不邪婬戒④
「はい」井藤の家は、母子家庭だ。豊ではない様子だった。だが、井藤はアルバイトに精を出し、亜由美の期待に応えようと一生懸命だった。アルバイトを幾つも掛け持ちしていたようだ。
だが、亜由美の要求はエスカレートする一方で、アルバイトで稼いだ金だけでは足りなくなった。井藤は家から金を持ち出すようになった。
そして、ついに、亜由美が牙をむいた。
「大学を卒業したら結婚してあげるから、今は婚約指輪を買って」
そう要求した。井藤は魔が差した。家にはまとまったお金などない。つい、アルバイトで働いていた居酒屋のレジの現金に手を出してしまった。
「馬鹿なやつです。自分が騙されていることに気がつかなかった」そう同級生は言ったそうだが、自分が標的だったなら果たして気がついていただろうか。亜由美の色香に迷って、指輪を差し出していたのではないだろうか。
「若いということは愚かだということでもありますからね」
阿佐部が言う。
「吉田君、よく聞いておきなさい。君も若いだけで、十分、愚かなのだから」と竹村が言うと吉田は「先輩。それでどうなったのですか?」と話の先を促した。
井藤から現金を受け取ると、亜由美は姿を消した。
やがて、レジの金を着服したことがバレて居酒屋から被害届が出された。井藤は恋人を失った上に犯罪者となってしまった。絶望したのだろう。井藤は地下鉄のホームから転落し、列車に跳ねられて死亡してしまった。死亡時、まだ十九歳、二十歳の誕生日は目前だった。
目撃者によれば自ら身を投げたように見えたという。
「何も死ななくても・・・若いということは愚かだということでもありますね」
同じ台詞を繰り返した阿佐部がため息をついた。
そして亜由美は喫茶店を辞めた。亜由美がいなくなってから、喫茶店で一緒に働いていた同僚の女の子が「ここだけの話よ」と喫茶店に来た学生に語ったことで噂が一気に広まった。
「良かったです。あんな女に目をつけられなくて」
同級生はそう呟いた。その口調には安堵感と嫉妬が入り混じっていた。実際、井藤健太以外にも亜由美の標的になっていた学生がいたようなのだ。
無論、噂である以上、全てが事実ではないだろう。だが、全てが作り話とも思えなかった。
「この事件を機に味を占めた亜由美は柴崎と共に夫婦で結婚詐欺に手を染めて行ったようです。結婚詐欺を重ねる毎に、手口は巧妙に、且つ、手際よくなっています」
「柴崎夫婦が共謀して結婚詐欺を行っていたことは分かってきましたが、それが黄鶴楼の事件と、どう係わっているのか分かりません」
阿佐部の言葉に、竹村は「ええ」と頷いた後で「なんか引っかかるんですよね」と言った。
「引っかかる?何が引っかかるのですか?」
「何かを見逃しているような気がして仕方がありません。色々、調べている内に、これは怪しいと思ったのですが、それが何だったか思い出せなくなってしまいました。胸の中で、もやもや~としているものがあるのですが、その正体が分からないのです」
「ああ、そういうこと、よくありますよね」
横から吉田が「先輩。旅行に出る時は、朝起きてから夜寝るまで、何をするのか考えながら順番に旅行荷物を準備して行けば良いそうですよ。同じように、柴崎亜由美に関して調べたことを行った場所順に、思い出して行けば良いんじゃありませんか?」と言った。
「行った場所順?最初に行ったのは、大田区にある柴崎のアパートだよな。あそこは、亜由美が住んでいた形跡がほとんどなかった。それから、百貨店の化粧品売り場で話を聞いたな・・・そこで、結婚を理由に仕事を辞めたという話を聞いた。新しい詐欺相手を釣り上げたってことだろう。おお、そうだ! その相手が誰なのか、調べる必要があった。亜由美のカモが黄鶴楼の事件に繋がっているはずだ・・・うん⁉」竹村は何か思い出したようだ。
「先輩、何です? 何を思い出したのですか?」
「はは~!吉田君、思い出した。やっぱり、俺は天才だね」
「先輩は僕のような凡才と違って天才です。それで、何を思い出したのですか?」
「ふふ。吉田君、気にするな。君のような凡才でも、何年も手入れをすれば、素晴らしい盆栽になるよ」
「はいはい。凡才に盆栽を掛けている訳ですね。それで?」
「亜由美のマンションのリビングのテーブルの上にメモがあっただろう。あれ、どこにある? 確か一式、持って帰ったはずだ」
「ああ、あれ。ちょっと待って下さい・・・」
吉田は机の上の書類の山から、証拠品袋を取り出した。「ありました。これです」と竹村に渡す。竹村は証拠品袋からメモ帳を取り出すと、ページをめくりながら確認を始めた。
「汚たない字だな。読めやしない・・・」
竹村がメモ帳を縦にしたり、横にしたりして、一枚、一枚、メモをながめる。やがて、「おっ!」と声を上げると「ああ、これだ」とメモ帳を阿佐部と吉田に見せた。
字だか絵だか分からないような線や図形が殴り書きしてある。「ここです」と竹村が指さす箇所を、目を凝らして見ると文字らしきものが見えてきた。カタカナだ。
「フフナカ――って書いてあるように見えます」
「二番目の“フ”は“ク”だよ。フクナカ――そう書いてあるように見えないか?」
「確かに。あっ! そうか、福永! 福永ですね」
柴崎亜由美が電話を掛けながら走り書きしたのだ。咄嗟に、カタカナで「フクナガ」と書こうとしたのだ。同じページに数字が羅列してある。
「これが福永だとすると、この数字は電話番号だな」
「竹村さん。福永の名刺、持っていましたよね? 電話番号、どうなっていましたか?」
「待て、待て――」と竹村は和田から証拠品として預かった福永の名刺を胸ポケットから取り出す。メモ帳の数字を名刺の電話番号と比べてみた。
「同じですね」
「ああ、これは福永の電話番号だ」
柴崎亜由美は福永と連絡を取り合っていた。福永は牧野の偽名だと思われる。
「牧野に繋がりましたね」
吉田の言葉に、竹村は「おう」と大声で頷いた。




