第14話 桜色の寿司と行動経済学の夜
一昨日の冷たい雨が嘘のように、東京は穏やかな春の陽気に包まれていた。
昼休み。俺は、中庭のベンチでミネラルウォーターを飲んでいた。
ふと、視界の端に小柄な影が差した。
「……あ、西園寺くん。ここにいたんだ」
桜木マナだ。
一昨日の放課後、ずぶ濡れになって泣いていた姿とは打って変わり、今日の彼女は憑き物が落ちたように晴れやかな表情をしていた。
ショートボブの黒髪が風に揺れ、健康的な頬には本来の血色が戻っている。
彼女は俺の隣に座る許可を目線で求め、俺が頷くと、少し距離を開けて腰を下ろした。
「一昨日は、本当にありがとう。……車汚しちゃって、ごめんなさい」
「気にすることはありません。クリーニングで元通りです」
「ううん、そういうことじゃなくて……気持ちの問題。西園寺くんがいなかったら、私、もっと惨めな気持ちで帰ってたと思う」
彼女は膝の上で手を組み、真っ直ぐに前を見つめた。
その視線の先には、グラウンドでサッカーをしている日向翔太の姿がある。
以前なら、その瞳には慈愛や心配の色が浮かんでいたはずだ。
だが今、彼女の瞳にあるのは、ただの「クラスメイトを見る」ような、静かで乾いた光だけだった。
「私ね、決めたの。もう翔太の世話は焼かない。……あいつが困っても、忘れ物しても、知らない」
「良い決断です。それは彼のためでもあり、何より君自身のためになる」
「うん。……なんかね、すごくスッキリしたの。今までなんであんなに必死だったんだろうって」
マナは自嘲気味に笑った。
幼馴染という呪縛。長年積み重ねてきた関係性を断ち切るのは容易ではない。
だが、あの一昨日の雨が、彼女の未練を洗い流したようだ。
今の彼女は、等身大の15歳の美少女として、とても魅力的に見えた。
「……あ、そうだ。これ」
マナはポケットから、小さな包みを取り出した。
手作りのマドレーヌだ。
「お礼。……もしよければお弁当は、また今度ちゃんと作るから。これはおやつに食べて?」
「いただきます。君のお菓子なら味は保証付きだ」
俺が受け取ると、彼女はパァッと花が咲くように笑った。
その笑顔に向けられる感情が、以前のような「保護者としての安堵」ではなく、「異性としての好意」に変化しつつあることを、俺は敏感に感じ取っていた。
放課後。
俺は渋谷の『TSUTAYA』に来ていた。
先日借りた『アルマゲドン』と『プライベート・ライアン』を返却するためだ。
カウンターで処理を済ませ、再びDVDコーナーへと足を向ける。
週末の夜を彩るための、新たな物語を探す。
棚を眺めていると、2本のタイトルが目に留まった。
一本は『レオン』。
孤独な殺し屋と少女の純愛を描いたリュック・ベッソン監督の名作だ。
もう一本は『ショーシャンクの空に』。
無実の罪で投獄された男の希望と友情の物語。
どちらも派手なアクション映画ではないが、心に深く残るヒューマンドラマだ。
今の俺の気分に合っている気がした。
「……これにするか」
俺は2本のケースを手に取り、レジへと向かった。
年間会員になったおかげで、レンタル料は半額だ。
小さな節約だが、コスト意識を持つことは重要だ。310億円持っていても、無駄金を使う理由にはならない。
店を出ると、携帯電話が震えた。
城戸隼人からの着信だ。
『よぉ西園寺! 今どこだ?』
「渋谷だ。DVDを借りてきたところだが」
『ちょうどいい! 俺も渋谷にいんだよ。……ボウリング行こうぜ、ボウリング!』
隼人の声は弾んでいた。
先日、翔太がマナを誘って断られていたボウリング。
皮肉な巡り合わせだが、隼人と行くならスポーツとして楽しめるだろう。
「いいだろう。場所は?」
『駅前のボウリング場な! 負けた方がジュース奢りだかんな!』
合流し、俺たちはレーンに立った。
隼人はマイボールこそ持っていないが、ハウスボールを選び、慣れた手つきで構える。
助走からのスムーズな投球。
ボールは美しいカーブを描き、ポケットに吸い込まれた。
――ガシャーン!
ストライク。
ピンが弾け飛ぶ音が心地よい。
「っしゃあ! 見たか!」
「やるな。……だが、甘い」
俺もボールを手に取る。
ボウリングは物理だ。床のオイルの塗り具合、ボールの回転数、入射角。
全てを計算し、再現性の高いフォームで投げる。
――ゴロゴロ……パァーン!
こちらもストライク。
ハイレベルな攻防が続いた。
結局、3ゲーム投げて俺のアベレージは210、隼人は195。
僅差で俺の勝利だった。
「くっそー! なんで勝てねぇんだよ! お前、家でボウリングの練習もしてんのか!?」
「まさか。イメージトレーニングだよ」
「嫌な奴! ……ほらよ、コーラだ」
隼人は悔しがりながらも、約束通りジュースを奢ってくれた。
炭酸の刺激が喉を潤す。
隣のレーンでは、大学生くらいの集団が騒いでいるが、俺たちの空間だけは純粋なスポーツの熱気に包まれていた。
翔太のように「女子目当て」でボウリングをするのと、こうして真剣勝負をするのとでは、得られる充足感が違う。
「……サンキュな、西園寺。なんかスッキリしたわ」
「鷹森の件か?」
「……まあな。あいつ、最近またネチネチうるせぇからよ」
隼人の表情が一瞬曇る。
だが、すぐにニカッと笑い飛ばした。
「ま、気にしてもしょうがねぇ! 俺は俺のやり方でやるさ!」
「ああ。その意気だ」
俺は心の中で、舞による調査報告書を思い浮かべた。
鷹森への反撃準備は整いつつある。
もう少しの辛抱だ、相棒。
隼人と別れた直後、再び携帯が鳴った。
今度は姉の摩耶からだ。
『もしもし玲央? 今どこ?』
「渋谷ですが」
『ちょうどいいわ! マミーがね、あんたの部屋で夕飯食べたいって言い出して聞かないのよ。私も行くから、よろしくね!』
「……急ですね。分かりました、準備しておきます」
『愛してるわ弟よ! あ、お酒は高いの期待してるから!』
一方的に通話が切れた。
やれやれ、嵐の予感だ。
だが、母と姉をもてなすとなれば、手抜きはできない。
俺は東急本店のデパ地下へと急いだ。
今夜のメニューは、春らしく華やかな和食にしよう。
鮮魚コーナーで、明石産の天然桜鯛を一尾。
さらに、生きたままの車海老、北海道産の極上いくら、箱入りの生ウニを購入する。
メインは『特製海鮮ちらし寿司』だ。
野菜コーナーでは、旬の筍と三つ葉、それに高級なしいたけを。
これらは茶碗蒸しとお吸い物に使う。
さらに、砂抜き済みの愛知県産大アサリも購入。
酒も重要だ。
和酒コーナーで、幻の日本酒『十四代 本丸』を見つけた。
1999年当時でも入手困難な一本だが、外商のコネで確保してもらう。
フルーティーな香りと芳醇な旨味は、女性にも飲みやすい。
さらに、ワインセラーでブルゴーニュの白、『モンラッシェ』のハーフボトルも購入。
和食に合う最高峰の白ワインだ。
両手にずしりと重い紙袋を提げ、俺はタクシーで帰路についた。
帰宅し、大急ぎで下準備を始める。
米を研ぎ、昆布を入れて硬めに炊く。
その間に合わせ酢を作る。赤酢をベースに、砂糖と塩で味を調え、まろやかな酸味に仕上げる。
桜鯛は三枚におろし、薄造りにする。
皮目を湯引きし、冷水で締める「松皮造り」にすることで、見た目の美しさと食感の良さを両立させる。
車海老は背わたを取り、酒蒸しにしてから殻を剥く。鮮やかな紅白の縞模様が美しい。
筍は薄くスライスし、甘辛く煮含める。
錦糸卵は、焦げ目をつけないよう弱火で丁寧に焼き上げ、極細に刻む。
ご飯が炊けた。
熱いうちに合わせ酢を回しかけ、切るように混ぜる。団扇で扇いでツヤを出し、人肌まで冷ます。
ここからが仕上げだ。
寿司桶に酢飯を広げ、錦糸卵を敷き詰める。
その上に、桜鯛、車海老、いくら、ウニを彩りよく配置していく。
仕上げに木の芽を散らせば、まるで宝石箱のような『春の海鮮ちらし寿司』の完成だ。
並行して、茶碗蒸しとお吸い物を作る。
茶碗蒸しは、鰹と昆布の一番出汁を使い、卵液をザルで濾すことで絹のような舌触りにする。
具材は鶏肉、しいたけ、銀杏、そして三つ葉。
お吸い物は、大アサリの出汁を活かしたシンプルなもの。吸い口に柚子の皮を浮かべる。
準備が整った頃、チャイムが鳴った。
「Leo! こんばんは!」
「お邪魔しまーす! うわ、いい匂い!」
母と姉だ。
母は真紅のドレス、姉はコンサバなワンピース。
二人並ぶと、玄関が華やぐ。
「いらっしゃいませ。どうぞ、席へ」
俺は二人をダイニングへ案内し、まずは『モンラッシェ』で乾杯した。
芳醇な香りが広がる。
「ん〜! 美味しい! さすがレオ、分かってるわね!」
「このお寿司、綺麗すぎて食べるのがもったいないわ……でも食べるけど!」
母と姉は、ちらし寿司に歓声を上げた。
桜鯛の淡白な旨味、ウニの濃厚な甘み、そして酢飯のバランス。
全てが計算通りだ。
『十四代』の封を開けると、その香りだけで場が盛り上がる。
楽しい宴だ。
ビジネスの緊張感も、学園での駆け引きも忘れ、家族としての安らぎに身を委ねる。
母のハリウッドでの失敗談や、姉の大学での愚痴を聞きながら、俺は静かに杯を傾けた。
二人が帰った後、部屋には祭りの後のような静寂が戻った。
片付けを済ませ、俺はソファに深く沈み込んだ。
手元には、先日図書室で借り、iモード事業の参考にと読み進めている行動経済学の専門書がある。
『不確実性下の判断:ヒューリスティクスとバイアス』。
カーネマンとトベルスキーによる古典的研究書だ。人間は決して合理的な経済人ではなく、感情やバイアスによって極めて非合理的な選択を繰り返す生き物である――この本は、その真理を冷徹に解き明かしている。
ページをめくりながら、俺は今日一日の出来事を当てはめてみる。
翔太の無自覚な行動は「現在性バイアス」と「自己奉仕バイアス」の典型だ。
鷹森の隼人への執着は「損失回避性」から来るものかもしれない。
そして、マナの翔太への依存は「サンクコスト効果」だったのだろう。彼女はそこから脱却できた。
「……人間を知ることは、投資を知ることだ」
俺は本を閉じ、天井を見上げた。
金や株価の動きも、結局は人間の心理の集合体だ。
恐怖と強欲。
その波を乗りこなし、歪みを見抜く目が、今の俺にはある。




