第9話
アンはまたラウルと共に、カフェ「ミルヒクローネ」へと来ていた。アンが自ら頼んでのことだ。むろん内装や店内の人の動きを見たところで通常営業なのだからほとんど意味がないのは承知していた。それでも何か、手がかりとなることが連想できればいい。
「わざわざ付き合ってくださりありがとうございます、閣下。今まではろくな考えもなしにここへ来ていましたが、今日こそはきちんと目的があって来ました。そろそろ謎と真剣に向き合いたいな……と思って」
言いながら、アンは自問自答する。本当に向き合いたいのは、謎に、だろうか。彼に、ではないのか。
ラウルは注文したホットピーチティーのカップに品よく口をつけて、精悍な美貌をふっと和らげた。
「では。そんなアン嬢にこれはきっと朗報ですね。──あのですねえ、ちょっといいことを思いついたのですよ、僕」
「はあ、なんです、そんなにもったいぶって」
アンは小首を傾げてラウルに話の先を促した。ラウルは三本の指を立てる。
「なんと今日はサービスの日です。今日の〝お願い〟を聞き入れてくださったら、特別に三問許可します」
「ええと、どういう風の吹き回し?」
ラウルは、はにかみがちに言う。
「いやあ、実は……旅行を計画しておりまして……」
「あら、お一人でご旅行ですか。どうぞ行ってらっしゃいませ。お気をつけて~」
アンがまともに取り合わないでいると。
「何をおっしゃっているのです。アン嬢も一緒ですよ」
「はあっ!?」
「あなたも行くんです。三問の大チャンスですよ? この機を逃したら二度とありませんよ?」
「くっ……」
ラウルは冗談を言っているようには聞こえなかった。普段軽薄なラウルに真剣さという概念が存在していること自体がある意味冗談のようなものだったが。
「ああ……、最初から両親もここまで〝協力〟しているのね」
アンはふと気づいた。新作のバナナキャラメルケーキをフォークで切り分けながら、アンは思考の淵に潜る。
(父さん母さんは、やはりわざと長期の船旅に出た。こいつと引き合わせて、私に何かを気づかせるために。こいつと結婚させるために……)
両親の意のままに動くのは業腹な部分もあったが、それでもラウルは両親が選んだ男、ということになる。
(信頼していいの?)
アンは内心で迷う。この男の好意をずっと断り続けてきたのに、今はそこまで嫌ではない自分に、戸惑っている。
アンは躊躇いを口にする代わりに、ラウルに向けてこう言った。
「両親とあなたに乗せられるようで不本意極まりないですが、仕方ないですね。……わかりました。あなたと旅行に出かけます」
ラウルはピーチティーのカップを空にしてから、またポットからおかわりを注いだ。
「本当に新婚旅行に?」
「ええ、旅行に」
ラウルは、また美しく微笑んだ。なぜか、アンは直視できず、視線をやんわりと逸らす。
「ちょろいですね、アン嬢って」
「その減らず口がすり減ることはあるのですかね」
ふふ、とラウルは小さく笑声を立てた。
「ではアン嬢、今日のご質問をどうぞ」
アンはケーキを口にした。……甘い。甘味は心を落ち着けてくれる。目の前の男とは対極に位置する概念のようである。時々、その碧い双眸を見ているだけで、心がばらばらに砕けそうになる。アンは平静を取り戻してから、やっと質問に移った。
「一つ! 〝営業時間に関係していますか〟」
──いいえ。
「二つ! 〝立地に関係していますか〟」
──はい。
「三つ! 〝客に関係していますか〟」
──はい。
「何か……わかりましたか?」
ラウルが本当に心配そうにアンを見てきたので、怒り笑いが止まらなかった。
「はは、ははははは! ……ええ、このままでは何もわからなくて、本当にあなたと結婚せざるを得ないことが! おかげさまでね!」
──どうしてだろう。
彼を見ると、こんなにも苦しいのは。
──どうしてだろう。
謎を解きたくない、と思ってしまうのは。
──どうしてだろう。
昨日の今日で、王城にいるのは。
フリルとレースとクリスタルビーズをふんだんにあしらった、星空のような豪奢すぎるドレスを着せられたアンは、ほけえ……と口から魂が抜けていた。
「なぜだあああああああ──」
アンは掌を両頬に当てて絵画のように絶叫しかける。
ここは与えられた客室だった。アンは部屋の調度品を眺めていた。
螺鈿、寄木、陶磁、彫刻、硝子、絵付、刺繍……。
おそらくはどれもこれも、ロザ王国の工芸技術の粋が凝らされた国宝級に相当する逸品ばかりなのだろう。
アンはそんな大層なものを博物館や美術館以外で目にするような人間ではないはずだ。
(ならば、どうしてそんな場所に私はいる)
──こん、こん、こん。
三回ノックの音が聞こえて、来意を伝えてきた。取り留めのない考えをそこで中断したアンは扉の方を振り向いて、「どうぞ」と返事をする。
ぎい……、と大きな両開きの扉が開けられた。
アンは部屋に入ってきた来客の顔を見て、やはり想像した通りの人物だったことに安堵した。
「閣下」
「アン嬢、一人になって少し落ち着きましたか」
アンは首を振って、まったくその通りでないことを示した。
「いいえ。緊張してばかりです。誰かさんがこんな平民には不釣り合いの場所に連れてきたせいで」
アンは、どうしてここに連れてきたのか、という視線を含ませてラウルを見つめた。
「アン嬢、事前に説明したら、あなたはここに来ることを了承なさったでしょうか」
アンはまた首を振ってみせた。
「それも、いいえ。……絶対に断りましたね」
ラウルは小さくうなずいて、その碧い視線でアンを射抜くように上から下まで観察してくる。
「お似合いですよ、そのドレス」
アンは短く笑った。声も出なかった。
「……っ、ご冗談を」
「冗談ではありませんよ。あなたはここに来るべき人ですから」
「……なぜ、そう言いきれるの」
「ご自分でお考え下さい。推理はお好きなのでしょう?」
「別に好きではありません。強制されているから、仕方なくやらざるを得ないだけです」
「おや、だいぶ顔色が戻ってきましたね。僕に愛を囁く余裕ができたようでなによりです」
「あら、申し上げていたのは悪口ですが。その耳は右から左へ通り抜けるようにできているのかしら?」
「いいえ、都合がよくできているだけですよ。すなわち、アン嬢の言葉は全て愛の告白に聞こえます。〝私と結婚して、ラウル!〟と」
「な──……ああ、もう、くどい。別にいいわ」
アンはそこで、もう皮肉を言う気も、反論する気も、両方なくした。アンはまた、光り煌めく調度品に視線をぼんやり投げかけた。
「もう一度言います。なんで、連れてきたのですか。私はこんな場違いなところ、来たくなかったのですが」
「しかし……僕は〝ゲーム〟のために、あなたをここに連れてこなくてはならなかった」
「やはり〝ゲーム〟に関係しているのですね、この〝旅行〟は」
「はい。この〝新婚旅行〟は密接に関わっていますから」
このやりとりは二回目だ。わざわざ言い直したラウルに、アンは非難の視線を送った。
「何か他に説明は?」
「ああ──、僕の母の話を聞いていただけますか」
「それが今日の〝お願い〟ですか?」
「はい」
「わかりました」
了承したアンは、ラウルの次の言葉を待った。ラウルがゆっくりと口を開いた。
「アン嬢は……〝鋼の女傑〟をご存知ですか」
「ジークリット・ドロッセル公爵閣下のことですか?」
「そうです。よく勉強なさっていますね」
「さすがに学院の教育でお名前くらいは聞き及んでおりますよ」
「彼女の……僕の母の、これは昔話です──」
こうしてラウルは、ぽつりぽつりと語った。
──二十五年前、ロザ王国に一人の王子がいた。
王子は長男で、王太子だった。
そして、王太子には父王に決められた許婚がいた。
彼女こそがジークリット・ドロッセル。当時はまだ公爵令嬢だった。
しかし、王太子は道ならぬ恋をした。
ある日、お忍びで立ち寄ったレストランの貧しい女給に一目惚れしてしまったのだ。
王太子は愚かにも、婚約者のジークリットを捨てて、女給を幸せにしてやりたい、と夢を描くようになった。
そして、王太子は父王に直訴した──
「私は自由恋愛がしたいのです!」
……と。
こんな度し難い莫迦王子に、それでも父王は甘かった。父王は息子を愛していたし、弟の第二王子も、もしものときに……、として控えていたからだ。
ついに、父王は王太子の婚約解消と新しい恋を許した。
──ただし条件付きで。
ジークリットは、この件に関して怒りを見せることはなく、ただ冷静にうなずいたのみだった。しかしその冷静さは鋭い刃となって、王に婚約解消の条件を叩きつけたのである。
「私を次期ドロッセル公爵として爵位継承を認めてくださいますよう──」
まさか約束を違えることあらば、王国の領土面積の実に三分の一を誇るドロッセル公爵領は独立を宣言する、として。
父王は新しい王太子とする第二王子の妃の地位をジークリットに約束しようとしたが、あくまでジークリットはそれを固辞した。
「私の子を必ず次代のお子様と婚姻させてください。それで構いません」
ジークリットは王籍や王権から、その身を引いてみせた。
こうして、王太子は廃嫡と王籍剥奪の二つの処分を受け、車での事故死に見せかけて市井に下った。
やはり父王は甘く、元王太子に住家となる屋敷と、賃貸収入の得られる一棟の新築マンションを与え、密やかな護衛もつけた……。
ラウルが昔話を語り終えると、アンの胸中で渦巻くものは、驚きというより、疲労感が勝っていた。
「なるほどね……、そういうことでしたのね」
頭の芯から、冷えて痺れていくようだった。
「閣下、今日の〝質問〟をしてもいいですか」
「どうぞ」
アンは息を吸って、吐き出した。
「〝私の家族は関わっていますか〟」
──はい。
そのラウルの返事が、今の話が全て事実であることを、他の何よりも雄弁に語っていた。




