09 鉄壁
風が、草の匂いを運んでくる。
森を抜けてから、まだそれほど時間は経っていない。それでも、常に追われているような緊張感はだいぶ薄れてきた。
見渡す限りの丘陵地帯。ところどころに小さな森や盛り上がった丘があって、大部分はゆるやかな草原になっている。石造りの街道が、遠くまで一本、白く伸びていた。
知らない鳥が、頭上を横切っていく。知らない花が、風に揺れている。遠くに、畑らしきものと、小さな煙が見えた。誰かが、そこで暮らしている。
今までは、そんなことに目を向ける余裕すらなかった。
「このあたりまで来れば、街道の整備もされている」
アルヴァスさんが、歩きながら言った。
「魔物の討伐も、定期的に行われているはずだ」
「魔物、ですか」
気になることはいくらでもあるのだが、一つ一つにつっこんでいたらキリがない。そう思って、今までこの世界について質問しなかった。
しかし、魔物、というのは……なんというか聞き捨てならない物騒な単語だ。
「……すみません。その……魔物って何ですか?」
アルヴァスさんが、少し意外そうな顔をする。
「魔物というのはだな、マナの濃い環境に適応して、生態そのものが変質した生物のことだ。体内に生成される魔石の肥大化に伴って魔力経路が……」
「待ってください。マナ?魔力って……?」
「……そこから知らんのか」
アルヴァスさんが、心底呆れたような声を出した。
知らない単語の説明に、知らない単語を増やさないでほしい。
「マナというのは、風であり火でもあり、水、土でもある。万物のちからを、より純粋な形にしたちからの一形態だ。百五十年前にマクロ構造における魔力循環の考察という革新的な論文が発表されたのだ。その論文によればな、このマナというのは実は非常に不安定な状態であることを示している。植物や動物、人間の持つ魔力が実はマナが固着した状態で、これは数十年単位で循環構造にあることが」「なるほど。自然の中にあるちからがマナ。人が扱うマナが魔力ですね」「お……おう……」
細かい理論はともかく、イメージとしては分からないでもない。つまり川と飲み水みたいなものだ。
「異世界には、魔物がいないのですね」
アストリッドさんが、少し興味深そうに言った。
「はい。少なくとも、私の知る限りでは」
魔物がいる、魔力もある。ファンタジーだなぁ。
どんな世界なんだろう。どんな文化があるんだろう。
森の中にいたときは、そんな余裕はなかった。異世界というものそのものが、ただ怖かった。今もまだ怖くないわけじゃないけど、それとは別に、少しだけ――知りたい、という気持ちが混じっている。
道の先に石造りの二、三階建ての塔のようなものが見えてきた。全体が崩れかかっており、屋根も一部崩落している。塔から壁が伸びていたようだが、それもほぼ崩れかかっていて痕跡を残すのみだ。
「あれは昔の防御陣の名残っすねー。昔はここらが魔物との戦いの最前線だったんです」
アレスさんが説明してくれた。
「しっかりした作りですね……」
「今はこの辺には強い魔物いないから安心していいですよ」
アレスさんが、何気ない口調で言った。
「このまま行けば、明日には」
言い終わる前だった。
足元の地面に、ほのかに光が走った。
次の瞬間、目の前に――何もなかったはずの場所に、土と石の壁が、身の丈ほどの高さまで盛り上がる。
「なっ――」
声が、途中で切れる。
一瞬で、隊列が分断された。アストリッドさんとハルヴァルドさんが、こちら側。アルヴァスさんとシグネさん、アレスさん、壮年の騎士――ロルフさん、そして側仕えの皆さんは、壁の向こう側だ。
何が起きたのか、理解が追いつかない。
「敵襲!!」
ハルヴァルドさんの声と同時に空気を裂くような音とともに、大きな赤い火の塊がこちらへ向かって飛んでくる。
体が竦む。動けない。
ハルヴァルドさんは即座に反応した。アストリッドさんと私の前に身体を滑り込ませて盾を構える。
「ガルディガ!」
ハルヴァルドさんが構えた盾の外側。不可視の壁を炎が滑るよう流れる。
ハルヴァルドさんの手前で線を引いたように炎が止まる。
熱の余波が頬を叩いたが、それだけだった。ハルヴァルドさんは、そこに立ったまま、微動だにしていない。
「殿下、お下がりを」
短い声。
アストリッドさんと、その側を離れないハルヴァルドさんを、ほかの仲間から分断したのだろう。私はただ巻き込まれただけだ。……狙いはアストリッドさんだ。
塔の影、壁の瓦礫の裏に動く影が見える。
一人、二人……全部で、何人いるのか、すぐには数えられなかった。
装備の質が違う。今までの斥候とは違う。統率された動きだった。
誰かが、短く指示を飛ばしている。声は聞き取れない。それでも、全員が迷いなく動いているのが分かった。
いつのまにか土煙があたりを漂い始めた。さらに状況が分かりにくくなる。
「アルヴァス!」
壁の向こうから、シグネさんの声。
「囲まれています、数は――」
声が途切れる。
何かが起きている。でも、壁に遮られて、見えない。
私はただ、アストリッドさんの隣で、体を丸めているだけが精一杯だ。
炎が、また来る。今度は二方向から。先ほどよりは小さい。
ハルヴァルドさんの盾が、片方を弾く。もう片方は、身をかがめて避けた。避けながら、こちらへ向かって踏み込んでくる誰かの足を、大剣の腹で薙いだ。
呻き声のようなものが、短く上がる。
しかし、斬られた男は、手と片足を使って器用に距離をとり、また土煙の向こうへと姿を消す。
なんだこの土煙……、ずっともうもうと立ち上がっている。
土煙、炎、瓦礫の影……翻弄するような素早い動きで何がどうなっているのか、状況が分からない。
ただ、分かることは一つだけあった。
ハルヴァルドさんは何一つ攻撃を通さない。
方々から飛んでくる炎や、時折混じる剣や槍の攻撃をことごとく跳ね除けている。敵もきっと強いのだろう。三人か四人か……入れ替わり立ち替わり切れ間なく攻撃を繋げて、ハルヴァルドさんの防御を破ろうとしているのだろう。
それでもアストリッドさんと私の前に立ち、一歩も退かない。
舞踏、という言葉が、頭の中に浮かんだ。誰かと戦っているというより、決まった動きをなぞっているみたいだった。盾で受け、剣で払い、半歩動いて、また盾で受ける。
ハルヴァルドさんの防御も、すべてが繋がっていて、途切れる瞬間がない。
しかも、力任せに全部を受け止めているわけじゃない。
位置を、少しずつ、動かしている。
誰かがこちらへ踏み込もうとするたびに、その進む先に、別の何かが――ハルヴァルドさんの盾が、剣が、体そのものが、先回りするようにそこにある。
少しずつ攻撃の圧が減っているのを感じる。
土煙の向こうで倒れたまま動かない影もあるようだ。
速い、とか、強い、とか、そういう言葉では足りない気がした。
ハルヴァルドさんが立ち回る側とは違う方面。たまたま私の視界の中で長い槍を持った男が、まっすぐこちらへ向かってくるのが見えた。
他の敵とは、動きの質が違う感じがする。迷いがない。
「ハ……ハルヴァルドさん!こっち!」
言い終わる前に目の前にハルヴァルドさんの盾が差し込まれた。たぶん、私が声を上げなくてもちゃんと分かっていたのだ。
ハルヴァルドさんの盾で槍が受け流される。でも相手も予期していたのか、態勢を崩すことなく、次の攻撃に移る。
金属同士の、重い音。
一合、二合。槍の穂先が、盾を、剣を、何度も掠める。
三合目。その間隙にふいに男が手を掲げる。
「ルメン・スパラ」
刹那、手から強い光が放たれる。
目くらまし!?
私は一瞬、視界を失った。
金属音だけが聞こえる。
視界が戻った時、男はすでにハルヴァルドの懐にいた。
手には短剣が握られている。
そこへハルヴァルドさんが器用に盾を滑り込ませ、男の腕をかちあげた。ハルヴァルドさんの剣が、そのまま横へ薙いだ。
鈍い音が響く。
男が崩れ落ちる。
男の手からは、短剣が落ちた。
……あれ、槍は?
あれだけ長いものだ。捨てたなら、すぐそこにあるはずなのに。
別方向から影が走った。
最初に足を薙がれた男が、いつのまにか槍を受け取り、アストリッドさんに迫っていた。
ハルヴァルドさんは剣を振り抜いた直後だ。
ハルヴァルドさんの身体が死角になっている。背中側を突き抜けるように、槍が伸びる。アストリッドさんの首元へ一直線に。
やばい!!という思考だけが走った。
バギンッ
金属の砕ける鈍い音が響いた。
ハルヴァルドさんの振り下ろした大剣が、槍の穂先を砕いた。
ハルヴァルドさんは剣を振り抜いた、そのままの勢いで身体を捻り、槍を迎撃したのだ。
返す勢いで、大剣が振り上げられた。
何かが倒れる音。
それから、静けさが来た。
どれくらい、そうしていたのか。
気づいたら、腰が抜けたように地面に座り込んでいた。立とうとしても、足に力が入らない。
「……終わり、ましたか」
アストリッドさんの声は普段と変わらないように聞こえた。
ハルヴァルドさんは、剣を構えたまま、ゆっくりと周囲を見回している。すぐには構えを解かなかった。もう一度、もう一度。何度も、確かめるように。
壁の向こうから、アルヴァスさんとアレスさん、ロルフさんが、砂埃にまみれた姿で現れる。誰も、大きな怪我はしていないようだった。
シグネさんが、倒れた敵たちを一人ずつ確認していく。
「……全員、動きません」
その声で、ようやく、ハルヴァルドさんの構えが解けた。
「……やはり、あのような策だけでは不十分だったか」
ハルヴァルドさんが、誰にともなく呟いた。
どこかで私も、作戦がうまく行った、と思って気を抜いていた。ハルヴァルドさんはずっと警戒していたのか……。
「負け惜しみ言いやがって」
アルヴァスさんが、埃を払いながら笑う。
「百人が六人になったんだ。上出来じゃないか」
「……お前の策でもないだろう」
ハルヴァルドさんは、つまらなさそうに言い返した。
「エンリケか。ガーランド国でも名うての戦士だ」
ハルヴァルドさんが敵を検分する。
「知り合いですか」
「……外交の場面で一度だけ、な」
ハルヴァルドさんが、短く答えた。それ以上は、何も言わなかった。
アストリッドさんが、私の隣に膝をついた。
「大丈夫ですか」
「……はい、なんとか」
嘘だ。まだ足が震えている。
それから、しばらくの間、何も起きなかった。
本当に、何も。
ただ、もう気が抜けた雰囲気にはなれない。まだ追撃があるかもしれない、という懸念がつきまとった。
街道に出てからは、これまでとは違う景色が続いた。
整備された石畳。小さな橋。畑で作業をする人たちの姿。荷車を引く商人らしき一団。井戸端で何か話し込んでいる女の人たち。走り回る子どもたち。
誰も、私たちのことを気にする様子はない。
魔術や魔物のいる世界でも、人はこんなふうに、普通に暮らしているんだ。
当たり前のことのはずなのに、そのことが、妙に胸に残った。
三日後。
遠くに、立派な城壁が見えてきた。
「見えました!」
誰かが、声を上げる。
「あれが……?」
私は、目を細めて、その輪郭を見つめた。
「ええ」
アストリッドさんが、静かに頷いた。
「エストホルムです」
一行に、明確な安堵が広がる。
誰かが、長く息を吐いた。
私も、同じように息を吐いていた。
ようやく、終わった。
……いや、何も終わってない。
どうやって帰るのか、何に巻き込まれているのか、ここがどんな世界なのか……むしろ、これから始まるのかもしれない。
でも、とりあえず生きてここまできた。
今はそれで十分だろう。




