第20話 監視社会の予兆と皇帝の珈琲
1999年4月29日、祝日である「みどりの日」。ゴールデンウィーク初日を迎えた東京は、初夏の力強い気配を濃厚に感じさせる、雲一つない爽やかな陽気に包まれていた。
渋谷のスクランブル交差点を埋め尽くす人々の熱気と喧騒を抜け、街の象徴的なランドマークの一つである『渋谷パンテオン』の重厚なロビーに足を踏み入れる。高い天井と併設されたプラネタリウムが醸し出す独特の静謐な空気が、外の喧騒を綺麗に遮断してくれた。ここは単なる映画館を超え、多くの映画ファンにとって特別な時間を提供する聖地のような場所だ。
今日ここで観た作品は、トニー・スコット監督のサスペンス・アクション『エネミー・オブ・アメリカ』。偶然ある事件の決定的な証拠を掴んでしまった一人の弁護士が、国家安全保障局という巨大な権力に命を狙われ、最新の監視技術によってプライバシーを無慈悲に丸裸にされていく物語である。
劇中で息もつかせぬテンポで描かれるテクノロジーの脅威。衛星によるピンポイントの追跡や、あらゆる通信網の傍受。世紀末という熱に浮かされたこの時代を生きる一般の観客には、まだどこか近未来のSFチックな絵空事として映ったかもしれない。
だが、これから訪れるIT革命の先を知る身としては、スクリーンに映し出されたディストピアが決してフィクションで終わらないことが痛いほどに理解できた。
GPSによる位置情報の把握、街中の防犯カメラと連動した顔認証システム、そして個人の購買履歴から趣味嗜好までを丸裸にするビッグデータ。これらはすべて、社会の利便性や安全確保という大義名分と引き換えに、我々自身を管理するための見えない鎖となっていく。
パンフレットのざらついた紙質を指先で確かめながら、静かに息を吐いた。
これから先、自らが仕掛けようとしているモバイルビジネスもまた、そうした膨大なデータ収集の巨大な一端を担うことになる。ネットワークを通じて人々の生活を根本から変える力を持つ者には、強烈な倫理観と自制心が求められる。ジョージ・オーウェルが描いたディストピアのような監視社会に加担しないために、自身のやり方で自由を守るための確固たる力を蓄えなければならない。スクリーン越しに突きつけられた命題は、決して他人事ではなかった。
★★★★★★★★★★★
休日の昼下がりらしく、劇場のロビーは次々とはき出されてくる観客たちでごった返していた。熱気と感想の声が入り交じる人混みを抜けて出口へ向かおうとした時、視界の端に一際異彩を放つ女性の姿が留まった。
沙耶さんだ。
今日の彼女は、映画館の仄暗い照明に美しく溶け込むような、シックで上品な黒のノースリーブワンピースを纏っていた。華奢な鎖骨のラインにはシルバーのチョーカーが鈍い光を放ち、少し無造作にシャギーの入ったショートボブが、彼女特有のアンニュイで大人びた雰囲気をさらに引き立てている。喧騒から一歩引いたように壁に寄りかかり、手にしたパンフレットのページを気だるげに捲る横顔は、それ自体が一本の映画のようだった。
「こんにちは、沙耶さん。奇遇ですね」
声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げ、ほんの少しだけ驚いたように双眸を見開いた。だがすぐに、その薄い口元に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「あら。西園寺くん? 昨日の今日でまた会うなんて、ひょっとして運命かしら」
「そうかもしれませんね。沙耶さんも映画ですか?」
「ええ。サスペンスの評判が良かったからフラッと来てみたんだけど、中身は想像以上にハードで息が詰まったわ」
彼女は手にしたパンフレットをパタパタと軽く振って見せた。
「国家権力にあそこまで徹底的に監視されたら、逃げ場なんてどこにもないわね。常に見張られているかもしれないって疑心暗鬼になるだけで、人間の精神なんて簡単に参ってしまいそう」
「同感です。監視の目が行き届きすぎた社会は息苦しいですからね。ただ、現実にはもっと静かに、人々は利便性と引き換えに自ら進んで個人情報を手放していくようになるんじゃないかと思いますよ」
「嫌な予想ね。でも、君が真顔でそう言うと、本当にそんな未来が来そうでちょっと怖いわ」
沙耶さんは少し大袈裟に肩をすくめてみせた。その仕草すらも洗練されていて絵になる。彼女は少し思案するようにこちらをじっと見つめ、ふと小首を傾げて提案してきた。
「ねえ。この後、少し時間ある? 映画の感想戦でもどうかしら。すぐ近くに落ち着いて話せるいいカフェがあるの」
「非常に魅力的なお誘いで心が揺らぎますが、残念ながら。今日はこれから母の誕生日祝いで、家族が集まる予定が入っているんです。さすがに遅れるわけにはいきません」
「あら、それは最優先事項ね。それじゃあ引き止めるのは野暮だわ。残念だけど、お母様によろしく伝えておいて」
潔く身を引くその態度は、相手の事情を尊重する大人の女性らしい心地よい距離感に満ちていた。だが、踵を返して別れる間際、こちらを見つめる瞳には、昨日のプリクラを撮った時に見せたような柔らかな親愛の色が確かに混じっていた。
「また近いうちに。昨日のワンピースも素敵でしたが、今日の黒もとてもよくお似合いですよ」
「っ! もう、余計なこと思い出させないでよ。じゃあね、親孝行息子さん」
彼女はほんの少しだけ頬を赤らめ、ヒールの音を響かせながら雑踏の中へと消えていった。その背中が見えなくなるまで見送ってから、再び歩き出す。
★★★★★★★★★★★
パンテオンを後にすると、待たせていたハイヤーに乗り込み、表参道の裏路地にひっそりと佇むコーヒー豆の専門店『マメーズ』へと向かった。
今日は、母・ソフィアの43歳の誕生日だ。夜の祝宴を彩る料理については、すでに腕の確かな一流シェフを出張で手配してある。だが、食後のコーヒーだけは他の誰でもなく、自身の手で淹れると決めていた。母は無類のコーヒー好きであり、その味覚は鋭い。中途半端なものを出すわけにはいかない。
ドアを開けて店内に一歩足を踏み入れると、深く芳醇な焙煎香が全身を包み込んできた。静かにジャズが流れる店内を見渡し、カウンターの奥で作業をしていた顔馴染みのマスターに声をかける。
「マスター。例の豆、無事に入荷していますか?」
「お待ちしておりました。ええ、なんとか奇跡的に確保できましたよ。『セントヘレナ』です」
マスターは誇らしげな笑みを浮かべると、奥の棚から恭しくアルミの密閉袋を取り出してきた。
『セントヘレナ』。
南大西洋の絶海に浮かぶ孤島、セントヘレナ島でのみ栽培される極めて希少なコーヒー豆である。かつてかのナポレオン・ボナパルトが流刑に処され、その孤独な最期に「死ぬ前に一杯のコーヒーを」と懇願したことで世界的に知られるようになった伝説の逸品だ。1999年の現在の日本市場において、安定したルートで手に入れることは困難を極める幻のコーヒーでもある。
「ナポレオンが孤島で愛した唯一の慰め。母への特別なプレゼントには、これ以上ない選択でしょう」
「間違いありません。透き通るようにクリアな味わいでありながら、華やかなフローラルな香りが後を引く。まさにコーヒーの貴婦人と呼ぶにふさわしい豆です」
納得のいく説明に頷き、それを200グラム購入した。丁寧に包装されて受け取った紙袋からは、厳重に封を閉じているにもかかわらず、どこか高貴な香りがかすかに漂ってくるような気がした。
★★★★★★★★★★★
マンションに帰宅して玄関を開けると、エントランスにはすでに姉の摩耶の靴が脱ぎ捨てられていた。廊下を抜けてリビングへ向かうと、彼女はすでに華やかなドレス姿に着替えているというのに、脚立の上に危なっかしく乗りながら天井の飾り付けに悪戦苦闘していた。
「あ、お帰り玲央! 遅いよ! ちょっとこの風船膨らませるの手伝って! もう酸欠で倒れそうなんだけど!」
姉は不満げに頬を膨らませて抗議の声を上げてきた。今日の彼女は、清楚なピンク色を基調とした可愛らしいワンピースを纏っている。ブロンドのショートボブが動くたびにふわりと揺れて愛らしいが、足元の床一面に散らばっている風船の残骸や色とりどりのリボンが、彼女の少し大雑把な性格を雄弁に物語っていた。
「ただいま、姉さん。随分と気合いの入った派手な演出ですね」
「当たり前でしょ! マミーの誕生日なんだから! 西園寺家の女王の生誕祭に手抜きなんかしたら、後で何を言われるか分かったもんじゃないわよ!」
文句を言いながらも楽しそうな姉の様子に苦笑しつつ、買ってきたコーヒー豆の紙袋をキッチンカウンターの安全な場所に置いた。スーツのジャケットを脱ぎ、すぐさま手際よく飾り付けのサポートに入る。バランスを見ながら天井にオーナメントを固定し、壁面にリボンを這わせていくと、さっきまで殺風景だったリビングは一瞬にして華やかなパーティー会場へと変貌を遂げた。
準備が完了したとほぼ同時のタイミングで、玄関の重厚なインターホンが鳴り響いた。
扉を開けると、そこには大輪の薔薇のような圧倒的なオーラを放つ母が立っていた。今日は肩のラインを大胆に露出した、深く鮮やかな紅色のデザイナーズドレスを完璧に着こなしている。43歳という年齢をまったく感じさせない瑞々しい肌と、凛とした気品のある美貌は、息子の目から見ても感嘆するほかない。
「Happy Birthday, Mom!」
「お誕生日おめでとう、マミー!」
姉とタイミングを合わせてクラッカーを鳴らすと、パーンという軽快な音と共に色とりどりの紙テープが舞った。母は少女のようにパッと瞳を輝かせる。
「Oh... Thank you! 嬉しいわ! 二人とも、愛してる!」
母は弾むような足取りで駆け寄ってくると、二人を力強く抱きしめ、左右の頬に情熱的なキスの雨を降らせてきた。ふわりと香る甘く上品な香水の匂い。それは、どんなに時が経っても変わらない、記憶の底に深く刻み込まれた幸福な「母の匂い」だった。
★★★★★★★★★★★
出張シェフによって振る舞われた洗練されたフレンチのフルコースを堪能した後、いよいよ食後のプレゼント贈呈タイムとなった。
姉からは彼女のセンスが光る特注のアロマキャンドルセットが贈られ、こちらからは手馴染みの良いヴィンテージの万年筆を手渡した。母はどちらの贈り物も本当に嬉しそうに、まるでかけがえのない宝物のように胸に抱きしめてくれた。
そして、パーティーのフィナーレを飾る時間がやってきた。
静かに席を立ち、キッチンへと向かう。手動のミルに買ってきたばかりの『セントヘレナ』の豆をゆっくりと投入する。ハンドルを回すたびにガリガリと小気味よい音が室内に響き渡り、柑橘系の上品な酸味を含んだ極上の香りがふわりと立ち上り始めた。
今日はネルドリップで丁寧に淹れることにした。布のフィルターは紙と違って雑味をしっかりと吸着し、豆が本来持っている豊かな甘みと油分を最大限に引き出してくれるからだ。
湯温はきっちり88度に設定する。挽き立ての粉の中心に向かって、ポットから糸のように細く均等にお湯を落としていく。お湯を含んだ粉がハンバーグのようにふっくらとドーム状に膨らみ、閉じ込められていたコーヒーのアロマが一気に花開いた。
「すごくいい香りね。リビングのソファーまで届いているわよ、玲央」
背後から、母の期待に満ちた弾むような声が聞こえてくる。その声に応えるためにも、一滴の妥協も許さずに全神経を集中させて抽出を続けた。ポタポタと、美しい琥珀色の液体がサーバーに落ちていく。
あらかじめ適温に温めておいたマイセンのティーカップに丁寧に注ぎ分け、シルバーのトレイに乗せてリビングのテーブルへと運んだ。
「お待たせしました。本日のスペシャルティ、『セントヘレナ』です」
「まあ……! セントヘレナ? ナポレオンが愛したという、あの幻のコーヒー?」
母は心底驚いたように目を丸くした後、カップの縁を両手でそっと包み込み、顔を近づけてその豊かな香りを深く吸い込んだ。そして、目を閉じてゆっくりと一口を含み、静かに舌の上で転がす。
静寂が降りた。
やがて、母はうっとりとした表情で目を細め、長い感嘆の吐息を漏らした。
「Amazing. なんて澄み切った味なの。舌触りがまるで上質なシルクのようだわ。華やかでフローラルなのに、芯にはしっかりとした力強さがある。玲央、貴方はいつの間にこんな魔法みたいな淹れ方を覚えたの?」
「豆の素材が素晴らしかっただけですよ。お気に召していただけましたか?」
「ええ、最高よ。人生で最高の、43歳の誕生日になったわ」
母はわずかに目を潤ませながら、愛おしむようにもう一口を味わった。その横では、姉も美味しいと歓声を上げながらコーヒーを楽しんでいる。
目の前に広がる、家族の満ち足りた笑顔。それは、ビジネスの世界でどれほど冷徹な決断を迫られようとも代えがたい、心からの安らぎを与えてくれる場所だった。
「ねえ、玲央」
不意に、母が真剣な眼差しを向けてきた。
「貴方がこれからどんなに大きく成長しても、どれだけ偉大な社長になったとしても。貴方は私にとって、いつまでも世界で一番可愛い息子よ。それだけは絶対に忘れないでね」
力強く、そして限りなく優しい言葉だった。
どれだけ過去の膨大な経験を背負い、精神的に成熟していようとも、彼女の前ではそんなものは何の意味もなさない。母という海のように深く絶対的な愛の前に立つと、いつだってただの守られるべき子供に戻ってしまうのだ。
高貴なコーヒーの香りが漂う部屋の中、温かな家族の絆に包まれながら、静かにカップを傾けた。




