第22話 群衆の支配者と羨望の在り処
世間はゴールデンウィークの只中にあるが、進学校である私立桜花学園はカレンダー通りの授業日だ。ただし、第1土曜日のため、午前中で放課となる「半ドン」。
爽やかな5月の風が吹き抜ける通学路を、俺は、ハイヤーの静謐な後部座席で読書に耽りながら移動していた。
手にあるのは、フランスの社会心理学者ギュスターヴ・ル・ボンの古典的名著『群衆心理』。
個人としては理性的で聡明な人間でも、集団の一部となった途端に衝動的で暗示にかかりやすくなり、論理よりも感情で動く野蛮な存在へと変貌する性質を説いた本だ。
100年以上も前に書かれた書物だが、その鋭い洞察は、現代のネット社会、そして投資の世界においても恐ろしいほどに通底している。
「……熱狂は理性を麻痺させる。そして、熱狂が冷めた後に残るのは、夢破れた屍の山と、誰にも見向きされずに安値で放置された『宝の山』だ」
俺は本を閉じ、窓の外を流れる東京の景色に視線を移した。
現在、渋谷を中心に沸き起こっているビットバレー・ブーム。
「ドットコム」と名がつけば何でも金が集まる狂乱の中、無数のネットベンチャーが雨後の筍のように乱立し、実体のない期待値だけで法外な株価がついている。
だが、俺は知っている。来年、2000年の春に訪れるバブル崩壊で、その多くは淘汰され、電子の海へと消えていくことを。
資金繰りに行き詰まり、優秀な技術者や特許、そして顧客リストを持ちながらも、経営者の未熟さゆえに二束三文で売りに出される企業が溢れるはずだ。
その時こそが、俺たち「レオ・キャピタル」の真の出番だ。
サーバー事業と着メロ事業で蓄えた、血の通った潤沢なキャッシュを使い、弱りきった優良な競合他社を片っ端から買収する。
技術、人材、データ。
それらを底値で吸収し、巨大なコングロマリットを形成する。
まさに冷酷な捕食者の論理だが、それが資本主義のルールだ。生き残った者が、次の時代の覇者となる。
3限目、倫理。
担当教師は、教科書の内容よりも哲学的な問いを投げかけるのが好きな、ロマンスグレーの初老の男性だ。
連休の合間で浮ついた空気が漂う教室に、彼の静かで重みのある声が響く。
「……さて。ニッコロ・マキァヴェッリは『君主論』において、君主は愛されるよりも恐れられるべきだと説いた。しかし、現代社会の組織論においてこの思想は有効だろうか? ……西園寺くん、君の考えを聞かせてくれたまえ」
また俺か。
どうやら教師陣の間で、「授業の空気が緩んだ時や、回答に困った時は西園寺に当てろ」という暗黙の了解ができているらしい。
俺は席を立ち、41歳の組織運営経験を脳内で検索してから答えた。
「有効な側面はあると考えます。組織の統率において、ある種の畏怖は規律を生み、秩序を維持します。しかし、恐怖のみによる支配は、構成員の面従腹背を招き、長期的には組織の内側からの脆弱化を招きます。現代においては、恐怖ではなく『圧倒的な実力への敬意』によって統治されるべきでしょう。リーダーは愛される必要はありませんが、信頼される必要はあります」
俺の言葉に、教師は深く、我が意を得たりとばかりに頷いた。
「……実力への敬意、か。素晴らしい回答だ。教科書的な理想論ではなく、実利に基づいた視点だね。座ってよろしい」
着席すると、教室の空気が少し引き締まったのを感じた。
「圧倒的な実力への敬意」。それはまさに、俺がこの学園で、そしてビジネスの世界で築き上げようとしているものそのものだ。
休み時間。
俺は手を洗うために廊下に出た。
前方から、ジャージ姿の巨漢が早足で、何かに追われるように歩いてくる。
体育教師の鷹森恒一だ。
普段なら、廊下の真ん中を我が物顔で歩き、女子生徒を見ればねっとりとした不快な視線を送る男だが、今日は明らかに様子がおかしい。
視線は落ち着きなく泳ぎ、脂ぎった額には玉のような冷や汗が滲んでいる。
すれ違いざま、彼は俺を睨みつけた。
「……チッ」
露骨な、敵意のこもった舌打ち。
俺は足を止めず、しかし冷徹な視線だけで彼を射抜いた。
効果が出ているようだ。
舞による徹底的な身辺調査、そして理事会の反鷹森派への根回し。
彼の不正の証拠――部費の私的流用や、過去の体罰もみ消しの事実――が、徐々に外堀を埋めていることに、鈍感な彼も本能的に気づき始めたのだろう。
狩りの時間は近い。
俺は口元を緩めることなく、その哀れな後ろ姿を見送った。
放課後。
俺は図書室へ向かった。
借りていた『プロパガンダ工作論』と『群衆心理』を返却するためだ。
カウンターで手続きを済ませ、新たな武器となる本を探す。次に必要なのは、硬直した組織を解体するための理論と、より実践的な心理テクニックだ。
選んだのは2冊。
『失敗の本質――日本軍の組織論的研究』。
過去の大戦における日本軍の敗因を分析し、組織の硬直化と機能不全を学ぶ名著。鷹森のような旧態依然とした権力構造を崩すための、生きたヒントになる。
もう一冊は『影響力の武器』。
人が他者の要請を受け入れてしまう心理的トリガーを科学的に解説した本だ。ビジネスの交渉にも、そして対人関係の駆け引きにも応用が利くバイブルだ。
貸出処理を終え、鞄にしまう。
知識のアップデートは完了だ。
さて、今日はこれから舞さんと次回キャンペーンの打ち合わせをする予定だったが……。
携帯電話を取り出し、舞に連絡を入れる。
だが、コール音は鳴るものの、一向に出る気配がない。
完璧主義の彼女が、業務連絡に応答しないなど異常事態だ。
俺は少し考え、連絡先リストから別の番号を呼び出した。
柚木沙耶さん。舞の親友であり、彼女のプライベートを唯一知る人物だ。
『……もしもし? 西園寺くん?』
数コールの後、沙耶さんのハスキーな声が聞こえた。
「急な連絡で申し訳ありません、柚木さん。実は舞と連絡がつかず、心配になりまして」
『ああ……やっぱり。ごめんね、今連絡しようと思ってたところ』
電話の向こうで、沙耶さんが小さくため息をつく気配がした。
『舞、ダウンしちゃったのよ。風邪で高熱出しちゃって』
「風邪、ですか」
『ええ。あんたの激務に付き合って、気が張ってたのが連休で一気に緩んだんじゃない? 今、私が彼女のマンションで看病してるとこ』
舞が倒れるまで無理をしていたことに気づけなかった自分に、微かな苛立ちを覚える。
「……申し訳ありません。僕の配慮不足です」
『いいわよ、別に。あの子が好きでやってることなんだから。……でもさ』
沙耶さんの声色が、少し変わった。
普段のアンニュイで皮肉めいた響きではなく、どこか真剣で、そして寂しげな色が混じっていた。
『……西園寺くん。今から少し、会えないかしら?』
「柚木さんと、ですか?」
『ええ。舞は薬飲んで寝ちゃったし、私も看病疲れで息抜きしたいのよ。……付き合ってくれる?』
拒否する理由はなかった。
俺はハイヤーを回させ、彼女の指定した場所へ向かった。
俺たちは、お台場海浜公園のボードウォークを歩いていた。
時刻は夕暮れ時。レインボーブリッジと対岸のビル群が、茜色の空にシルエットとして浮かび上がっている。
潮風が心地よい。
今日の沙耶さんは、ラフなパーカーにデニムという、看病明けらしいリラックスした服装だった。
アンニュイな美貌。
化粧っ気のない素顔は、普段の「武装した」彼女よりもずっと幼く、そして儚げに見えた。
「……舞ね、うわ言で謝ってたわよ。『社長、申し訳ありません』って」
沙耶さんが、手すりに寄りかかりながらぽつりと言った。
「あの子、昔からそうなの。一度決めたら一直線。自分のことなんて二の次で、誰かのためにボロボロになるまで尽くしちゃう」
「ええ。彼女の献身には、いつも助けられています」
「……私ね、あの子が羨ましいのよ」
沙耶さんは海を見つめたまま、独り言のように続けた。
「完璧に見えて、不器用でしょ? でも、迷いがない。……私なんて、心理学なんて専攻してるけど、自分の心一つ分からないまま、フラフラしてるだけ。何かに没頭できるって、それだけで才能だわ」
彼女の言葉には、舞さんへの深い愛情と、それと同じくらいの質量のコンプレックスが滲んでいた。
19歳のモラトリアム。
大人と子供の境界線で、自分の輪郭が曖昧になる不安。
俺は41歳の精神を持つ者として、彼女のその空虚さを否定せず、ただ静かに受け止めた。
「……迷うことは、悪いことではありませんよ、柚木さん」
俺は彼女の隣に立ち、同じ景色を見つめた。
「舞さんは、生きるための『碇』を見つけただけです。それが僕だったという、ただの偶然に過ぎない。……柚木さんのその迷いも、思考も、決して無駄ではないはずだ」
「……優しいのね、君は」
沙耶さんがこちらを向き、薄く微笑んだ。
その瞳が、夕陽を受けて潤んでいるように見えた。
「年下のくせに、なんでそんなに包容力があるのよ。……調子狂うわ」
「ただの、老成した少年ですから」
「ふふっ。……ありがと。なんか、スッキリした」
彼女は伸びをして、大きく深呼吸した。
潮風が彼女のショートヘアを揺らす。
「さ、帰りましょ。舞が起きる頃だし、お粥でも作ってあげなきゃ」
「送りましょう。……それと、舞への差し入れも用意してあります」
「用意周到ね、社長さん」
俺たちは並んで歩き出した。
手は繋がなかったが、二人の間の距離は、来る時よりもずっと近づいている気がした。
沙耶さんを舞のマンションまで送り届けた後、俺は自宅への帰路についた。
マンションのエントランス付近の公園で、自販機の前に立つ小柄な人影を見つけた。
天童くるみさんだ。
彼女は缶コーヒーを片手に、ベンチで台本のようなものを読み込んでいた。
「……こんばんは、くるみさん」
「あ、レオ! お帰り」
彼女は俺に気づくと、パッと表情を明るくした。
圧倒的な美少女。
オフの日のラフな格好でも、そのオーラは隠しきれない。
「CMの絵コンテですか? 熱心ですね」
「うん。……監督さんに言われたイメージ、ちゃんと掴みたくてさ。でも難しいんだよね、『未来を感じさせる表情』って」
彼女は眉を寄せて悩ましげに言った。
俺が立ち上げるiモード事業のCM。彼女はその「顔」となる。
「難しく考える必要はありませんよ。くるみさんがそこに立って、いつものように笑うだけで、それは新しい時代の象徴になります」
「またぁ、口が上手いんだから。……でも、ありがと。頑張る」
彼女は力強く頷いた。
その瞳には、かつてのような迷いはない。
俺が用意したステージで、彼女は確実に、自らの光で輝き始めている。
「じゃ、あたしも帰るわ。……レオも、無理しちゃダメよ? 舞ちゃんがダウンしたって聞いたし」
「ええ。お気をつけて」
手を振って去っていく彼女を見送り、俺はマンションのエントランスへ向かった。
帰宅し、ジャケットを脱いだところで携帯が鳴った。
母・ソフィアからだ。
嫌な予感がする。
『Leo? こんばんは。……ねえ、今から付き合ってくれない?』
「……母さん。一昨日、誕生会をしたばかりでしょう? 今夜は何ですか」
『小腹が空いちゃったのよ。……貴方の作る、あのお夜食が食べたいわ』
「ルームサービスを取ればいいじゃないですか」
『嫌よ。レオの作ったものがいいの。……ね、お願い?』
甘えたような声。
世界的な大女優の孤独を癒せるのは、世界でただ一人、息子の俺だけなのだ。
舞がダウンしている今、俺が動くしかない。




