第3話
──翌朝六時。
眠い目をこすりながら窓の外を見れば、薄群青の空に刷毛で描いたような雲が伸びている。
春が始まったとはいえ、まだ朝は寒い。アンは薄いカーディガンを羽織って、寝室から廊下に出てキッチンへと階段を下りていく。
「うう……っ」
頭が軽い尽痛を訴えている。当たり前だが、昨晩はよく眠れなかった。アンはひどい寝不足である。決してそういう意味ではない。もちろんラウルとは寝室を分けた。
彼には客間を一室貸し与えて、用事があるとき以外はアンの寝室に入ってくるな、と強く言って聞かせた。一応彼はその約束は守ったから及第点としておこう。
公爵令息と一つ屋根の下。それはもう、世の中の婦女子たちは手を叩いて感涙に咽ぶものだろうが、アンを舐めないでほしい。
こういうときは食材に怒りをぶつけよう。美味しくなーれ、と念じながらタマネギを刻もう。朝食のスープだ。
繊維に沿って薄く切ったタマネギを小鍋で炒めながら思う。
アンとて、もう二十三。世の中の御令嬢と呼ばれる社交界の花々に比べたら、アンは平民。言わば薹が立っただけのタマネギだ。綺麗な花が咲けばいいが、そうはいかないだろう。
焦がさないよう小鍋の中で忙しく木べらを動かしていると、だんだんタマネギが飴色に染まってきた。香ばしい、いい匂いが立ち昇って、アンは目を細めた。昨晩は夕食を抜いたせいか、きゅうっと腹の虫が胃に食物が入ってくるのをこれでもかと催促してくる。
水を加えて、固形コンソメを加えて、軽く煮ていく。熱々のうちにクルトンの薄切りバゲットをのせて、上からたっぷりチーズを振りかけて、オーブンでこんがり、きつね色の焦げ目がつくまで焼けば、オニオングラタンスープの完成だ。
「おはようございます、アン嬢」
よい匂いを嗅いでやってきたのか、ラウルが起きだしてきて、キッチンにまだ眠そうな顔を覗かせた。アンは顔をしかめた。別に、彼の寝巻きのシャツが第二ボタンまで開襟されていて、逞しく隆起した胸板が不本意ながら網膜に焼きついたせいではない。
「よく眠れましたか?」
「ふうん、そう見えますか、閣下?」
ラウルはごしごし、と軽く手の甲で目元をこすってから、アンの顔をじっと注視してくる。その刺すような不躾な視線に、アンの背筋が粟立つ。
「いえ……、隈がありますね」
「別にあなたのせい……とは言いませんがね。急によく知らない殿方と一つ屋根の下で眠ることになったのでね。それはもう、眠りを妨げられましたよ」
すると、ラウルがすまなそうに長身をすくめた。
「はあ、そこまでの配慮はしておりませんでした。申し訳ございません」
「あのですね。ごめんで済んだら騎士団は要りませんよね。……普通は配慮するんです! これでも私、若い女ですよ!」
「はい、すみません……」
これ以上追及するのはまずい。何がまずいかというと、不謹慎だとか、破廉恥だとか。とにかく気まずい空気になって、アンはため息をついた。
「スープ、ちょうど出来上がりました。召し上がります?」
「はい!」
──現金な男だ。
彼の掌はスープカップをすっぽり包み込んでしまえるほど大きい。身体は大木のようなのに、でも、両手でカップを持って、ふうふうと息をかけてゆっくり冷ましながら飲む姿は、まるで幼い子供のようだった。
「おいしいです、これ。タマネギの甘みがあって、チーズがとろとろに伸びて、熱々で……」
やけに素直な感想を述べるラウルを、いつの間にかじっくり観察してしまったことに気づく。いったい何をしているのだ、自分は。
「……っ、そうですか」
これはそうだ、熱いスープを飲んだせいで、頬が上気しているのだ。そう自らを納得させるため、アンはラウルから視線ごと顔を逸らした。
「それで、今日の〝お願い〟はなんですか」
そっけない話題転換で場をもたせる。
「僕と一緒にカフェでまた食事しましょう? ほら、何か手がかりが見つかるかもしれませんよ?」
「そうですね。あなたが〝お願い〟を消費して私の推理に協力してくださるのは願ってもないことです」
小声でそう呟いて、アンはスープカップで顔を隠す。なぜかこの顔を見られてはいけない気がした。
♢
アンはまたお昼時にカフェ「ミルヒクローネ」にやってきた。店前の菫の鉢植えが愛らしい。蜜を吸いに小さな蝶も舞っていて、春らしいのどかな雰囲気が微笑ましかった。
ラウルは今度こそ食事代を奢ると言ったので、アンは断らないことにした。ラウルの方からカフェに行かないかと提案した手前、当然支払ってもらおう。
「──で、アン嬢、何か気づいたことはございましたか」
「んー、今のところは見つかりませんね」
そう答えるのはまこと遺憾なのだが、事実に嘘をついても仕方あるまい。
「そうですか、それは残念」
「……っ」
ラウルのやけに挑戦的な笑みだ。きっと、アンは〝正体〟に気づかない、という鉄壁の自信があるのだろう。いったいどこからその自信は湧いてくるのか。得意げな表情がそこはかとなく煽ってくるが、アンはこの程度で冷静さを失うつもりはない。せっかくヒントが得られる好機である。
店内をぐるりと見渡してみる。ビッグバンドの瀟洒な曲を奏でるレコード。ビロード張りの木椅子。飴色の革ソファ。カウンターでふつふつと上品に沸くサイフォン。店員たちの動きも特に不審な点は見当たらない。何も変わらない、いつも通りの光景だった。
やはり、手がかりはどこにもない……ように思える。
(いや、待てよ)
しかしそれが、〝何も手がかりがないこと〟が……、何よりの手がかりなのではないかとも思えるのだ。
アンは莫迦莫迦しい問いだ、と思いながら、それでも質問したい衝動を抑えられなかった。
「〝ここは普通に経営するカフェですか〟」
「それが今日のご質問ですか」
ラウルは唇を妖しい三日月にさせる。まるでその質問をちょうど待っていたかのように。
「はい」
アンは、はっきりうなずいた。悔しいが、いかんせん手詰まりだ。他に質問することも今は見つからない。まずはここで〝普通の経営形態かどうか〟を確実にしておくべきだと判断した。
──はい。
ラウルは確かに答えた。
「カフェの経営自体は普通で、それ以外に秘密があるってことですね」
アンが念を押すように踏み込んで尋ねると。
「まあ、その確認に答えるのはサービスになってしまいますが、それも〝はい〟ですね」
つまり、この質問で何の可能性が浮上したか。
──あくまでカフェの経営を〝普通に見せかける〟必要がある。




