第12話 雨音の絶縁と着信メロディの予感
朝のホームルーム前、1年A組の教室は湿った空気に包まれていた。
予報通りの雨。窓ガラスを叩く雨音が、教室内の喧騒を少しだけ沈ませている。
俺は、席についてパソコンを開く前に、教室内のある光景に目を留めた。
窓際の後方席。
文庫本を読んで静かに過ごそうとしている高城藍の机に、日向翔太が張り付いている。
「なぁ高城、今度の日曜暇だろ? みんなでボウリング行くんだけどさ、お前も来いよ! 人数合わせにちょうどいいし!」
翔太の無神経な声が響く。
「人数合わせ」。誘い文句として最悪の部類に入る言葉を、彼は悪気なく口にしている。
藍は本から視線を上げず、冷ややかに答えた。
「……お断りよ。私は暇じゃないの」
「えー? どうせ本読んでるだけだろ? たまには体動かさないと太るぞー?」
セクハラまがいの発言。
藍がバタンと本を閉じた。
その整った顔立ちが、氷点下の冷気を帯びる。
切り揃えられた黒髪のボブカット、知性を感じさせる涼しげな瞳。
クラスでも「高嶺の花」として一目置かれる彼女の美貌が、今は明確な軽蔑によって研ぎ澄まされていた。
「……日向。貴方のその『自分が世界の中心』だと思っている思考回路、吐き気がするわ。私の時間を貴方のために使う義理は、これっぽっちもないの」
「はあ? なんだよノリ悪いなー。マナなら『行く行く!』って言うぜ?」
「マナの名前を出さないで。……彼女が貴方に合わせてくれている優しさを、当たり前だと思わないことね」
藍は冷徹に言い放ち、席を立って教室を出て行った。
残された翔太は「なんだよアイツ、生理か?」などと独りごちている。
救いようがない。
彼は気づいていないのだ。自分がマナだけでなく、藍からも完全に絶縁宣言を突きつけられていることに。
そして、その無自覚な悪意が、今日マナとの関係を決定的に壊すことになることも。
2限目、古典。
教壇では老教師が『徒然草』の解説をしているが、俺の意識は机の下にあった。
開いているのは、一昨日図書室で借りた『大蔵省 権力と腐敗の構造』というノンフィクションだ。
昨年の1998年、大蔵省接待汚職事件が発覚し、「ノーパンしゃぶしゃぶ」という言葉が流行語になるほど世間を騒がせた。
この事件を機に、最強官庁と呼ばれた大蔵省は解体され、2001年には財務省へと再編される。
この本には、護送船団方式と呼ばれた金融行政の内幕と、エリート官僚たちの堕落が詳細に描かれている。
(……この構造変化こそが、ビジネスチャンスだ)
俺は重要な記述をノートに書き写した。
金融ビッグバンによる規制緩和。
それは、外資系金融機関やネット証券の台入を促し、俺のような個人投資家にとって有利な環境を生み出す。
教師の視線がこちらに向く気配を感じ、俺は素早く本を閉じ、顔を上げた。
黒板を見るふりをしながら、頭の中では次の事業計画を練る。
情報の整理と、リスク管理。
授業という拘束時間さえも、俺にとっては有効なリソースだ。
昼休み。
雨のため中庭には出られず、俺は渡り廊下の自販機コーナーに来ていた。
コーヒーを買おうと小銭を探していると、ふわりと甘い香りが漂ってきた。
「あ、西園寺くん! 奇遇だね~」
花村結衣先輩だ。
先週、階段から落ちそうになったところを助けて以来、彼女は俺に懐いている。
艶やかな黒髪のセミロングに、少し垂れ気味の大きな瞳。
制服のブラウスが窮屈そうなほど発育の良いプロポーションは、今日も健在だ。
彼女はイチゴオレを両手で持ち、無邪気な笑顔を向けてきた。
「こんにちは、花村先輩。……先輩も休憩ですか?」
「うん。セイラちゃんが生徒会で忙しいから、一人でフラフラしてたの。……ねえねえ、西園寺くんってさ、お休みの日は何してるの?」
彼女は距離感を無視して近づいてくる。
無防備な上目遣いに、俺の理性が警報を鳴らす。
「……読書や、映画鑑賞ですね。あとはトレーニングを少々」
「すごぉい! やっぱり王子様は違うねぇ。私なんて、家でゴロゴロしてポテチ食べてるだけだよ~」
「それはそれで、有意義な休日だと思いますよ」
「えへへ、優しいなぁ西園寺くんは」
彼女は嬉しそうに目を細めた。
その笑顔には、計算も裏表もない。
セイラ先輩が彼女を守りたくなる気持ちが分かる気がした。
この純真さは、この学園では希少種だ。
「……あ、そうだ。セイラちゃんね、西園寺くんの話すると、ちょっと顔赤くするんだよ。ふふっ、仲良くなれるといいね」
「……善処します」
俺は苦笑いで返した。
あの氷の女王が顔を赤くする想像がつかないが、結衣先輩のフィルターを通すとそう見えるのだろうか。
チャイムが鳴る。
彼女は「またね~!」と手を振り、ふんわりとした足取りで教室へと戻っていった。
嵐のような、しかし温かな癒やしの時間だった。
放課後。
雨脚は強まり、校庭には水たまりが広がっていた。
生徒たちは傘を差して三々五々帰宅していく。
俺は昇降口の近くに車を回させ、舞を待たせていた。
その時、昇降口の屋根の下で、困り果てている桜木マナの姿を見つけた。
彼女は傘を持っていないようで、空を見上げて溜息をついている。
そこへ、部活帰りの日向翔太が現れた。
彼は大きな傘を持っている。
マナの顔がぱっと輝いた。幼馴染の翔太なら、入れてくれると思ったのだろう。
「あ、翔太! ちょうど良かった、私傘忘れちゃって……」
マナが駆け寄ろうとした、その時だった。
翔太の視線が、マナの後ろにいた別の女子生徒に向けられた。
クラスでも目立つ、派手なグループの女子だ。
「おっ、高田さんじゃん! 傘ないの? 俺の入りなよ! 駅まで送るって!」
翔太はマナの存在を無視し、その女子生徒に駆け寄って傘を差し出した。
女子生徒は「えー、マジ? ラッキー! サンキュー日向!」と翔太の傘に入り込む。
二人は親しげに笑い合いながら、雨の中へと消えていった。
――残されたのは、凍りついたように立ち尽くすマナだけ。
彼女が伸ばしかけた手は、行き場を失って空を掴んでいた。
幼馴染だから。一番近くにいるから。
そんな信頼が、音を立てて崩れ落ちる瞬間だった。
マナは震える肩を抱き、意を決したように鞄を頭に乗せ、雨の中へと飛び出した。
「……如月。彼女を追え」
俺は後部座席から指示を出した。
黒塗りのセダンが滑らかに発進する。
数メートル先、ずぶ濡れになって歩くマナの横に、車を寄せた。
パワーウィンドウが開く。
「……桜木さん。乗ってください」
「えっ……西園寺、くん……?」
マナが驚いて振り返る。
雨水が前髪から滴り、彼女の視界を遮っていた。
その瞳は赤く、雨のせいか涙のせいか分からないほど濡れていた。
「風邪を引きます。家まで送りますよ」
「で、でも……迷惑じゃ……」
「車は洗えば済みます。……早く」
俺はドアを開けた。
マナは躊躇いながらも、寒さに耐えかねて後部座席に乗り込んできた。
俺はすぐに、用意しておいた清潔なバスタオルを彼女の頭から被せた。
「……ごめんね、ありがとう……」
彼女は小さく震えていた。
物理的な寒さだけではない。心底冷え切ってしまったのだろう。
俺は空調の温度を上げさせ、彼女が落ち着くのを待った。
「……見ちゃった、よね」
しばらくして、タオルの中から掠れた声が聞こえた。
「翔太……私のことなんて、どうでもいいんだね。……幼馴染だからって、勝手に期待してた私がバカだったんだ」
彼女はタオルを強く握りしめた。
「自分が大切にされていない」という事実を、初めて直視した痛み。
それは残酷だが、彼女が自立するためには必要な通過儀礼だ。
「……彼は愚かですが、悪人ではありません。ただ、桜木さんの優しさに甘えて、桜木さんを見ることを忘れているだけです」
俺は淡々と、しかし優しく告げた。
「ですが、桜木さんはもっと大切にされるべきだ。……少なくとも、僕なら雨の中に君を置き去りにはしない」
マナが顔を上げた。
濡れた瞳が、俺をじっと見つめる。
その瞳に、俺の言葉が深く刻まれるのを感じた。
「……西園寺くんは、ずるいよ。……そんなこと言われたら、泣いちゃうじゃん」
彼女は再びタオルに顔を埋め、静かに泣き出した。
俺は何も言わず、彼女が泣き止むまでその震える背中を見守り続けた。
マナを送り届けた後、俺は車内でビジネスモードに切り替えた。
助手席の舞に、作成しておいた事業計画書を渡す。
「次の事業だ。……『着信メロディ』と『待受画像』、そして『占いサイト』の運営」
1999年、iモードの爆発的な普及と共に、「携帯電話でコンテンツを楽しむ」という文化が生まれようとしている。
まだ単音のピコピコ音でしかない着メロだが、これが数年で和音になり、やがて「着うた」へと進化する。
その市場規模は、数千億円に達するだろう。
「この事業に、4,800万円を投入する」
「……全額、ですか?」
「ああ。内訳はこうだ」
俺は指を立てて説明した。
「まず1,000万円で、J-POPのヒット曲をMIDIデータ化する権利処理と制作を行う。優秀なオタクやエンジニアが渋谷に集まり始めている。彼らを囲い込め」
「承知いたしました」
「次に2,000万円。サーバーの増強だ。Sun Microsystemsの物理サーバーを購入し、データセンターを確保する」
ここが勝負の分かれ目だ。
当時のネットベンチャーは、アイデアはあってもインフラが貧弱だった。アクセスが集中すればすぐにサーバーが落ちる。
だが、俺には金がある。
最初からオーバースペックなほどのサーバーを用意し、「落ちないサイト」を作れば、それだけで勝てる。
「残りの1,800万円は、ドコモとの交渉だ。公式メニューに入るための営業費、開発協力費として使う。……金を積んででも、iモードボタンの一等地を確保するぞ」
舞は真剣な表情でメモを取っている。
彼女なら、俺の意図を正確に汲み取り、完璧な実務をこなしてくれるはずだ。
「……社長。このスピード感、恐ろしいほどですね」
「時代が動いているんだ。立ち止まっている暇はない」
俺は窓の外を見た。
雨上がりの東京。
街の灯りが、まるで無数のデジタル信号のように瞬いていた。
帰宅すると、リビングから芳しい香りが漂ってきた。
キッチンに立っているのは、エプロン姿の母だ。
ハリウッド女優が日本のマンションで煮込み料理を作っている図はシュールだが、彼女の手際は見事だ。
「Welcome back, Leo! 今日はビーフシチューよ!」
「ただいま、母さん。……いい匂いですね」
俺はジャケットを脱ぎ、ダイニングテーブルについた。
そこには、完璧なテーブルセッティングと共に、温かいシチューとバゲットが並べられていた。
ビジネスの鉄火場から、温かな家庭へ。
この切り替えが、俺の精神衛生を保っている。




