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40代IT社長の俺がギャルゲーの悪役に転生したけど、主人公が頼りないので「大人の包容力」と「経済力」でヒロイン全員幸せにします  作者: 伊達ジン


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第20話 監視社会の予兆と皇帝の珈琲

 ゴールデンウィーク初日を迎えた東京は、初夏の力強い気配を濃厚に感じさせる、雲一つない爽やかな陽気に包まれていた。

 昨夜、日付が変わる直前まで母の唐突な「夜のドライブ」に付き合わされた僅かな寝不足も、この突き抜けるような青空と陽気が吹き飛ばしてくれそうだ。


 電話口で「今日は何ですか」などと冷淡に返してみせたが、当然、今日が彼女の誕生日であることはカレンダーを見るまでもなく把握していたし、夜の祝宴の準備もとうに完璧に済ませてある。異国で誕生日を迎える一抹の寂しさを紛らわせるための、いわば「前夜祭」のドライブなのだろうと察していたからこそ、俺は無茶な要求に黙って付き合ったのだ。

 深夜の首都高を走りながら、後部座席で窓の外の夜景を指差しては子供のようにはしゃいでいた母の横顔を思い出し、俺は小さく息を吐いた。


 午後。俺は休日の人波でごった返す渋谷の喧騒を抜け、この街の象徴的なランドマークの一つである『渋谷パンテオン』の重厚なロビーに立っていた。

 高い天井と、同じ建物に併設されたプラネタリウムが醸し出す独特の静謐な空気。ここは単なる映画館を超え、多くの映画ファンにとって特別な場所として愛されている大型劇場だ。

 今日俺が観た作品は、ウィル・スミス主演のサスペンス・アクション。息もつかせぬスリリングな展開と派手なアクションシーンを純粋なエンターテインメントとして楽しんだ後、俺は熱気に満ちたスクリーンの暗がりから、外光の差し込むロビーへと歩みを進めた。


 次回のチケットを求める客や待ち合わせの人々で賑わう空間を抜け、出口へ向かおうとした時だった。

 大勢の人間が行き交う中で、一際目を引く女性の姿が視界に留まった。

 沙耶さんだ。


 今日の彼女は、映画館の落ち着いた空気に美しく溶け込むような、シックで上品な黒のノースリーブワンピースを纏っていた。余計な装飾を削ぎ落としたシンプルなデザインが、彼女の持つ大人びた雰囲気をより一層引き立てている。

 彼女は壁際の少し窪んだスペースに寄りかかり、手にしたパンフレットのページを気だるげに捲っていた。


「……こんにちは、沙耶さん。奇遇ですね」


 俺が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げ、驚いたように瞳を瞬かせた。

 そして、相手が俺だと認識した瞬間に、その薄い口元へ悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「あら。……西園寺くん? 昨日の今日でまた会うなんて、運命かしら?」

「かもしれませんね。沙耶さんも映画ですか?」

「ええ。ウィル・スミス目当てだったんだけど……中身は想像以上にハードなサスペンスだったわ」


 彼女は手にしたパンフレットをパタンと閉じ、俺の顔を覗き込んできた。


「国家の監視システムとか、ちょっと怖くなるような話だったでしょ。……ねえ。この後、少し時間ある? 映画の感想戦でもどうかしら。近くにコーヒーの美味しいカフェがあるのよ」

「非常に魅力的なお誘いですが、残念ながら。今日はこれから母の誕生日祝いで、ペントハウスに家族が集まる予定なんです。主役を待たせるわけにはいきません」

「あら、それは最優先事項ね。……残念だけど、お母様によろしく伝えておいて」


 彼女はあっさりと引き下がった。相手の都合を尊重し、無理に踏み込んでこないこの距離感の保ち方が、非常に心地よい。

 だが、別れ際に俺を見つめるその瞳には、昨日のゲームセンターでの勝負や、洋服選びの時に見せたような、純粋な親愛の色が混じっていた。


「また近いうちに。……昨日のワンピース、とてもお似合いでしたよ」


 俺が去り際に微笑みながらそう付け加えると、彼女は不意を突かれたように少し顔を赤らめ、スッと視線を逸らした。


「っ……! 余計なこと思い出させないでよ。……じゃあね、親孝行息子さん」


 彼女は小さく手を振り、照れ隠しのように早足で雑踏の中へと消えていった。


 映画館を後にした俺は、ハイヤーを拾い、表参道の裏路地にひっそりと佇むコーヒー豆の専門店へと向かった。

 夜の祝宴の料理は、すでに腕利きの出張シェフを手配済みだ。だが、食後のコーヒーだけは、俺自身の手で淹れると決めていた。母は無類のコーヒー好きであり、舌も肥えている。中途半端なものは出せない。


 アンティーク調の重厚な木製ドアを開け、店内に一歩足を踏み入れると、芳醇で深い焙煎香が全身を包み込んでくれた。

 カウンターの奥で豆の選別をしていた顔馴染みのマスターに、短く声をかける。


「……マスター。例の豆、入っていますか?」

「お待ちしておりました、西園寺様。……ええ、ご要望通り。奇跡的に確保できましたよ。『セントヘレナ』です」


 マスターが奥の棚から、光や湿気を遮断するアルミの密閉袋を恭しく取り出してきた。


『セントヘレナ』。


 南大西洋に浮かぶ孤島、セントヘレナ島でのみ栽培される、極めて希少なコーヒー豆だ。かつてナポレオン・ボナパルトが幽閉され、その最期に愛飲したことで知られる伝説の逸品であり、現在でも日本国内への流通量は極端に限られている。


「状態はどうですか」

「完璧です。透き通るようなクリアな味わいと、フローラルな香り。まさにコーヒーの貴婦人と呼ぶにふさわしい仕上がりになっていますよ」


 俺はそれを200グラム購入した。

 受け取った紙袋からは、封を閉じているにもかかわらず、高貴で繊細な香りが微かに漂ってくるようだった。


 マンションに帰宅すると、エントランスにはすでに姉の靴が脱ぎ捨てられていた。

 リビングへ向かうと、姉はドレス姿のまま脚立に乗り、天井の飾り付けに悪戦苦闘していた。


「あ、お帰り玲央! 遅い! この風船、膨らませるの手伝ってよ! 酸欠で倒れそう!」


 姉はしぼんだ風船を片手に、頬を膨らませて抗議してきた。

 今日の彼女は、春らしい淡いピンクのワンピースを纏っている。柔らかなハニーブロンドのショートボブが愛らしいが、足元に散らばる風船の残骸と丸めたセロハンテープが、せっかくのドレスアップを台無しにしている。


「ただいま、姉さん。……随分と派手な演出ですね。業者に任せればよかったのでは?」

「当たり前でしょ! マミーの誕生日よ! 西園寺家の女王生誕祭なんだから、手作り感がないと万死に値するわ!」


 俺は苦笑しながら、買ってきたコーヒー豆をカウンターの奥に置き、ジャケットを脱いで手際よく飾り付けを手伝った。

 俺が手早くバルーンを膨らませ、バランスを見ながら壁や天井にオーナメントを固定していくと、殺風景だったリビングは一瞬にして華やかで温かみのあるパーティー会場へと変貌を遂げた。


 ちょうど最後のガーランドを留め終えた時、重厚なインターホンが鳴り響いた。

 ドアを開けると、そこには大輪の薔薇のようなオーラを放つ母が立っていた。

 今日は肩のラインを大胆に出した、エレガントな真紅のデザイナーズドレスを完璧に着こなしている。匂い立つような艶やかなオーラと、圧倒的な華やかさ。


「Happy Birthday, Mom!」

「お誕生日おめでとう、マミー!」


 俺と姉が声を合わせてクラッカーを鳴らすと、母は金銀の紙吹雪を浴びながら、少女のように瞳を輝かせた。


「Oh... Thank you! 嬉しいわ! 二人とも、愛してる!」


 母は俺たちを力強く抱きしめ、俺の頬にキスの雨を降らせた。

 上質な香水の甘い香り。俺の記憶の底に刻み込まれている、幸福な「母の匂い」だ。


 手配していた出張シェフによる、キャビアを添えた冷前菜や、オマール海老のロースト、黒毛和牛のフィレステーキといった極上のフレンチコースを楽しんだ後、いよいよプレゼントの贈呈タイムとなった。

 姉からは特注の巨大なアロマキャンドル。俺からは、彼女のサイン用に書き味を調整させたヴィンテージの万年筆を贈った。

 母はそれらを宝物のように胸に抱き、心からの笑顔を見せてくれた。


 そして、パーティーのフィナーレ。

 俺は席を立ち、静かにキッチンへと向かった。

 手動のミルに『セントヘレナ』の豆を投入する。

 静かなリビングに、ガリガリと豆を挽く心地よい音が響き、柑橘系の上品な酸味を含んだ香りが一気に立ち上る。


 今日はネルドリップで淹れる。

 厚手の布フィルターが余計な雑味を吸着し、豆の持つ豊かな甘みと油分を最大限に引き出してくれるからだ。

 湯温は正確に88度に調整する。

 粉の中心に、細い糸のようにお湯を落とす。粉がふっくらとドーム状に膨らみ、コーヒーの奥深いアロマが花開くように広がっていく。


「……いい香りね。ダイニングまで届いているわよ、レオ」


 母の弾むような声が背中越しに聞こえる。

 俺は一滴の妥協も許さず、全神経を指先に集中させて抽出を続けた。琥珀色の液体が、ゆっくりと、しかし確実にガラスサーバーへと落ちていく。


 温めておいたマイセンのカップに静かに注ぎ、トレイに乗せてテーブルへ運ぶ。


「お待たせしました。本日のスペシャルティ、『セントヘレナ』です」

「まあ……! セントヘレナ? あの幻のコーヒー豆を?」


 母は驚き、両手でカップを包み込むように持ち上げると、顔を近づけて深く香りを吸い込んだ。

 そして、ゆっくりと一口。


「…………」


 数秒の静寂の後、母はうっとりと目を細めた。


「……Amazing. なんて澄み切った味なの。まるで極上のシルクが喉を通っていくようだわ……。フローラルで、それでいて力強い。レオ、貴方はいつの間にこんな魔法を覚えたの?」

「素材が良かっただけですよ。……お気に召しましたか?」

「最高よ。……今まで生きてきた中で最高の誕生日だわ」


 母は目を潤ませながら、もう一口を味わった。

 家族の満ち足りた笑顔。それは、俺にとって何にも代えがたい心のオアシスだった。


「ねえ、レオ。……貴方がどんなに大きくなっても、どれほど偉大な存在になっても。貴方は私にとって、世界で一番可愛い息子よ。それだけは忘れないでね」


 母が真剣な眼差しで俺を見つめ、優しく微笑んだ。

 俺は小さく頷き、母の言葉を静かに受け止めた。

 テーブルの上には、和やかな祝宴の余韻が漂っている。俺は空になったマイセンのカップをトレイに乗せ、それを洗うためにキッチンへとゆっくり歩みを進めた。

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