第13話 空白の市場と銀色の晩餐
昨日の雨が嘘のように晴れ渡り、東京は初夏を思わせる陽気に包まれていた。
放課後。俺は、渋谷の街を歩いていた。
制服のブレザーを腕にかけ、ワイシャツの袖をまくる。
向かった先は、文化村通りにある大型書店だ。
インターネットが普及し始めたとはいえ、1999年の情報の主役は依然として「紙」だ。
特に、体系化された専門知識や最新のビジネストレンドを掴むには、書店を巡るのが最も効率的だった。
俺はビジネス書コーナーと専門書コーナーを往復し、目についた本を次々と手に取った。
『e-コマース革命』
『Java言語プログラミング』
『iモード・ストラテジー』
『現代建築の潮流』
『心理学における行動分析』
『フランス料理の科学』
ジャンルは多岐にわたるが、全て今の俺に必要な知識だ。
計6冊。重量感のあるハードカバーを含んでいるため、腕にずしりと重みがかかる。
レジで会計を済ませ、紙袋に入れてもらう。
知識への投資は惜しまない。それが俺のルールだ。
「……あら。随分と買い込んだわね、社長さん」
書店の出入り口で、聞き覚えのあるハスキーな声がした。
振り返ると、柱に寄りかかって文庫本を読んでいる女性がいた。
柚木沙耶さんだ。
今日は大学の講義が休みなのか、ラフな格好をしている。
身体のラインを拾わない大きめの白いシャツに、スキニーデニム。足元はコンバースのスニーカー。
シンプル極まりない装いだが、それがかえって彼女の持つアンニュイな色気を際立たせている。
シャギーの入ったショートボブが風に揺れ、切れ長の瞳が俺を捉えた。
口元のホクロが、微笑むたびに妖艶に動く。
退廃的で知的な美女。
周囲の学生たちが、遠巻きに彼女を見ているのが分かる。
「こんにちは、柚木さん。奇遇ですね」
「ええ。ゼミの資料を探しに来たのよ。……で? その大量の本はインテリア?」
「まさか。全て読みますよ。脳の栄養補給です」
「ふうん……。15歳にしては随分と健啖家ね」
沙耶さんは本を閉じ、面白そうに俺を見上げた。
彼女は心理学を専攻している。俺の行動や言動を、常に「分析」しようとしている節がある。
「柚木さんも、熱心ですね。昨日はドラッグストアでアルバイト、今日は研究ですか」
「まあね。人間観察が好きだから。……ねえ、少し立ち話でもどう? 奢ってくれるなら、お茶くらい付き合うわよ?」
彼女は悪戯っぽくウインクした。
断る理由はない。俺たちは近くのカフェに入り、テラス席についた。
アイスコーヒーを飲みながら、話題は自然と俺のビジネスのことになった。
舞からある程度話を聞いているのだろう。
「へえ。次は携帯電話の音楽? ……『着メロ』ってやつ?」
「ええ。今はまだ単音の電子音ですが、これから爆発的に普及します」
俺は昨日の決定事項――4,800万円の投資について、概要を話した。
1999年2月にサービスを開始したNTTドコモの『iモード』。
加入者は急増しているが、肝心の「コンテンツ」が圧倒的に不足している。
公式サイトの数はまだ少なく、ユーザーは遊べるサイトを求めて彷徨っている状態だ。
「市場は空っぽの器です。そこに、質の高いコンテンツを最速で投入する。……具体的には、プロのミュージシャンを使って制作した、ハイクオリティな着信メロディサイトです」
「ふーん。でも、たかが電話の呼び出し音でしょ? お金払う人なんているの?」
沙耶さんは懐疑的だ。
それが、この時代の一般的な感覚だろう。
だが、俺は知っている。
「着メロ」が自己表現の手段となり、若者たちがこぞって最新ヒット曲をダウンロードする未来を。
月額300円という少額課金モデルは、携帯電話料金と一緒に請求されることで心理的ハードルが極端に低くなる。
塵も積もれば山となる。数百万人が登録すれば、毎月数十億円が自動的に入ってくるシステムだ。
「いますよ。携帯電話は、もはや単なる通信機器ではありません。個人のアイデンティティを示すアクセサリーになる。……その『個性』を演出するために、人々は金を惜しまない」
「……なるほどね。相変わらず、可愛げのない分析だこと」
沙耶さんはストローを回しながら、呆れたように、しかし感心したように笑った。
「君の頭の中、一度解剖してみたいわ。……15歳の皮を被った、老獪な詐欺師みたい」
「詐欺師とは人聞きが悪い。俺は価値を提供しているだけですよ」
「はいはい。……ま、頑張りなさいよ。舞のためにもね」
彼女は少し表情を和らげ、俺の手の甲にポンと自分の手を重ねた。
ひんやりとした指先。
それは彼女なりのエールなのだろう。
「ありがとうございます。……では、そろそろ失礼します。夕食の買い出しがありますので」
「あら、主夫もこなすの? 偉い偉い」
沙耶さんに手を振って別れ、俺は渋谷の街を後にした。
心理学者との会話は、良い気分転換になった。
彼女のような鋭い観察眼を持つ人間との対話は、自分の思考を客観視するのに役立つ。
ハイヤーで向かった先は、東急本店の地下食品売り場だ。
今日は自炊をする。
外食も悪くないが、自分の身体に入れるものを自分で選び、コントロールする時間は、何よりの贅沢だ。
目指すは鮮魚コーナー。
「いらっしゃい! 今日はいいホタテが入ってるよ!」
威勢のいい声に迎えられる。
俺はショーケースを吟味し、北海道産の特大ホタテ、才巻海老、そしてズワイガニのむき身を購入した。
どれも刺身で食べられる鮮度の最高級品だ。
これらを惜しげもなく加熱調理に使う。それが大人の料理だ。
続いて野菜コーナーで、旬のアスパラガスと新玉ねぎ、マッシュルームを籠に入れる。
フルーツコーナーでは、熊本県産の甘夏をチョイスした。
爽やかな酸味と苦味が、濃厚なグラタンの後の口直しに最適だ。
最後に、ワインセラーへ。
選んだのは、ブルゴーニュ産の白ワイン『シャブリ・グラン・クリュ』。
キリッとした酸味とミネラル感が、シーフードの旨味を引き立てる。
高校生が酒を買うのは法的に問題があるが、ここは外商を通しているため、顔パスで処理される。
全てを揃え、俺は満足げに店を出た。
帰路、駅前のフラワーショップに立ち寄る。
無機質なマンションの部屋に、少し彩りが欲しかった。
店内には色とりどりの花が溢れているが、俺が選んだのは切り花ではない。
「……これを二つ、いただけますか」
指差したのは、小さな鉢植えの『ミニバラ』だ。
深紅と、純白。対照的な二色を選んだ。
花言葉はそれぞれ『情熱』と『純潔』。
まるで、これから俺の周りに集まるヒロインたちを象徴しているようだ。
パキラの横に並べれば、部屋の雰囲気も明るくなるだろう。
帰宅後。
俺はシャツを着替え、エプロンを締めた。
広いアイランドキッチンに食材を並べる。
BGMはかけない。調理の音だけを楽しむ。
まずはホワイトソース作りからだ。
厚手の鍋にバターを溶かし、小麦粉を炒める。
焦がさないよう、弱火でじっくりと。香ばしい香りが立ってきたら、冷たい牛乳を一気に加えるのではなく、少しずつ加えて伸ばしていく。
ダマにならないよう、ホイッパーで丁寧に混ぜ合わせる。
滑らかなクリーム状になったら、塩、ホワイトペッパー、そして隠し味のナツメグを少々。
これでベースは完成だ。
次に具材の準備。
ホタテと海老は白ワインでさっと蒸し焼きにし、旨味を閉じ込める。
新玉ねぎとマッシュルームはバターで炒め、甘みを引き出す。
茹でたマカロニと共に、これらをホワイトソースに絡める。
さらに、たっぷりのズワイガニを投入。
耐熱皿に盛り付け、上からグリュイエールチーズとパルミジャーノ・レッジャーノを削りかける。
パン粉を散らし、バターをちぎって乗せる。
200度に予熱したオーブンへ。
焼いている間に、甘夏の皮を剥く。
薄皮まで丁寧に取り除き、果肉だけをガラスの器に盛る。ミントの葉を添えれば、見た目も涼やかだ。
バゲットは斜めにスライスし、軽くトーストする。
――チーン。
軽快な音が鳴り響く。
オーブンを開けると、黄金色の焦げ目がついたグラタンが、グツグツと音を立てていた。
濃厚なチーズと魚介の香りが、キッチンいっぱいに広がる。
完璧だ。
ダイニングテーブルに料理を並べ、ワイングラスにシャブリを注ぐ。
黄金色の液体が、ダウンライトに照らされて輝く。
俺は一人、静かに手を合わせた。
「いただきます」
熱々のグラタンを口に運ぶ。
ハフハフと息を吐きながら噛み締めると、濃厚なホワイトソースと魚介の旨味が爆発した。
ホタテの甘み、海老のプリプリとした食感、そしてカニの風味。
それらをチーズのコクが包み込む。
そこに、キリッと冷えたシャブリを流し込む。
酸味が脂を切り、口の中をリセットする。
至福の瞬間だ。
バゲットにソースをつけて食べるのもまた格別。
誰かと共有したい美味さだが、今の俺にはこの孤独こそが贅沢だ。
食事を終え、甘夏をデザートにつまみながら、俺はリビングのソファに移動した。
シアターセットのリモコンを操作する。
今日観るのは、先日TSUTAYAで借りてきたもう一本のDVD。
『プライベート・ライアン』だ。
画面に映し出されるのは、ノルマンディー上陸作戦の凄惨な戦場。
スピーカーから轟く銃声と爆発音。
兵士たちの叫び。
スティーヴン・スピルバーグ監督が描く、徹底したリアリズム。
弾丸が肉を切り裂き、海が血で染まる。
それは、俺が今生きている平和な日常とは対極にある世界だ。
だが、同時にビジネスの世界とも通じるものがある。
生き残るためには、冷静な判断と、仲間への信頼、そして時に非情な決断が必要だということ。
俺はワイングラスを揺らしながら、画面に見入った。
トム・ハンクス演じるミラー大尉の瞳に、俺自身の覚悟を重ねる。
この世界で、俺は何を守り、何を成し遂げるのか。
ヒロインたちの笑顔、社員たちの生活、そして自分自身の誇り。
守るべきものは多い。
映画が終わる頃には、ワインのボトルは半分ほど空いていた。
心地よい酔いが回っている。
俺は立ち上がり、窓際へ行った。
今日買ってきたミニバラの鉢植えが、夜景を背景に静かに咲いている。
深紅と純白。
その美しさを愛でながら、俺は最後の一口を飲み干した。




