振って足早に去っていく彼女を見送り、俺は歩き出そうとした。その時、胸ポケットの携帯電話が短く振動した。
着信履歴には、母からの不在着信が残っていた。
折り返し電話をかけると、コール音もそこそこに母の弾んだ声が耳に飛び込んできた。
『Leo! 昨日のフレンチと食後のコーヒー、本当に最高だったわ! ねぇ、今夜も摩耶を呼んで、みんなで集まらない?』
昨夜の誕生会の余韻が冷めやらないのだろうが、どれだけ息子離れができていないのかと呆れてしまう。
「母さん。昨夜遅くまでドライブに付き合ったんですから、流石に今日は休ませてください。俺は一人で静かに過ごしたいんです」
『あら、つれないわね。まあいいわ、女王の生誕祭は昨日で満喫したから、今日は特別に我慢してあげる! ゆっくり休んでね!』
嵐のような通話を切り、俺はタクシーを拾った。
向かう先は、東急本店のデパ地下だ。今夜は一人で、極上の手巻き寿司を楽しむとしよう。シンプルな料理ほど、ネタの鮮度と質がすべてを決める。
活気溢れる鮮魚コーナーで、鋭い目利きを行う。
本マグロの中トロ。脂の乗りが美しく、きめ細やかな霜降りのグラデーションを描いているサクを選ぶ。
北海道産のバフンウニ。ミョウバンを使用していない、塩水浸けの木箱入りの最高級品だ。
肉厚で弾力のあるホタテ、透き通るような甘エビ、そして今が旬のアオリイカ。
さらに、手巻き寿司の隠れた主役であり、土台となる「海苔」にもこだわる。有明産の初摘み海苔。パリッとした小気味良い歯切れと、磯の香りの豊かさが一般的な品とは段違いだ。
酒も忘れてはいけない。
和酒コーナーで選んだのは、新潟の銘酒『久保田 萬寿』。華やかな吟醸香と柔らかな口当たりは、繊細な魚介の味を邪魔せず、見事に引き立ててくれる。
両手いっぱいの荷物を抱え、俺は帰路についた。
帰宅後、ジャケットを脱ぎ捨てるよりも早く、酢飯の準備に取り掛かる。
誰もいない静寂に包まれたダイニングで、自分だけのために酢飯を切る。米は硬めに炊き上げ、合わせ酢には微量の昆布茶を混ぜて旨味の層を厚くしてみた。大きな飯台に移し、団扇で手早く扇ぎながら切るように混ぜ、人肌の温度に冷ます。
買ってきたネタは全て、手巻きに最適な大きさと厚みに切り揃え、大皿に美しく並べた。
準備が整い、俺は一人でダイニングテーブルについた。
色とりどりの海の幸が並んだ皿と、冷酒グラスに注いだ『久保田 萬寿』。
「いただきます」
まずは中トロからだ。
パリッとした海苔の上に少量の酢飯を広げ、大葉と中トロを乗せ、本わさびを添えて巻く。一人で手巻き寿司というのも風変わりな光景かもしれないが、誰にもペースを乱されず、自分の好きな具材を自由に組み合わせて味わうのは、ある種の究極の贅沢だ。
口に入れると、海苔の豊かな香りが弾け、次にマグロの上質な脂が舌の熱でとろけ出す。酢飯の酸味と大葉の清涼感がそれを優しく中和し、渾然一体の旨味となって喉へ落ちていく。
そこに冷酒を流し込む。
静謐な空間で、極上の素材と酒だけに向き合う時間。日々のビジネスの喧騒や、学園での人間関係のノイズを完全に忘れさせてくれる、至福のひとときだった。
ゆっくりと食事を楽しんでいると、エントランスからの内線が鳴った。
コンシェルジュからの連絡で、宅配便が届いたとのこと。俺が数日前に手配しておいたものだ。
やがて、運送業者によって複数の巨大なダンボールが室内に運び込まれた。
俺はダイニングテーブルを片付けた後、書斎に向かい、届いたばかりの梱包を解いた。
現れたのは、最新型のハイエンド・ワークステーション本体と、数台の高解像度薄型液晶ディスプレイだ。
俺のリビングにはすでにプロジェクターを用いたシアターセットがあるが、これは娯楽のためのものではない。戦場を勝ち抜くための「武器」だ。
分厚いブラウン管モニターが主流のこの時代において、高価な液晶ディスプレイを複数並べるマルチモニター環境を構築するのは、極めてオーバースペックな投資に見えるかもしれない。だが、刻一刻と変動する世界の金融市場のチャート群と、新設する自社サーバー群のトラフィック状況をリアルタイムで同時監視するためには、この広大なデスクトップ領域がどうしても不可欠となる。
俺は書斎の重厚なデスクに機材を運び込み、手際よく配線を行って環境を組み上げていった。
すべての結線を終え、メイン電源を入れる。
冷却ファンが低い駆動音を立てて回り始め、複数の画面が連動して青白い光を放ち、漆黒のデスクを照らし出した。
俺はレザーチェアに深く腰掛け、起動したばかりの真新しい画面を見渡した。
キーボードに手を置き、システムの初期設定コマンドを打ち込み始める。静かな部屋に、規則正しいタイピングの音だけが響き続けていた。




