第15話 論理の家庭教師と浅草の休日
第15話 論理の家庭教師と浅草の休日
この年は公立学校では第2・第4土曜日が休業日となる移行期間だったが、私立である桜花学園もそれに準じて今日は休みだ。
だが、進学校としての側面を持つ本校では、休日でも図書室や自習室が開放されている。
午前10時。俺は、静まり返った図書室のカウンターにいた。
返却するのは2冊。
『大蔵省 権力と腐敗の構造』と、行動経済学の先駆けとなった『不確実性下の判断』だ。
どちらも、これからの激動の時代を読み解く上で有用な視座を与えてくれた。
「……返却ですね。確認します」
図書委員の女子生徒が事務的に処理をする。
俺はそのまま書架へ向かい、新たな知識を探した。
次に選んだのは、『プロパガンダ工作論』と『群衆心理』。
着メロ事業というBtoCビジネスを展開するにあたり、大衆をどのように扇動し、ブームを作り出すか。その理論武装が必要だと感じていたからだ。
手続きを済ませ、閲覧席へ向かうと、窓際の一角に見慣れた金髪の後頭部があった。
城戸隼人だ。
彼は頭を抱え、シャーペンを握りしめて唸っている。
俺が近づくと、彼は救世主を見るような目で顔を上げた。
「お、西園寺! 待ってたぜ!」
「……城戸。本当に勉強しに来ていたとはな」
「当たり前だろ! 赤点取ったら補習で部活停止になんだよ! ……頼む、ここ教えてくれ」
彼が差し出したのは、数学Ⅰの教科書とノートだ。
開かれているページは「二次関数」。
多くの高校1年生が最初に躓く壁だ。
「……なるほど。最大値と最小値を求める問題か」
「全然わかんねぇ。グラフが動くとか意味不明だろ」
隼人は根っからの感覚派だ。
論理的な積み上げが必要な数学は、彼にとって苦行以外の何物でもないだろう。
俺は隣の席に座り、自分のノートパッドを取り出した。
「難しく考えるな。いいか城戸、二次関数のグラフは『ボールを投げた時の軌道』だと思えばいい」
「ボール?」
「ああ。城戸はバッティングセンターで打球の行方を見ているだろう? 放物線を描いて飛んでいくボール。その頂点が『最大値』だ」
俺は図を描きながら説明した。
数式を数式として教えるのではなく、彼の得意な身体感覚に結びつけて翻訳する。
定義域は、ボールが飛んでいる範囲。軸の移動は、投げる位置のズレ。
「……打球の軌道……ここが頂点……あ、なんだ。そういうことか!」
隼人の目が輝いた。
一度イメージが掴めれば、彼の飲み込みは早い。
元々、スポーツで培った空間把握能力は高いのだ。それを学問に応用できていなかっただけ。
「すげぇな西園寺! お前、教えんの上手すぎだろ。真田のオッサンより分かりやすいぜ」
「教師と比較するのは失礼だが、理解できたなら何よりだ」
「へへっ、これなら赤点回避できるかもな! サンキュ!」
隼人はガッツポーズをした。
その屈託のない笑顔を見ていると、彼を不当に貶めようとする鷹森への怒りが改めて湧いてくる。
この才能と明るさを、大人の都合で潰させてたまるか。
俺は静かに決意を新たにした。
昼過ぎ。
隼人と別れた俺は、渋谷の街へ出ていた。
夕方から母と出かける約束があるため、その前の時間調整だ。
センター街を抜け、少し落ち着いたエリアにあるカフェに向かおうとした時だった。
路地の入り口で、見覚えのある女性が男に絡まれているのを目撃した。
柚木沙耶さんだ。
今日の彼女は、黒のタイトスカートにシアー素材のブラウスという、少し攻めたファッションをしている。
シャギーの入ったショートボブ、気だるげな瞳、口元のホクロ。
アンニュイな美貌は、道行く人々の視線を釘付けにしていた。
だが、今の彼女は明らかに不快そうな表情を浮かべている。
「だからぁ、柚木ちゃんさぁ。俺らのサークル、マジで楽しいって! 合宿とか超盛り上がるし!」
「……興味ないって言ってるでしょ。離して」
「そんな冷たいこと言うなよ~。一度だけでいいからさ、飲み会来なよ。俺が奢るし!」
相手は、典型的な「チャラい大学生」といった風情の男だ。
茶髪にシルバーアクセサリー、ブランドロゴが大きく入ったTシャツ。
沙耶さんの腕を強引に掴もうとしている。
彼女は心理学専攻だが、こういう物理的な強引さには分が悪い。
「……失礼。連れになにか用ですか?」
俺は二人の間に割って入った。
男の手を、沙耶さんの腕が触れる前に制する。
「あ? なんだテメェ。ガキがすっこんでろ」
「ガキではありません。彼女の待ち合わせ相手です」
俺は冷徹な視線で男を見下ろした。
身長はまだ成長期だが、纏う空気の圧力は41歳の修羅場を潜り抜けてきたものだ。
さらに、俺の背後には常に警護の車が控えている。
「……チッ。なんだよ、男いんのかよ。シラケたな」
男は俺の視線に気圧されたのか、捨て台詞を吐いてそそくさと退散していった。
小物は引き際だけは早い。
「……災難でしたね、柚木さん」
「あ……西園寺、くん?」
沙耶さんは驚いたように目を丸くし、それから安堵の溜息をついた。
「助かったわ。……ああいう手合い、言葉が通じないから苦手なの」
「怪我はありませんか?」
「ええ、平気よ。……ふふ、また助けられちゃったわね。15歳のナイトに」
彼女は悪戯っぽく微笑み、バッグから細い煙草を取り出そうとして、俺の視線に気づいて手を止めた。
「あ、そうだった。君の前じゃハッタリは通じないんだったわね」
「ええ。ファッションなら、もっと健康的なアイテムをお勧めします」
「可愛くないわねぇ。……じゃあ、お礼に付き合ってよ。ストレス発散したい気分なの」
彼女は俺の手を引き、歩き出した。
向かった先は、雑居ビルの中にあるカラオケボックスだった。
薄暗いカラオケルーム。
1999年当時、カラオケは若者文化の中心だった。
沙耶さんはデンモクではなく、分厚い歌本をパラパラとめくり、リモコンで番号を入力する。
「まずは私からね。……これ、今の気分」
イントロが流れる。椎名林檎の『歌舞伎町の女王』だ。
昨年デビューしたばかりの彼女の曲は、その攻撃的で退廃的な世界観が沙耶さんの雰囲気に見事にマッチしていた。
ハスキーな歌声が、部屋の空気を支配する。
マイクを握る指先、流し目、けだるげなステップ。
彼女はただ歌っているだけではない。曲の世界を「演じて」いる。
普段のアンニュイな仮面の下にある、激しい情動が垣間見えるようだ。
「……上手いですね。プロ級だ」
「あら、お世辞? でも悪くないでしょ?」
歌い終えた彼女は、スッキリした顔でアイスティーを飲んだ。
「次は西園寺くんの番よ。……まさか、歌えないなんて言わないわよね?」
「……手加減はしませんよ」
俺が選んだのは、L'Arc~en~Cielの『HONEY』。
この時代のヒット曲なら網羅している。
大人の色気を意識しつつ、低音を響かせて歌い上げる。
沙耶さんはソファに深く身を預け、じっと俺を見つめていた。
その瞳は、やはり「分析」の色を帯びている。
「……へえ。歌い方まで大人びてるのね。本当に高校生?」
「中身はロマンチストな少年ですよ」
「嘘ばっかり。……でも、そのギャップ、嫌いじゃないわ」
彼女は楽しそうに笑い、次の曲を入れた。
宇多田ヒカル、浜崎あゆみ、そしてDragon Ash。
世紀末の音楽シーンを彩る名曲たちを、俺たちは交互に歌い続けた。
密室の中で響く歌声と、重なる視線。
心理学的な駆け引きなど必要ない、純粋な音の共鳴がそこにあった。
カラオケを出た後、沙耶さんと別れて駅へ向かう途中だった。
スクランブル交差点の人混みの中で、帽子を目深に被った小柄な人物とすれ違った。
一瞬目が合っただけで、俺には分かった。
天童くるみだ。
彼女も俺に気づいたようで、人波を避けて路地の隅へと移動した。
「……レオ? こんなところで何してんの?」
彼女はサングラスをずらし、上目遣いで俺を見た。
今日はオフなのか、パーカーにデニムというラフな格好だが、それでも隠しきれないアイドルのオーラがある。
整いすぎた顔立ちと、猫のような大きな瞳は、道行く人が思わず振り返るレベルだ。
「少し友人と遊んでいただけですよ。くるみさんこそ、お忍びですか?」
「ん、まあね。……次のシングルの衣装探し。スタイリスト任せじゃなくて、自分で流行りをチェックしたくてさ」
彼女は少し照れくさそうに言った。
先日、俺が「君自身が泥の中でも咲ける花だ」と言って以来、彼女の仕事に対する姿勢はより能動的になっている。
与えられたものをこなすだけでなく、自分から発信しようとする意志。
それこそが、トップアイドルに必要な資質だ。
「感心ですね。……何か良いものは見つかりましたか?」
「うん! 109でいい感じのアクセ見つけたの。……あ、そうだ。今度のCM撮影の日程、決まったって聞いた?」
「ええ。来週の土曜日ですね。現場には俺も顔を出します」
「ホント!? ……じゃあ、気合入れなきゃね。オーナーに恥かかせられないし」
彼女はニッと笑った。
その笑顔は、自信に満ち溢れている。
逃げ出していた数日前とは別人のようだ。
「期待していますよ。……では、また」
「うん。じゃあね、レオ!」
短い会話だったが、彼女との信頼関係が深まっているのを感じた。
彼女は再び雑踏の中へと消えていった。
その背中は、以前よりも大きく見えた。
夕方。
俺は母と合流し、浅草に来ていた。
彼女の強い希望だ。
「日本の伝統的な空気に触れたい」とのことだが、本音は単に観光がしたいだけだろう。
雷門の前。
母は変装用のサングラスをかけているが、その圧倒的なプロポーションと洗練された所作は、隠しようもなく目立っていた。
シンプルなトレンチコートを羽織っているだけなのに、まるで映画の撮影中のような雰囲気を醸し出している。
道行く観光客たちが、「あの人、モデル?」「女優じゃない?」と囁き合っている。
「Leo! Look at this! あの提灯、大きいのね!」
「母さん、あまり大きな声を出さないでください。目立ちますよ」
「いいじゃない。私はただの観光客よ?」
母は少女のようにはしゃぎ、仲見世通りを歩き出した。
人形焼、雷おこし、揚げ饅頭。
目につくものを次々と買い食いしようとする母を、俺は苦笑しながら制止する。
「夕食が入らなくなりますよ」
「別腹よ、別腹。……ほら、レオも食べなさい」
母は焼きたての人形焼を俺の口に運んできた。
甘いあんこの味が広がる。
こうしていると、母が世界的な大女優であることを忘れてしまいそうだ。
ただの、息子を溺愛する母親。
浅草寺でお参りを済ませた頃には、日はすっかり落ちていた。
ライトアップされた五重塔が、夜空に美しく浮かび上がっている。
「……綺麗ね。日本の夜は、どこか切なくて美しいわ」
母は手すりに寄りかかり、夜景を見つめた。
その横顔は、昼間の無邪気さとは打って変わり、静かな慈愛に満ちていた。
「レオ。貴方は今、色々なものを背負おうとしているわね」
「……気づいていましたか」
「母親だもの。……ビジネスも、学園生活も、貴方なりに楽しんでいるようだけど、無理はしないでね。貴方が壊れたら、ママは悲しいわ」
母の手が、俺の頬に触れる。
温かい手だ。
この手だけは、俺が何歳になっても、どんなに強くなっても、敵わない。
「大丈夫ですよ。僕は、貴女の息子ですから」
「ふふ、そうね。……私の自慢の王子様だもの」
母は満足そうに微笑み、俺の腕を取った。




