第21話 電脳の農場と手巻きの宴
ゴールデンウィークの谷間。世間が連休特有の浮き足立った空気に包まれ、渋谷の街を行き交う人々の足取りもどこか軽い。
だが、桜丘町の雑居ビルの一室に設けたオフィスに休息の気配はなかった。ブラインドの隙間から差し込む西日が、室内の空気をわずかに温めている。
ホワイトボードには黒と赤のマーカーでネットワークの構成図が描かれ、数パターンの収支計画表が隙間なく並んでいる。盤面と向かい合いながらマーカーのキャップを閉めると、手元の資料から顔を上げた舞が小さく息を吐いた。
「なるほど。これが先日仰っていたホスティングサービスと日記ツールの連携構想ですか」
「ああ。着メロ事業の初月のキャッシュフローと銀行からの追加融資枠、機材のリース契約を組み合わせたインフラ投資計画だ。今のうちに足場を固めておきたい」
国内のレンタルサーバーの利用料は月額数万円が相場になっている。それでいて転送量の制限は厳しく、CGIの動作も重い。サポートの対応も迅速とは言い難い。個人のクリエイターや資金力のない中小企業が自前のドメインを持ち、安定したサイトを運営するにはハードルが高すぎるのが現状だ。
「ハイスペックなサーバー群をデータセンターに導入し、仮想的に小分けにして貸し出す。月額数百円から数千円のレンジで提供するプランだ」
「月額数百円ですか。サーバーの維持費や顧客サポートの手間を考えると、かなり利益率が低いように見えますが。最悪、赤字を垂れ流す懸念はありませんか」
舞が手元の電卓を素早く叩き、怪訝そうな視線を向けてくる。数字に厳しい彼女らしい妥当な指摘だ。
「そこは徹底的な自動化でカバーする。オンラインでの申し込みからアカウントの発行、決済処理までをシステム化して人件費を極限まで削る。さらに、単に箱を貸すだけじゃない。このサーバーインフラを利用して、ブラウザ上で文章を書くだけで即座にWeb上に公開できる簡易的な日記作成ツールを無料で配布するんだ」
HTMLやFTPといった専門知識がなくても情報を発信できるシステム。テキストサイトや日記を公開したいという欲求は、今のネット上でもすでに熱を帯び始めている。その障壁を取り払えば、ユーザーは爆発的に増えるはずだ。
「無料ユーザーにはページ内にバナー広告を自動挿入して広告枠とする。広告を外したければ、有料プランに移行してもらう仕組みだ」
「広告媒体としての機能を持たせるわけですね。ですが、日記のシステム自体に特許レベルの独自性はありません。資金力のある他社が類似サービスで参入してきた場合、どう防衛しますか」
舞はボールペンの尻でトントンと机を叩きながら鋭い問いを投げてくる。
「スピードが命になる。一度自分の日記を書き始めると、その日々の記録はユーザーにとっての資産になるんだ。記事が溜まれば溜まるほど、他社のサービスへ引っ越す手間が心理的にも技術的にも障壁になる」
「先行者利益によるユーザーの囲い込みですね。理解しました。これならランニングコストの回収も現実的です。すぐにデータセンターのラック確保と回線業者への手配を進めます」
舞は手元の資料にいくつか素早く書き込みを入れると、すっと顔を上げた。その瞳はすでに次のフェーズでの実務的な段取りを見据え、鋭い光を放っている。
「頼むよ、舞。この連休中に基盤の設計を終わらせよう」
「承知いたしました、オーナー」
凛とした声が静かなオフィスに響いた。彼女の有能さに改めて感謝しながら、ホワイトボードの文字を消しにかかった。
★★★★★★★★★★★
オフィスを出ると、西の空はすでに茜色に染まっていた。
少し肌寒いが、夕暮れの風が火照った頭を冷ましてくれる。駅前のスクランブル交差点を渡り、大型書店の前を通りかかった時、店頭の雑誌ラックの前に見覚えのある制服姿を見つけた。
桜木マナだ。
厚手の料理雑誌のページを真剣な眼差しで捲っている。夕日に照らされて柔らかく光るショートボブの黒髪と、小動物のような愛嬌のある顔立ち。肩にかけたスクールバッグが、彼女が学校帰りであることを示していた。
「桜木さん」
声をかけると、彼女はビクリと肩を揺らしてこちらを振り向いた。そしてパァッと花が咲くような笑顔を見せる。
「あ、西園寺くん! こんばんは!」
「こんばんは。熱心だね」
「見つかっちゃった。お店の新メニュー、お父さんと相談してるんだけど、なかなかアイデアが出なくて。ヒントがないかなって」
彼女は少し照れくさそうに雑誌を閉じて胸に抱えた。表紙には色鮮やかな洋食の特集が組まれている。
「桜木さんの舌とセンスなら、きっと看板メニューになるものが作れるよ。以前頂いたマドレーヌも絶品だったからね」
「本当? 西園寺くんにそう言ってもらえるとすごく自信になるなぁ」
マナは嬉しそうに頬を染め、えへへと照れ笑いを浮かべた。会話の区切りで、ふと彼女の視線が少しだけ下へ落ちる。靴のつま先でアスファルトを軽く小突くような仕草を見せた。
「あ、そうだ。翔太のことなんだけどね」
マナが少しだけ声を落とし、足元のタイルを見つめた。
「最近、あんまり話してないんだ。向こうも避けてるみたいで、クラスでも全然目が合わなくて」
「寂しい?」
「うーん、よく分かんない。ずっと一緒にいるのが当たり前だったから、急に距離ができて戸惑ってるっていうか。でもね、前みたいに胸の奥がギュッとなるような、常に焦ってるみたいな気持ちは減った気がする。今はこうやってお父さんとお店の新しいメニューを考える方が楽しいし」
上手く言葉にならない感情を、彼女なりに懸命に探りながら紡いでいるのが伝わってくる。幼馴染という長年の関係性が変化していくことへの戸惑いと、そこから抜け出して新しい楽しみを見つけようとする、背伸びのない等身大の姿がそこにあった。
「焦る必要はないさ。ゆっくり自分のペースでやりたいことを見つけていけばいい」
「うん。ありがとう、西園寺くん。なんだか話したらすごく元気出た!」
彼女は力強く頷き、顔を上げて満面の笑みを向けた。瞳の中の迷いが少しだけ晴れたように見える。
「じゃあ、私もう行くね! お父さんがお店で待ってるから!」
「ああ。気をつけて」
小さく手を振って人混みへと駆け出していく背中を見送る。その時、ポケットで携帯電話が短く震えた。着信画面には母の番号が表示されている。
「もしもし」
『Leo! 今どこ? お仕事は終わった?』
電話越しに弾むような声が飛び込んできた。
「ああ、今終わったところだよ。どうかした?」
『あのね、昨日のコーヒーが忘れられなくて。また遊びに行ってもいいかしら? 今夜は手料理はいらないわ。お姉ちゃんも誘って、何か買ってパーティーしましょ!』
昨日の今日でまた来客か。多忙なスケジュールの合間を縫って、日本にいる間の家族との時間を何よりも優先したいのだろう。
「分かった。じゃあ手巻き寿司にしよう。これから買い出しをして帰るよ」
『手巻き寿司! Nice idea! じゃあ、私はとびきり美味しいワインを持っていくわね!』
通話を切り、大通りでタクシーを拾ってデパ地下へと向かった。
休日の前夜ということもあり、食品売り場は多くの買い物客で賑わっていた。鮮魚コーナーのショーケースを吟味し、本マグロの中トロのサクを指定する。赤身と脂の境目が美しいグラデーションを描いているものを選んだ。さらに箱入りのバフンウニ、肉厚なホタテ、透き通った甘エビ、アオリイカを次々とカゴに入れていく。青果コーナーではデザート用のイチゴとして大粒が揃った桐箱を購入した。酒のコーナーでサントリー・モルツの瓶と、新潟の銘酒を手に入れ帰路についた。
★★★★★★★★★★★
帰宅後、すぐにジャケットを脱いでエプロンを締め、キッチンのシンクに立つ。
炊き立ての米を飯台に移し、昆布茶を隠し味に加えた合わせ酢を回しかける。木べらで切るように混ぜ合わせながら団扇で手早く冷ました。マグロをサクから切り出し、イカには細かな隠し包丁を入れる。大葉やカイワレを洗い、出汁を利かせた卵焼きをふんわりと焼き上げる。様々な食材の香りがキッチンに立ち込めていく。
包丁の重みを利用して、アオリイカを糸造りに引いていく。まな板に規則正しい音が響き、白く透き通った身が美しく並べられていく。手巻き寿司はネタの切り方一つで口当たりが全く変わる。妥協はしたくない。
ダイニングテーブルに大皿を並べ終えた頃、タイミングよくチャイムが鳴った。モニターを解除してドアを開けると、華やかな装いの母と、その後ろで少し申し訳なさそうにしている姉の姿があった。
今日の母は深紅のブラウスにタイトスカートという出立ちで、エントランスに立つだけで一際目を引くオーラを放っている。対照的に姉は落ち着いたニット姿で、どこか疲れたような表情を浮かべていた。
「Leo! 来ちゃった!」
「ごめんね玲央。マミーがどうしてもって聞かなくて」
「気にしなくていいよ。さあ、入って」
二人をリビングへ招き入れる。色とりどりの海鮮が並んだ食卓を見るなり、母が歓声を上げた。
「Wow! Beautiful! まるで宝石箱みたいね!」
「すごい。昨日も豪華だったけど、今日も気合入ってるわね。あんた、本当にお店出せるんじゃない?」
姉が喉を鳴らしながら席につく。冷酒グラスに日本酒を注いで配り、軽くグラスを合わせた。
「お疲れ様。乾杯」
「乾杯!」
まずはシンプルに中トロから。海苔の上に酢飯を薄く敷き、大葉と中トロを乗せてわさびを添え、くるりと巻いて口に運ぶ。上質な脂が舌の上でとろけ、酢飯の酸味がそれをまとめる。パリッとした海苔の食感が心地よい音を立てた。
姉は最初からウニに手を伸ばし、たっぷりと酢飯に乗せて頬張っている。
「んー! 美味しい! この海苔、香りが全然違うわ!」
「ウニもすっごく甘い! 玲央、あんた最高よ!」
二人が目を輝かせながら次々と手巻きを作っていく。母はアボカドとサーモンでアレンジを楽しみ、姉は納豆とイカを組み合わせた味を作っている。それぞれの好みが反映される手巻き寿司は、食卓の会話を自然と弾ませた。箸が止まることなく進み、用意したネタが次々と消費されていく。
食後のデザートにイチゴを出し、練乳を添えて楽しんでいると、玄関のチャイムが鳴った。昨日手配しておいた品だ。配送員の二人がかりで運ばれる巨大な段ボールが、リビングの壁際に置かれる。
「あら? なにかしらこれ」
「家電だよ。設置をお願いしてある」
梱包が剥がされると、黒光りするフラットなパネルが姿を現した。42インチの薄型プラズマテレビだ。ブラウン管の奥行きがない、一枚の黒い板のようなフォルム。
「嘘。これ、壁掛けテレビ!? 映画の中のセットじゃない!」
「Oh my god... Leo, あなた本当に趣味には妥協しないわね」
二人が壁に設置されたばかりの薄型テレビを見上げる。配線が完了し、配送員が帰った後で電源を入れた。カチッというリレー音の後、大画面に鮮やかな映像がパッと映し出される。DVDプレイヤーから出力された映画のワンシーンが、迫力を持って迫ってきた。スピーカーから響く低音も、今までのテレビとは段違いだ。
「画面が薄くなるだけで、部屋の空間がずいぶん広く感じるだろう?」
「ええ、本当に。まるで魔法みたいね」
母は感嘆の声を上げながら、ソファーの背もたれに深く体重を預けた。画面の中では、派手なカーチェイスが繰り広げられている。
その横で、母がテーブルの上の皿から最後の一つ残っていた大トロの巻き寿司を素早く口に放り込む。
「ちょっとマミー、それ私が狙ってたのに!」
「早い者勝ちよ、摩耶」
文句を言い合う二人のグラスに、残っていた冷酒を均等に注ぎ分ける。空になった瓶をテーブルの端に置き、再びテレビ画面へと視線を戻した。




