第2話
昨日は散々な思いをした。とんでもないやつが現れた。なんと、初対面の男が許婚だった。まあ、それは百歩譲って仕方ないとして、あのふざけた〝ゲーム〟だ。なぜ旅行中の両親が協力しているのだ。
自称・許婚ことラウル・ドロッセル公爵令息はいったい何が目的だ。〝カフェの正体〟とやらをアンに気づかせて、何がしたい。仮にアンと結婚するのが目的なら、結婚はもちろん、破談になる可能性のある〝ゲーム〟をすることで何のメリットがある。
(しかし、父さん母さんはあいつに脅されていないというけれど……)
きちんと〝質問〟で真偽を確かめたわけでもないからいかんせん怪しい。そもそもあの男はゲームが成り立たないから、と〝質問〟に正直に答えるそうだ。が、果たしてそれが本当かどうかすら、聞いているだけのこちらからは判断しようもない。
(それに、負けた)
アンは結局、初回からあの男についての質問をしてしまった。〝本当に初対面か〟と。そして彼は〝はい〟と答えた。その答えが真実なら、会ったこともない女とどうやって婚約していた? なぜ? どういう経緯で?
(正気じゃないわ)
なにゆえ、初対面の平民女を公爵令息が婚約者にするのだろう。相手は国中の女が恋する貴公子だというのに。
(父さん母さんは何を考えているのっ)
両親はおよそ何らかの事情を知っていて、それでもアンに何も話さないことを選んだ。するとどうか、まるで旅行すらラウルと二人きりにするための両親が編み出した策に思える。
(大概、この考察は合っているのでしょうね)
昼下がり、そんな由なし事ことを自宅のバルコニーでのんびり考えていた。
アンの家は、カフェのある三番通りからほど近い、小さなお屋敷だ。
父は自宅の隣にマンションを一棟持っていて、そこのオーナーをして賃貸収入を得ている。住人は王都のメインストリート近くに住めるような、裕福な人ばかり。自然と家賃も高い。
アンは父の収入の恩恵にずるずる与っている、というわけだ。平民の通える公立学院は卒業しこそすれ、二十歳を過ぎても職を決められず、朝からカフェでのんびり珈琲の一杯、といられるのは、父のおかげで間違いない。
母は専業主婦で、家庭菜園とたまの菓子作りとが趣味の至って平凡な女性である。確かに美人だが、父がハートを射止めたのはどういうわけか。あるいは母からプロポーズしたかもしれない。二人の馴れ初めを、アンはきちんと教えてもらえたことはない。
このバルコニーからは、王城がよく見える。石造りの堅牢な城壁と、壮麗な白亜の尖塔。もちろんアンは行ったこともなければ、生涯縁もゆかりもないはずだ。
風が吹いて、アンのローズ・ブロンドの前髪が一筋、額に落ちかかった。
「……あ、あいつの奥さんになったら、公爵夫人ってこと? そうすればお城に行けるのかな」
さすがに堂々と両親に協力を取りつけておいて、〝おめかけさん〟ということはないはず。そうだったら、厳格な父が、たとえ相手が公爵令息であっても殴り飛ばしているはずだから。
ふいに、ピンポーン、と玄関チャイムが鳴った。
「はーい!」
何か配達や来客の予定はあっただろうか、小首を傾げながらアンは玄関に飛び出して、そして応対したことを後悔した。
「やあ、アン嬢。会いにまいりました」
「──げ」
玄関ポーチに立っていたのは、今アンが最も会いたくなかった人物だったからである。
「なぜいらっしゃったのですか。愛と正義の偉大なる使徒にして老若男女の恋人、近衛騎士団長ドロッセル大大大閣下」
アンが欠片も思ってもいないことを言うと、ラウルはいつも周囲に振りまいているのだろう、人好きのする甘ったるい笑みを口元に貼りつけた。
「今日から僕は、アン嬢のお屋敷でお世話になります」
アンの目が極小の点になる。
「何を?」
「住居を」
ほぼ単語に単語が帰ってくる。
「はい、お帰りください」
素早く扉を閉めようとすると、あろうことか、ラウルは扉の隙間に革靴の足を挟んだ。
「……ちょっ」
公爵令息の新品同然のぴかぴか高級靴を傷つけるのはいかにもまずい。アンが反射的に扉に隙間を作ると。信じられないほどの怪力で扉がこじ開けられ、玄関の中にぬるりと入ってきた。
「帰って!」
「嫌です。これが今日の〝お願い〟ですから」
確かに彼は、飴色のこれまたいかにも高価そうな革のトランクを引っ提げている。
「あら素敵、住居不法侵入騎士団の誉れある初代閣下もご兼任なさりたいと?」
「全国の寂しい夜を過ごす女性たちが僕を待っているかもしれません」
アンは苦虫を軽く百匹ほどは噛み潰した顔になった。
「正気ですか、大閣下」
「はい。がちがちのごりごりに正気です。そして、愛と正義の使徒、というのは本当です」
「やかましいっ」
アンは、ふんと軽く鼻を鳴らす。
「あっそう。……わかりました。傷つけた靴を弁償しろ、と言われても困りますからね」
ため息をついて、どうぞ、と意志表示した。彼のココア・ブラウンの革靴には先ほどので擦り傷ができていた。
「では、お邪魔します」
礼儀正しくお辞儀する彼を、アンは思いきり睨めつけた。
「今回ばかりは質問が先です。昨日が初対面の男をもう信用しろと?」
すると、ラウルはやや怯んだ色をその整いすぎた顔に浮かべる。
「……わかりました。ご質問をどうぞ」
「では。〝両親はカフェの正体を知っていますか〟」
──はい。
「はぁん、やはりね。両親がこの件に関わっているのは嫌というほどわかりましたもの」
「あなたのご両親には頭が上がりませんよ」
「元々ね、バカ高い位置にあるのよっ」
アンは見上げるような場所にあるラウルの顔がなおさら憎たらしいと思った。
「あの!」
突としてラウルはきらきらした笑みで顔いっぱいを輝かせてこちらを見下ろした。
「お騒がせしたお詫びに、夕食は僕が手料理を振る舞いますよ。いかがです? 今から食材を買いに市場に行こうと思うのですが」
(公爵令息が買い出しと手料理をどこで学んだのかしらね)
アンは不思議に思って尋ねる。
「今日の質問権を使い果たしたのは承知の上であえてお尋ねいたしますが。ああ、これも〝カフェの正体〟とやらに関係あるというのなら無視してください。……料理は趣味ですか」
たちまち、ラウルは待ってましたと言わんばかりに得意げな顔になった。
「いえ、いいですよ、答えます──あなたに求婚するために覚えました!」
「え、わざわざ?」
「僕、覚えは早い方なので。我が公爵家の優秀なシェフに色々ご教授いただきまして」
当たり前のように自慢を言ってくる。けろりとしたその表情は、元の顔の造形がよいのでいやに清々しい。
「ふうん」
「で、お食べになります?」
アンはそっぽを向いた。まだそこまで慣れ合うつもりはない。
「いいえ、あなたが来ただけでお腹いっぱい。今日はもう食べる気にはならないです」
「そ、そうですか……」
明らかにしゅんとしたラウルを横目にして、アンはやや悪い気がしたが、気のせいは気のせいだろう。得体の知れない毒やら薬やら入っていたら目も当てられない。そのまま、〝僕たち私たち、結婚します!〟とノリで婚姻届にサインをさせられるかもしれない。そんなのお断りである。




