第17話 扇動の教科書と深紅のパスタ
第17話 扇動の教科書と深紅のパスタ
ゴールデンウィークを目前に控え、街全体がどこか浮き足立っている週明けの朝。
俺は、通学中のハイヤーの中で一冊の本に没頭していた。
『プロパガンダ工作論』。
先日、図書室で借りた専門書だ。
戦時中の情報操作から、現代の広告戦略に至るまで、大衆心理を誘導するためのメソッドが体系化されている。
「……なるほど。『単純化』と『敵の明確化』、そして『バンドワゴン効果』か」
俺は重要なフレーズをノートに書き留めた。
これから俺が仕掛けるモバイルEC事業において、これらの理論はそのままマーケティング戦略に転用できる。
ターゲットは、渋谷に集う女子高生たち。
彼女たちに「これを買わないと遅れている」「これが今の最強のトレンドだ」と信じ込ませる空気を作る。
論理ではなく、感情と帰属意識に訴えかける。
それが、爆発的なブームを生むための鉄則だ。
「社長。……怖い顔をなさっていますよ」
運転席の如月舞が、バックミラー越しに苦笑する。
俺はふと我に返り、本を閉じた。
「失敬。少し集中しすぎていたようだ」
「ふふ、また何か悪いことを企んでいる顔でした。……ですが、その顔も嫌いではありません」
舞は楽しげにハンドルを切った。
彼女にとって、俺が策を練っている姿は頼もしく映るらしい。
19歳にして完璧な秘書能力を持つ彼女だが、こうした時に見せる柔らかい表情は、年相応の女性の可愛らしさを感じさせる。
1限目、古文。
連休前の気だるさが漂う教室で、教壇に立つ初老の教師が、気だるげに指名した。
「……えー、では次の段落。城戸、読んで訳せ」
指名されたのは、俺の隣の席で爆睡しかけていた城戸隼人だ。
彼はビクリと跳ね起き、慌てて教科書を開いたが、どこを読んでいるのかすら分かっていない様子だ。
「えっと……あー……」
隼人の視線が泳ぐ。
教師の眉間に皺が寄り始めた。
このままでは、「たるんどる!」という説教タイムが始まり、貴重な授業時間が浪費されてしまう。
それは俺にとっても損失だ。
俺は教科書の端に、今の箇所とその現代語訳を走り書きした付箋を貼り、隼人の机にさりげなく滑らせた。
「……(34ページ、6行目だ)」
小声で囁く。
隼人は地獄に仏を見たような顔で付箋を凝視し、読み上げた。
「……『春の夜の夢の浮橋とだえして、峰に別るる横雲の空』。えーと、春の夜の夢のように儚い夢の浮橋が途絶えて、峰から離れていく雲が漂う空……のように、心細い気持ちです?」
たどたどしいが、意味は合っている。
教師は意外そうに眉を上げたが、とりあえず納得したようだ。
「……まあいい。座れ」
隼人は大きく息を吐いて着席した。
そして、教科書の陰で俺に向かって手を合わせる。
「マジ助かった……! サンキュな西園寺、一生ついてくわ!」
「安い一生だな。……次は自分で予習してくれ」
「へへっ、努力します!」
隼人はニカッと笑った。
単純だが、その屈託のなさは彼の美徳だ。
彼のような人間が、理不尽な大人に潰されることなく笑っていられる環境を守る。
それもまた、俺が力を振るう理由の一つだ。
2限目の後の休み時間。
移動教室のため廊下を歩いていると、向こうから凛とした空気を纏った女子生徒が歩いてきた。
霧島セイラ先輩だ。
生徒会副会長としての腕章をつけ、長い黒髪をなびかせて歩く姿は、さながら学園を巡視する女王のようだ。
日本人離れした彫りの深い美貌と、冷ややかな瞳。
すれ違う生徒たちが、思わず道を開けて敬礼しそうになるほどのオーラがある。
「……あ、霧島先輩。おはようございます」
俺が挨拶をすると、彼女は足を止めた。
以前のような刺すような敵意はないが、相変わらず人を寄せ付けない壁を感じる。
「……おはよう、西園寺くん。今日は奇声を発するご友人は一緒ではないの?」
「城戸のことですね。彼は今、購買へダッシュしています」
「そう。……貴方も大変ね、猛獣使いみたいで」
彼女はフッと小さく笑った。
皮肉めいているが、その表情は以前よりも柔らかい。
親友である花村結衣先輩を助けた一件以来、彼女の中で俺の評価区分が「敵」から「観察対象」くらいには格上げされたようだ。
「猛獣の方が裏表がなくて扱いやすいですよ。……人間の方がよほど複雑です」
「……同感ね。特に、笑顔で近づいてくる人間ほど信用できないわ」
彼女の瞳に、ふと暗い陰が差した。
没落の危機にある霧島家に群がる、有象無象の大人たちのことを思い出しているのだろう。
気丈に振る舞ってはいるが、16歳の少女が背負うには重すぎる荷物だ。
「……先輩。無理はなさらないでくださいね。結衣先輩も心配していましたよ」
「! ……余計なお世話よ。私は、私の義務を果たしているだけ」
彼女はツンと顔を背けたが、その耳は僅かに赤くなっていた。
弱みを見せることを極端に嫌うプライドの高さ。
だが、それこそが彼女の魅力であり、同時に危うさでもある。
俺は一礼して、その場を離れた。
彼女が本当に追い詰められた時、手を差し伸べる準備はできている。
今はまだ、その時ではない。
放課後。
俺は学校を抜け出し、都内のテレビ局の控え室を訪れていた。
オーナー権限による顔パスだ。
部屋の中では、天童くるみが参考書と問題集の山に埋もれていた。
「う~……わかんない! なんで歴史ってこんなに年号多いのよ!」
頭を抱える彼女は、衣装のままだった。
フリルのついたアイドル衣装に身を包んでいるが、その表情は受験生のように必死だ。
圧倒的な小顔に、猫のような大きな瞳。
国民的美少女としての輝きは、悩んでいても損なわれない。
「お疲れ様です、くるみさん。……クイズ番組の予習ですか?」
「あ、レオ! ちょうどいいところに来た! これ教えて!」
彼女は俺を見るなり、問題集を突きつけてきた。
ゴールデンタイムの人気クイズ番組への出演が決まり、また「おバカキャラ」として扱われるのを避けるために猛勉強しているらしい。
前回の逃亡劇を経て、彼女は仕事に対してより貪欲になっている。
「どれどれ……『鎌倉幕府の成立年は?』。……現在は1185年説が有力ですが、テレビ的には1192年と答えておけば無難でしょう」
「えっ、変わったの!? 教科書と違うじゃん!」
「歴史は常にアップデートされますからね。……次、『太陽系の惑星で、最も大きいのは?』」
「えっと……土星? 輪っかあるし」
「残念、木星です。土星は2番目ですね」
俺は次々と出される問題に、即座に、かつ分かりやすく解説を加えて答えていった。
くるみさんは目を丸くして感心している。
「あんた、ホントになんでも知ってんのね……。中身おじいちゃん入ってるんじゃない?」
「博識と言ってください。……それに、くるみさんの地頭は悪くない。単に知識の引き出し方が整理されていないだけです」
俺は彼女の思考の癖を見抜き、連想ゲームのように知識を繋げる方法を教えた。
彼女の瞳が、次第に輝きを取り戻していく。
「……そっか! 丸暗記じゃなくて、流れで覚えればいいんだ!」
「その通りです。くるみさんならできますよ」
俺が微笑むと、彼女は嬉しそうにニカッと笑った。
その笑顔は、カメラに向けられる作り物ではなく、18歳の少女の素顔だった。
「ありがと、レオ! これで本番もバッチリかも! ……賞金取ったら、なんか奢ってあげるからね!」
「楽しみにしていますよ」
彼女のモチベーションは完全に回復したようだ。
俺は彼女の頭をポンと撫でて、控え室を後にした。
テレビ局を出た後、俺は渋谷の『タワーレコード』へ向かった。
音楽CDの販売ランキングと、試聴機に群がる若者たちの動向をチェックするためだ。
宇多田ヒカルの『First Love』が社会現象となり、浜崎あゆみがカリスマ化している。
J-POPが最も熱かった時代。
この熱量を、そのままビジネスに変える。
俺は携帯を取り出し、舞に電話をかけた。
「……社長。お疲れ様です」
「ああ。例の雑誌広告の件だ。……『egg』と『Cawaii!』、それと『Popteen』。これらの表4と中面のカラーページを、年間契約で押さえろ」
「全誌、ですか? かなりの広告宣伝費になりますが」
「構わない。初期投資の4,800万円とは別に、広告宣伝費として新たに1億円を用意する」
「……1億円、ですか? いきなり桁が変わりましたね」
「中途半端な露出は金をドブに捨てるのと同じだ。やるなら、彼女たちの視界を完全にジャックする」
俺は断言した。
Amazonや楽天市場といったPCベースの巨人が、まだガラケー市場を軽視している今が好機だ。
女子高生たちのバイブルであるファッション誌をジャックし、そこに自社のモバイルオークションサイトと着メロサイトのQRコードを載せる。
『携帯で服が買える』『レアな着メロが手に入る』。
その文化を、彼女たちの間に浸透させる。
「在庫は持つな。アパレル店舗と提携し、注文が入ったら店舗から直送させるドロップシッピング形式だ。我々はシステムと集客だけを担う」
「なるほど……リスクを極限まで減らしつつ、手数料を取るモデルですね」
「そうだ。……そして、サイトのイメージモデルには、天童くるみを起用する」
クイズ番組で知名度を上げ、再ブレイクしつつある彼女を広告塔に据えることで、相乗効果を狙う。
完璧な布陣だ。
「承知いたしました。……社長の描く未来図、楽しみにしております」
「期待していてくれ。……では、帰るよ」
通話を切り、俺は渋谷の喧騒を見下ろした。
この街のエネルギーを、全て俺のビジネスの燃料に変えてやる。
帰路、俺は高級スーパー『紀ノ国屋』に立ち寄った。
今夜の夕食は、あえて庶民的なメニューを最高級の食材で作ることに決めていた。
『ナポリタン・スパゲティ』だ。
パスタは、イタリア産の最高級ブランド『マンチーニ』の太麺。
具材には、自家製のパンチェッタと、有機栽培の玉ねぎ、ピーマン、マッシュルーム。
そして味の決め手となるケチャップは使わず、完熟トマトから煮詰めた特製トマトソースと、隠し味に赤ワインとウスターソースを使う。
さらに、サイドメニューのコンソメスープ用に、牛スネ肉と香味野菜を。
デザートには、千疋屋の最高級マスクメロンとヨーグルトを購入した。
飲み物は、ガラス瓶に入ったインポートものの高級コーラ『キュリオシティ・コーラ』と、台湾産の最高級凍頂烏龍茶だ。
ジャンクとラグジュアリーの融合。これぞ大人の遊び心だ。
帰宅後、俺はキッチンに立った。
パスタを表示時間より長く茹で、一度冷水で締めてから油をまぶして寝かせる。
これで、喫茶店のナポリタンのようなモチモチとした食感が生まれる。
パンチェッタをじっくり炒めて脂を出し、野菜を投入。
そこに特製ソースとパスタを加え、強火で煽る。
フライパンの中で、麺とソースが絡み合い、焦げたソースの香ばしい匂いが立ち上る。
「……完成だ」
深紅に染まったナポリタンを皿に盛り、パルメザンチーズとパセリを振る。
琥珀色に透き通ったコンソメスープと共にテーブルに並べると、それはもはや芸術品のようだった。
「いただきます」
フォークで巻き取り、口に運ぶ。
濃厚なトマトの旨味と、パンチェッタの塩気、そしてモチモチの太麺。
ケチャップ特有の甘ったるさはなく、大人の深みがある。
そこに、スパイシーなキュリオシティ・コーラを流し込む。
炭酸の刺激が、濃厚な味をリセットし、次の一口を誘う。
完璧なマリアージュだ。
食後、俺はリビングの照明を落とし、シアターセットを起動した。
今日観るのは、先日借りてきた『ショーシャンクの空に』。
無実の罪で投獄された銀行員アンディが、絶望的な状況の中で希望を捨てずに生き抜く物語だ。
画面の中で、アンディは自らの金融知識を武器に刑務官たちを味方につけ、囚人たちの地位を向上させていく。
知識と知恵こそが、人を自由に導く最大の武器であること。
そして、どんなに長い時間がかかろうとも、諦めずに掘り続ければ、壁は必ず崩れること。
俺は凍頂烏龍茶の香りを楽しみながら、画面に見入った。
アンディの姿に、今の自分の状況を重ねる。
俺もまた、1999年という時代の中で、知識と未来の記憶を武器に戦っている。
鷹森という理不尽な看守もいれば、隼人やヒロインたちという仲間もいる。
映画のラスト、青い海辺での再会シーン。
静かな感動が胸に広がる。
「……いい映画だ」
俺は呟き、リモコンを置いた。
この映画のように、俺の物語もハッピーエンドでなければならない。
そのためには、もっと強く、もっと賢くならなければ。




