08 森を抜ける
メイアさんのいた場所から、どれくらい歩いただろう。時間の感覚が、正直あいまいだ。
工作を終えて夜に出発し、朝となり、昼が過ぎて、もう夕方か。何度かの休憩をはさみながら、とにかく距離を取ることを重視した。ただひたすら、足を動かすことだけを考えていた気がする。
「本日はここで野営しよう、ひとまず距離は取れた」とハルヴァルドさんが告げる。
木の根に腰を下ろして、膝を抱える。慣れない森の移動に、足が悲鳴をあげていた。比較的歩きやすいパンプス風のスニーカーを履いているが、森の不整地は堪えるものがある。
物音がして、木々の間からシグネさんが戻ってきた。足音がほとんどしないので、急に木々の間から現れたように感じた。そういえば、いつもそうだった気がする。今になってそれに気づいた。
「アストリッド様」
シグネさんが、アストリッドさんの前に片膝をついた。
「敵主力は、撤退を始めています」
誰も、すぐには声を出さなかった。
「遺体を確認した後、捜索部隊も順次引き上げています。周辺に展開していた部隊も、同様です」
淡々とした報告だった。感情を乗せている様子はない。ただ、見てきたことを、見てきた通りに話している。
アストリッドさんが、少し目を伏せた。
「……そうですか」
私は、口の中が乾いているのに気づいた。
「成功したってことでいいんでしょうか?」
自分で言っておいて、確認する声が少し上ずった。
シグネさんが、私の方へ視線をやる。
「少なくとも、追跡を継続する動きは確認できません」
それだけだった。もう安全です、とは言わない。シグネさんはきっと、確認できたこと以上は口にしない人だ。
誰かが、長く息を吐いた。
誰だったのか、はっきりとは分からない。ただ、それをきっかけにしたみたいに、あちこちで似たような音が続いた。
壮年の騎士さんが、剣を杖代わりに地面へ座り込む。若い方の――アレスさんだったか――も、肩の傷をかばいながら、木の幹に背中を預けた。
アルヴァスさんは、いつも通りに見えて、それでも肩の力がわずかに抜けているのが分かる。
アストリッドさんは、何も言わずに、ゆっくりと目を閉じた。長い長い時間そうしていたように、私には感じられた。
誰も、声を上げなかった。
歓声も、拍手も、なかった。
ただ、疲れ切った体から、少しだけ力が抜けていく。それだけだった。
……よかった、という言葉すら、今はまだ大きすぎる気がした。
ようやく、息をしてもいいんだと分かった。そういう感じだった。
アストリッドさんの髪は、片側だけ少し短い。羽織っているローブも、見慣れないものだ。
喜んでいい場面のはずなのに、そのことが静かに胸の奥に沈んでいく。
しばらく、誰も何も言わなかった。
その沈黙を破ったのは、ハルヴァルドさんだった。
「しかし、食料が残り少ない。エストホルムまで持たないぞ」
あまりにも唐突で、一瞬、何を言われたのか分からなかった。
アルヴァスさんが、呆れたようにハルヴァルドさんを見る。
「お前は人が喜んでいると死ぬ病気か何かか」
「……まだ安心するには早いという話だ」
ハルヴァルドさんは、いたって真剣な顔で言った。冗談を言っているつもりは、まったくないようだ。
そのやり取りに騎士や側仕えの人たちも、フッと息を漏らす。
私も、つい苦笑いになる。うん、そうだ。まだ安心はできない。
喜んでいる場合ではない、か。
よしじゃあ、次はそれを考えよう。
エストホルムまであと十三日くらい。人数は十二人と私。
どのくらい食料があればいいんだ?成人一人あたりが必要なエネルギー量はたしか……
「……一日に二千キロカロリーは必要だったか……」
「なんだ、そのきろかろりーというのは?」とアルヴァスさんが質問をはさむ。
誰もピンときていない顔だ。
「……すみません。今のは忘れてください」
慌てて止める。今の数字に、何の意味もない。
私は、頭の中を切り替えた。
「今ある食料を、一度全部確認しませんか」
「森を抜けるまで、あと何日かかりますか」
「一日に、全員でどれくらい食べる必要がありますか」
「途中で、補充できそうな場所はありますか」
答えたのは、ハルヴァルドさんとシグネさんだった。持ってきている携行食の残量。街道に出るまでの、おおよその日数。途中にある、食べられそうな木の実や川筋の心当たり。アルヴァスさんも、ここら一帯の地理には多少覚えがあるらしく、いくつか場所の名前を挙げた。
私にできるのは、状況を可視化するくらいのことだ。何日分あって、何日分足りなくて、その差をどこで埋められそうか。
それだけのことに、そう時間はかからなかった。
「……大丈夫そうですね。ぎりぎり、ですけど」
「ま……まあ、ぎりぎりで十分だろう」
ハルヴァルドさんが頷く。それ以上、何も言わなかった。
「ほかに何か問題ありそうですか?」
「む……」とハルヴァルドさんが考え込む。
「側仕えたちの体力が持つかどうか……?」なぜか後半は疑問形だった。
次は体力問題か。荷物の配分を変えるか?
そのあと、ハルヴァルドさんが「もう十分だ」というまで、挙げてきた問題に対する議論を続けた。よくいろいろなことに気づく人だ。おかげでだいぶリスクは減らせたように思う。
やりとりの最中、なぜかずっとアルヴァスさんがにやにやしていた。
夜がもう少し更けてから、アストリッドさんが私の隣に腰を下ろした。
「少し、話してもいいでしょうか」
「はい」
薄暗い木々の中で、アストリッドさんの横顔を見る。統治者としての、あの張り詰めた表情ではなかった。もっと、ただの――若い女の人の顔に見えた。
「改めて、謝罪を」
アストリッドさんは、まっすぐに私を見た。
「わたくしたちの都合で、あなたをこの世界へ呼び寄せてしまいました。そしてこの危険な逃走にあなたを巻き込んだ。あなたには、何の関わりもないことだったのに」
「……」
「本当に、申し訳なく思っています」
私は、何と答えればいいのか分からなかった。勝手に巻き込まれた、という感覚は正直ある。「そんなこといいですよ」という気には、申し訳ないけれど、なれなかった。
でもアストリッドさんやアルヴァスさんを恨む気にもならない。たぶん、彼らの覚悟や必死さを目の当たりにしたからだろう。どうしようもなく追い込まれて、結果として、戦うことも魔術も使えない私が呼び出されてしまったのだ。
なんでもっと強い人とか、特殊な技能がある人が呼ばれなかったのだろう。
強いて言えば、彼らと私をマッチングさせた神様だか仏様だかに文句の一つは言ってやりたい。
「元の世界へお帰しする方法があるとは、今の時点では約束できません」
アストリッドさんは、そこで一度、言葉を選ぶように間を置いた。
「エストホルムまでたどり着ければ、召喚や古代魔術について調べられる可能性はあります。ですが、それが答えに繋がる保証は、どこにもありません」
アストリッドさんの表情は真剣そのものだ。きっと、誠実に言える範囲で言えることをちゃんと考えてくれたんだろう。
「まずは、わたくしたちと一緒に来ていただけないでしょうか」
「……はい」
私は、そう答えた。
日本。家族。仕事。
押し込めていたものを思い起こすと胸がつまりそうになる。
考えても仕方ない。今はどうしようもない。あとで……そうエストホルムに着いたら、ちゃんと考えよう。
アストリッドさんは続けた。
「あなたには、とても助けていただきましたね。本当に感謝しています」
「……私は何もしていません。結局、訳が分からなくて質問してただけですから」
いや、ほんとに。
まあ少しだけ結論に早くたどり着けた部分はあるかもしれないが、遠からず似たような結論を出していたのではなかろうか。私は訳も分からず右往左往してただけだ。
「ふふ……それでも、助かりました」
「はぁ……」
それから、数日が過ぎた。
敵の影はない。
シグネさんが定期的に周囲を探っても、追ってくる気配は感じられないという。ガーランド軍の主力は、本当に戻ってこなかった。
食料は、思っていたよりうまく回った。途中、アルヴァスさんが見つけた食べられる木の実や、シグネさんが見つけた小さな水場のおかげで、何とか予定通りに保てている。
アレスさんの肩の傷も、日を追うごとに動きがなめらかになっていった。
「もう平気です」と本人は言うけれど、アレスさんの荷物はハルヴァルドさんが持つことになっている。ハルヴァルドさんと私が決めた荷物配分は完璧なのだ。
誰の顔にも、疲労はまだ色濃く残っている。それでも、明らかに空気が違う。
これまでは、常に何かに追われている感覚があった。それが、少しずつ薄れていく。
ついに野営で火を焚くようにもなった。熱源があれば、温かい食事もできるし、暖も取れる。
今まで気にしている余裕もなかったが、そういえば過ごしやすい気候だ。たぶん日本と湿度が違うのだろう。日差しはあっても昼間は暑すぎない。日が落ちると少し肌寒さを感じる程度だ。これまではローブをかけていれば十分過ごせた。それでも火があると落ち着く。
夜、火を囲んでいるとき、アルヴァスさんがハルヴァルドさんをからかい、ハルヴァルドさんが仏頂面のまま短く言い返す。そんなやり取りが、定番のようだ。ほかの人たちも少しずつ会話が増えてきた。
肩に傷を負った若い騎士……アレスさんはハルヴァルドさんに憧れているのだそうだ。
一緒に戦っていた壮年の騎士はロルフさんというらしい。アレスさんに修行が足りない、と小言を言っていた。
側仕えの人たちはメイアさんとの思い出を少し教えてくれた。困っているとそっと助けてくれるような、優しい人だったらしい。
そしてある日、木々の密度が、明らかに薄くなり始めた。
差し込む光の量が増える。葉の隙間から見える空が、これまでよりずっと広い。
前方に、開けた土地が見えた。
ついに森を抜けたのだ。
そこは、すこし小高い丘になっていて遠くのほうまで見渡すことができた。
ここから先はなだらかな丘陵地帯になっているようだ。ところどころ小さな森や盛り上がった丘が見える。多くの部分は草原のようになっていて、風が波のように波紋を作り出していた。
石造りの街道らしきものも、ずっと遠くまで伸びている。
穏やかな風がほほをなでた。草の香りが混じっているのを感じる。
エストホルムまでは、まだしばらくかかるらしい。
それでも――。
この森を、追撃を、抜けたのだ。
その感覚だけは、はっきりとあった。
助かった。
そう思ってよいのだと、ようやく実感できた。




