第10話 底値の楼閣と心理学者の迷宮
週明けの東京は、小雨が降る肌寒い朝を迎えていた。
登校中のハイヤーの中、俺は、舞が用意した不動産物件のリストに目を通していた。
バブル崩壊から約10年。日本の地価は下落の一途を辿り、今や「底の底」と言える水準にある。
特に都心部のマンション価格は異常なほど割安だ。
リストの筆頭にあるのは、港区南麻布の低層レジデンス。100平米を超える3LDKのファミリータイプが、なんと4,000万円台で売りに出されている。
2024年の感覚で言えば、優に1億5,000万円から2億円は下らない「億ション」クラスの物件だ。
それが今なら、サラリーマンの生涯年収よりも安い価格で手に入る。
「……狂っているな。いや、正常化への過渡期か」
俺は赤ペンを取り出し、購入候補の物件に丸をつけた。
手元資金は潤沢にあるが、ここはあえて全額キャッシュでは買わない。
低金利時代だ。銀行から融資を引き出し、レバレッジを効かせて複数の物件を押さえる。
南麻布、広尾、そして再開発が進む代官山。
これらをリノベーションし、外資系企業の駐在員や富裕層向けに賃貸に出せば、インカムゲインだけで莫大な利益を生む。そして将来的なキャピタルゲインは約束されているも同然だ。
「舞。印をつけた3物件、買い付け証明を出しておいてくれ。満額回答で構わない」
「承知いたしました。……銀行との融資交渉も、社長の信用力なら問題ないでしょう」
運転席の如月舞が、バックミラー越しに力強く頷く。
彼女の手腕があれば、手続きは滞りなく進むだろう。
俺は携帯電話――2月にサービスが開始されたばかりの『iモード』対応端末を取り出し、ニュースサイトのテキストデータをスクロールした。
通信速度は遅く、画面も粗い。だが、この小さな箱が世界を変える予兆は、すでに始まっている。
不動産という「物理的な土地」と、ネットという「仮想の土地」。
両方を制する者が、次の時代の覇者となる。
学校に到着し、1年A組の教室に入る。
月曜の朝独特の気だるい空気が漂う中、聞き慣れた声が耳に入ってきた。
「なぁマナ! 今度の日曜、みんなでボウリング行かね? クラスの女子も何人か来るって!」
日向翔太だ。
彼は前の席に座る桜木マナの机に身を乗り出し、ハイテンションで話しかけている。
マナは教科書を開いたまま、困ったように眉を下げていた。
「……ごめん翔太。日曜はお店の手伝いがあるから」
「えー? いいじゃんサボれば。おじさんに俺から言っとくし!」
「ダメだってば。最近忙しいし、新しいメニューも考えなきゃいけないの」
「真面目だなぁ。そんなの適当でいいだろ? 息抜きも必要だって!」
翔太は「良かれと思って」言っているのだろう。
マナを遊びに連れ出し、楽しませてあげたいという善意。
だが、その善意には「マナの事情」や「マナが大切にしているもの(店)」への敬意が欠けている。
自分の価値観だけで相手を救おうとする行為は、時に暴力となる。
「……本当に無理なの。ごめんね」
マナの声色が、わずかに硬くなった。
拒絶のサインだ。だが、翔太はそれに気づかない。
「ちぇっ、付き合い悪いなぁ。じゃあ、俺が手伝いに行ってやろうか?」
「……ううん、いい。一人でできるから」
マナは教科書に視線を落とし、会話を打ち切った。
その横顔には、疲労と諦めが滲んでいる。
先日の放課後、俺が彼女をエスコートしたことで、彼女の中の自立心は芽生えつつある。
翔太の子供っぽいアプローチは、もはや彼女の心には響かないどころか、逆効果にしかなっていない。
俺は席につき、その様子を静かに観察するだけにとどめた。
果実は熟して落ちるのを待てばいい。無理に揺らす必要はない。
昼休み。
俺は図書室を訪れた。
先日の高城藍との出会いもあり、ここの蔵書ラインナップが意外と充実していることを知ったからだ。
経済史の棚から、大蔵省に関するノンフィクションと、行動経済学の専門書を2冊抜き取る。
貸出カウンターへ向かう途中、閲覧スペースの窓際で、一人の女子生徒と目が合った。
霧島セイラ先輩。
生徒会副会長であり、没落寸前の名家のご令嬢。
窓から差し込む雨上がりの陽光が、彼女の艶やかな黒髪と、彫りの深いエキゾチックな美貌を際立たせている。
彼女は分厚い洋書を読んでいたが、俺に気づくとスッと目を細めた。
「……奇遇ね、成金くん。貴方も本なんて読むの?」
挨拶代わりの皮肉。
だが、以前のような刺々しい敵意は、わずかに鳴りを潜めているように感じる。
先週の球技大会の日、階段から落ちそうになった親友・花村結衣先輩を俺が助けた一件が影響しているのだろう。
「ええ。知識は荷物になりませんから。……霧島先輩こそ、今日は花村先輩と一緒ではないのですか?」
「結衣なら委員会よ。……それより、貴方」
セイラ先輩は本を閉じ、俺を正面から見据えた。
「結衣が、貴方のことを『王子様』だなんて騒いでいるわ。……調子に乗らないことね。あの子は純粋すぎて、毒と薬の区別がつかないだけよ」
「肝に銘じておきます。ですが、俺が毒かどうかは、先輩ご自身の目で判断されてはいかがですか?」
「言われなくてもそうするわ。……私の目の届く範囲で、あの子を傷つけるような真似をしたら、許さないから」
彼女の言葉には、親友を守ろうとする強い意志が宿っていた。
自分の家が危機的状況にありながら、他者を気遣う余裕がある。
その高潔さは、やはり名家の血筋ゆえか。
俺は僅かに口元を緩め、一礼した。
「ご忠告、感謝します。……では、失礼します」
俺が立ち去ろうとすると、背後から小さな声が聞こえた。
「……あの時のこと、礼は言っておくわ。……ありがとう」
振り返ると、彼女はすでに視線を本に戻していた。
耳朶が微かに赤い。
ツンデレのテンプレートのような反応だが、彼女の場合はそれが計算ではなく、プライドと誠実さの板挟みから来るものだと分かるだけに、好感が持てる。
攻略の難易度は高そうだが、崩しがいはありそうだ。
放課後。
俺は制服から私服に着替え、都内の某有名私立大学のキャンパスに足を踏み入れた。
目的は、大学図書館にある経営学の希少な資料を閲覧することだ。
高校生である俺には貸出権限がないため、紹介状を持って閲覧申請をする必要がある。
アカデミックな空気が漂うキャンパスを歩いていると、ベンチで足を組んで読書をしている女性を見つけた。
柚木沙耶さんだ。
昨日のドラッグストアでのラフな格好とは違い、今日はモノトーンのモード系ファッションで決めている。
アンニュイなショートボブと、口元のホクロ。
女子大生というよりは、若き女性教授のような知的な色気を放っていた。
「……おや。迷子の高校生かしら?」
俺が近づく前に、彼女は顔を上げずに言った。
気配で分かったのか。
「こんにちは、柚木さん。迷子ではありませんよ。資料探しに来たんです」
「ふうん。勉強熱心な社長さんね。……でも、ここは私のフィールドよ。案内してあげましょうか?」
彼女はパタンと本を閉じ、悪戯っぽく微笑んだ。
その余裕ぶった態度が、年上の女性らしくて可愛らしい。
「では、お言葉に甘えて」
俺たちは並んで図書館へと向かった。
道中、彼女はすれ違う学生たちの視線を集めていたが、本人は全く意に介していない。
「ねえ、西園寺くん。せっかくだから心理テストしてみない?」
図書館の閲覧席に着くと、沙耶さんが小声で提案してきた。
俺の深層心理を探ろうという魂胆か。
「どうぞ。お手柔らかに」
「じゃあね……。貴方は暗い森の中にいます。目の前に道が二つ。一つは整備された広い道、もう一つは獣道。どっちを選ぶ?」
「……目的地によりますね。最短距離なら獣道を選びますが、リスクとリターンを計算して、整備された道を走った方が効率的が良い場合もあります」
「……うわ、可愛くない答え」
沙耶さんは眉をひそめた。
「普通は『冒険したいから獣道』とか『怖いから広い道』とか、感情で選ぶものよ。……貴方、思考回路がおじいちゃんみたいね」
「合理的と言ってください。経営者には必要な資質です」
「はいはい。……じゃあ次。道の先に家がありました。どんな家?」
「資産価値の高そうな、メンテナンスが行き届いた邸宅ですね。リセールバリューを考慮すると、立地も重要です」
「もういい! つまんない!」
沙耶さんは拗ねたように頬を膨らませた。
彼女の分析をもってしても、中身41歳の俺の思考は規格外らしい。
俺は苦笑しつつ、彼女の反応を楽しんだ。
資料の閲覧を終えると、夕方になっていた。
「心理テストの借りを返して」という理不尽な要求により、俺たちは大学近くのプールバーに来ていた。
薄暗い店内に、タバコの煙とチョークの匂いが漂う。
大人の遊び場だ。
「私、結構自信あるのよ。負けたらジュース奢りね」
沙耶さんはキューを構え、美しいフォームでブレイクショットを放った。
ボールが散らばる。なかなかの腕前だ。
だが、俺も負けるつもりはない。
物理演算と空間把握能力。これはビジネスにも通じるスキルだ。
「……では、いただきます」
俺は狙いを定め、静かにキューを突き出した。
手球は計算通りの軌道を描き、的球をポケットに沈めた後、次のボールを狙える絶好のポジションに停止した。
ポジション・プレー。
連続してポケットに沈めていく俺のプレイに、沙耶さんの目が次第に真剣になっていく。
「……嘘でしょ。なんでそんなに上手いの?」
「幾何学ですよ。角度と力加減、摩擦係数の計算です」
「また理屈っぽい……。でも、悔しいけど綺麗ね」
彼女は俺の横顔をじっと見つめ、呟いた。
その瞳には、分析対象として以上の、熱っぽい色が混じり始めていた。
結局、俺の完勝で終わったが、彼女は「次は負けないから」と楽しそうに笑っていた。
帰り道、俺は駅前の花屋に立ち寄った。
購入したのは、純白のカラー。
花言葉は『華麗なる美』『乙女のしとやかさ』。
シンプルで洗練されたその花は、俺の殺風景な部屋に合うだろう。
ついでに、専門店で最高級の『ブルーマウンテンNo.1』のコーヒー豆も購入した。
一日の終わりには、最高の香りと共に過ごしたい。
帰宅後。
俺はジャケットを脱ぎ、広々としたリビングで一人、パズルを広げた。
1000ピースのモノクローム写真のパズルだ。
無心になってピースを埋めていく作業は、脳内のノイズを除去する瞑想に近い効果がある。
ISDN回線のモデムが発する「ピーヒョロロ」という接続音が、静寂の中に響く。
ADSLや光回線が普及する前の、懐かしくも歯がゆいインターネットの音だ。
パズルが完成に近づいた頃、俺は気分転換に部屋の片付けを始めた。
クローゼットの奥を整理していると、未開封のダンボールが出てきた。
引っ越しの際に、実家から持ってきた荷物の一部だ。
開けてみると、そこには懐かしい本が3冊入っていた。
『金持ち父さん 貧乏父さん』
『バフェットの銘柄選択術』
そして、一冊の古いスケッチブック。
投資本はともかく、スケッチブックには見覚えがなかった。
ページをめくると、そこには拙いタッチで描かれた絵があった。
幼い頃の俺と、今は亡き祖父、そして泣き虫だった頃の姉さん。
さらにページを進めると、見知らぬ少女の絵があった。
ショートカットで、泣きそうな顔をして、それでも懸命に笑おうとしている少女。
「……これは」
記憶の彼方にある情景が、フラッシュバックする。
この少女は、もしかして。
俺はスケッチブックを閉じ、深く息を吐いた。
過去の記憶は、時に現在のパズルを解く重要なピースになることがある。




