第11話 銀盤の映画と鋼の重り
春の長雨がようやく上がり、少し汗ばむほどの陽気が戻ってきた。
5限目、世界史。
昼食後の睡魔が教室を支配する魔の時間帯だ。
教壇に立つのは、学年主任も務めるベテラン教師、小田切だ。
白髪交じりの髪を撫でつけ、銀縁眼鏡の奥から眠そうな生徒たちを睨め回している。彼は生徒を当てて答えられないと、延々と説教を始めることで有名だった。
「……では、ここだ。冷戦終結後の国際秩序について。1991年のソビエト連邦崩壊が、その後の地域紛争にどのような影響を与えたか。……おい、西園寺」
不意に名前を呼ばれた。
俺は、手元の洋書から顔を上げた。
クラスの視線が集まる。
これは単なる知識を問う問題ではない。歴史的背景と因果関係を論理的に説明する必要がある、高校生には少々荷が重い問いだ。
俺は静かに席を立った。
「はい。ソ連崩壊による力の空白は、それまで抑え込まれていた民族対立や宗教対立を表面化させました。特に旧ユーゴスラビア地域やカフカス地方における紛争の激化は、超大国の均衡が崩れたことによるパワーバランスの変動が直接的な要因です。また、核拡散の懸念や、市場経済への移行に伴う経済的混乱も、地域の不安定化に拍車をかけたと認識しています」
淀みなく答える。
教科書の内容をなぞるだけでなく、当時の新聞記事や後の歴史的評価を加味した、完璧な回答だ。
小田切先生は眼鏡の位置を直し、ほう、と感嘆の息を漏らした。
「……正解だ。いや、模範解答以上だな。よく勉強している」
「恐縮です」
俺は一礼して着席した。
周囲から「マジかよ」「あいつ何者?」という囁きが漏れる。
隣の席の城戸隼人が、教科書の陰で親指を立ててニカッと笑った。
俺は小さく肩を竦めてみせる。
41歳の知識量を持ってすれば、高校の授業など児戯に等しい。だが、学生の本分として手を抜くつもりはない。
効率よく評価を稼ぎ、自由な時間を確保する。それが大人の学校生活だ。
放課後。
俺は隼人を伴って、渋谷のスポーツ用品店に来ていた。
目的は、自室でのトレーニング環境を整えることだ。
現在の肉体は15歳。若く、可能性に満ちているが、まだ線が細い。
将来的な激務や、万が一のトラブルに耐えうる「戦える肉体」を作る必要がある。
「へぇ、ダンベルかよ。お前、意外と脳筋だよな」
隼人が陳列棚のダンベルを持ち上げながら冷やかす。
金髪にピアスの不良スタイルだが、その腕の筋肉はしなやかで美しい。元陸上部のエースとしての貯金は、まだ体に残っているようだ。
「健全な精神は健全な肉体に宿る、と言うだろう。……これと、ベンチプレス用のセットも頼む」
「マジかよ。部屋に置けんのか?」
「問題ない。部屋は無駄に広いからな」
俺は店員を呼び、可変式ダンベルのセットと、フラットベンチ、さらに床を保護するためのジョイントマットを注文した。
総重量はかなりのものになるため、配送を手配する。
ついでに、プロテインとサプリメントもカートに入れた。
1999年当時、プロテインはまだ「不味い粉」という認識が一般的だったが、海外製の高品質なものはそれなりに飲める味になってきている。
「西園寺、お前マジで何目指してんの? 格闘家?」
「ただの自己管理だ。……城戸、君もどうだ? 一緒に鍛えるか?」
「俺はいいよ。……走るのは好きだけどな、筋トレは性に合わねぇ」
隼人は少し寂しげに笑い、視線を逸らした。
その視線の先には、ランニングシューズのコーナーがあった。
中学時代、理不尽な指導で足を壊され、夢を断たれた彼。
だが、その情熱の火種はまだ消えていないように見える。
俺は何も言わず、会計を済ませた。
彼が再び走り出すための準備は、俺の方で進めておく。鷹森という障害物を排除した後に。
スポーツ用品店を出た後、俺たちは近くのレンタルショップ『TSUTAYA』に向かった。
青と黄色の看板が、夕暮れの街に鮮やかに浮かび上がっている。
店内は、ヒットチャートの音楽と若者たちの熱気で溢れていた。
VHSビデオカセットが棚の大部分を占める中、俺は新設されたばかりの「DVDコーナー」へと足を向けた。
DVD。
直径12センチの銀色の円盤。
VHSに代わる次世代の映像メディアとして登場したばかりで、まだタイトル数も少ない。
だが、その画質と音質、そして巻き戻し不要という利便性は革命的だ。
俺はレジに行き、入会手続きを行った。
「ただいま、年間会員キャンペーンを実施中です。入会金無料で、新作も半額になりますが」
「では、それで」
店員の説明を聞き、即決する。
横で隼人が目を丸くした。
「おいおい、年会費払うのかよ。たまに借りるくらいなら都度払いの方が安くねぇか?」
「損益分岐点は月に2本だ。それ以上観るなら、こちらの方が得だ」
「計算はえーな……。で、何借りるんだ?」
俺が手に取ったのは、2本のDVDケースだ。
一本は『アルマゲドン』。
エアロスミスの主題歌と共に世界中で大ヒットした、小惑星衝突の危機を描くパニック超大作。
もう一本は『プライベート・ライアン』。
冒頭のオマハ・ビーチ上陸作戦の描写が映画史を塗り替えたと言われる戦争映画だ。
どちらも、昨年の話題作であり、DVDの高画質・高音質を堪能するにはうってつけのタイトルだ。
「うわ、また濃いとこ選ぶなぁ。……俺ならアイドルのイメージビデオとか借りるけど」
「それは君に任せるよ。……俺の部屋にはシアターセットがある。今度観に来るか?」
「マジ!? 行く行く! 大画面でブルース・ウィリス見るとか最高じゃん!」
隼人は子供のように目を輝かせた。
こういう単純なところが、彼の憎めないところだ。
「なぁ、ちょっと付き合えよ」
店を出ると、今度は隼人が俺を誘った。
連れて行かれたのは、路地裏にある古びたバッティングセンターだ。
カキーン、カキーン、という金属音がリズミカルに響いている。
「ストレス発散にはこれが一番だぜ」
隼人は100円玉を投入し、バッターボックスに入った。
120キロのコース。
彼はバットを構えると、鋭いスイングでボールを捉えた。
快音と共に、打球はセンターのネットに突き刺さる。
フォームに淀みがない。下半身のバネと、背筋の使い方が上手い。
彼は「陸上部」だったはずだが、身体能力のベースが高いのだろう。
「っしゃあ! ……西園寺、お前もやってみろよ」
「俺は野球の経験はないが……」
言いながら、俺も隣のボックスに入った。
ジャケットを脱ぎ、バットを握る。
飛んでくるボールに集中する。
動体視力は良い。ボールの縫い目まで見えるようだ。
タイミングを合わせ、最短距離でバットを出す。
――カァン!
芯を食った感触。
ボールは鋭いライナーとなって飛んでいった。
「おー! やるじゃん! 初心者にしてはスイング速すぎだろ」
「物理法則に従っただけだ。……悪くないな」
手に残る痺れが心地よい。
俺たちはその後も、無言で白球を打ち続けた。
汗と共に、日々の鬱屈や思考のノイズが排出されていく感覚。
隣のボックスで、隼人が楽しそうに笑っている。
彼がこうして身体を動かせる場所を守ること。
それは、俺の密かな目標の一つになっていた。
バッティングセンターを出ると、通りに黒塗りのセダンが停まっていた。
俺の迎えだ。
「じゃあな城戸。今日は楽しかった」
「おう。またな西園寺。……あ、筋肉痛になっても知らねーぞ!」
隼人と別れ、俺は後部座席に乗り込んだ。
運転席には、秘書の如月舞が座っている。
夜の帳が下りた車内、ルームランプに照らされた彼女の横顔は、彫刻のように美しかった。
黒髪を耳にかけ、ダークネイビーのスーツを完璧に着こなしている。
19歳という若さを、知性と気品という鎧で包み込んだ「大人の女性」。
その涼しげな瞳が、バックミラー越しに俺を捉えた。
「お疲れ様です、社長。……少し汗をかかれましたか?」
「ああ。友人と少し運動をね。……配送の手配は?」
「完了しております。トレーニング機材は明日の午前中に搬入予定です」
「仕事が早いな。助かるよ」
俺はシートに深く身を預けた。
舞の運転は相変わらず快適だ。揺れをほとんど感じさせない。
「城戸様とは、随分と打ち解けられたようですね」
「ああ。彼は裏表がない。ビジネスの世界にはいないタイプだ」
「社長がリラックスできる相手なら、何よりです。……ですが、鷹森についての調査報告書、ご覧になりましたか?」
「まだだ。帰ってから確認する」
舞の声色が少し硬くなった。
おそらく、調査の結果は芳しくない――つまり、鷹森の「黒い部分」が想像以上に深かったということだろう。
俺は窓の外を流れる東京の夜景を見つめた。
光の数だけ闇がある。だが、俺はその闇を恐れない。
「……無理はなさらないでくださいね。社長のお体は、社長だけのものではありませんから」
「分かっている。君を悲しませるような真似はしない」
俺の言葉に、舞は少しだけ頬を緩めたようだった。
彼女とのこの短い会話が、俺にとっては最高のリセットボタンだ。
帰宅後、俺はシャワーを浴びて汗を流した。
リビングの窓際に置かれた観葉植物、パキラの鉢植えに目をやる。
少し葉の色が薄い気がした。
俺は棚から、緑色のアンプルを取り出した。
植物用活力液だ。
キャップをねじ切り、土に逆さまに突き刺す。
「……しっかり育てよ。投資も植物も、栄養が必要だ」
このパキラが天井に届く頃、俺の計画はどこまで進んでいるだろうか。
そんなことを考えながら、俺はシアターセットの電源を入れた。
借りてきた『アルマゲドン』のDVDをプレーヤーにセットする。
部屋の照明を落とす。
プロジェクターから投影された大画面に、宇宙の映像が広がる。
エアロスミスの『I Don't Want to Miss a Thing』が、高音質のスピーカーから流れ出した。
映画を流しながら、俺は届いたばかりのヨガマットを敷き、自重トレーニングを始めた。
プッシュアップ、クランチ、スクワット。
映画の中では、ブルース・ウィリスたちが地球を救うために命を懸けている。
俺の戦いはもっと地味で、泥臭いものだが、覚悟の量は負けていないつもりだ。
「……ふっ、……ふっ」
呼吸を整えながら、筋肉に負荷をかけていく。
汗がマットに落ちる。
映画のクライマックス、自己犠牲のシーンで、俺は最後のセットを終えた。
心地よい疲労感。
今日はよく動いた。
隼人とのバッティング、舞との会話、そして映画とトレーニング。
充実した一日だったと言えるだろう。




