01 壁の内側
近づくにつれて、城壁が白いのだと分かった。
遠くから見たときは灰色の線にしか見えなかったそれが、傾きかけた陽を受けて、淡い橙色に染まっている。石を積んだ壁というより、なだらかな丘の上に、白い帯をひとつながりに巻きつけたみたいだった。
街の向こう側には、水面が地平まで続いていた。
「……海、ですか?」
「湖ですよ」
隣を歩いていたアストリッドさんが教えてくれた。
「エストホルムは王国内でも主要な交易拠点の一つです。東から来る荷物は、湖を通ってここに集まってくるんですよ。そして東に行く荷もエストホルムを通っていきます」
「へぇ……」
湖の対岸は霞んでいて見えない。水面の端から端まで目で追おうとして、途中で諦めた。
道が、だんだん賑やかになってきた。
城門まではまだ距離があるのに、道の両脇にはもう家が並んでいる。屋根の低い倉庫のような建物、軒先に布を張っただけの露店、洗濯物のはためく二階の窓。壁の外側に、もう一つ街があるみたいだった。
夕方なのに、人が多い。
いや、夕方だから、なのかもしれない。仕事を終えて帰る人と、これから街に入ろうとする人とが、同じ道でごちゃごちゃに混ざっている。
すぐ横を、荷車が追い抜いていった。
牽いているのは、馬ではなかった。
鳥だ。……鳥、だと思う。
首が長く、脚が太く、背丈は私の倍近くある。ダチョウを誰かが冗談で引き伸ばしたような生き物が、ぐるる、と喉の奥で低く鳴きながら、樽を山積みにした荷台を平気な顔で引いていく。
思わず目で追ってしまった。周りの人も当然、といった感じで鳥を避けていく。
避けて歩く人混みの中で、ぴょこん、と何かが揺れた。
耳だ。
頭の上から、長い耳が二本。茶色い毛に覆われていて、先のほうだけ少し白い。籠を抱えた女の人が、隣の誰かと笑いながら話している。その笑い声に合わせて、耳が片方だけ、くるりと向きを変えた。
見すぎた、と思って視線を外す。
外した先で、別の誰かと目が合った。その人の目は、私の顔ではなく、私の服を見ていた。
そうか。向こうからすれば、私のほうがよほど変な格好なのだ。紺色のジャケットは一か月分の泥と汗で色が変わり、パンツの裾はほつれている。このあたりの人が着ているものとは、形からして違う。
ジャケットの前を、意味もなく掻き合わせた。
ふいに、美味しそうな匂いに足が止まりかける。
道端の露店で、背の低い男の人が大鍋をかき回している。背丈は私の胸くらいまでしかないのに、横幅はたぶん私の倍あって、袖をまくった腕は私の脚より太い。編み込んだ髭の先を、鍋に入らないよう肩の後ろへ放り上げている。
鍋の中身は分からない。肉と、何かの根菜と、香草。湯気の向こうで、子どもが二人、木の椀を差し出して順番を待っている。
お腹が鳴った。
恥ずかしい、と思うより先に、自分のお腹がまだそういう音を出すことに、少し驚いた。
一か月も過ごしているといろいろと慣れてくる。夜の煮炊きは火の魔術、ちょっとした手洗いには水の魔術、といった具合だ。夜の空には二つの月が浮かんでいるし、遠くの山には縮尺の合わない鳥が戯れていた。ある程度は慣れる。慣れた、と思っていた。
でも、これまで見てきた異世界は、ずっと、こちらを殺しに来るものだった。暗い木々の間。知らない獣の声。飛んできたのは火の塊。いきなり地面から生えてくる壁。
今、ここにある異世界は、晩ご飯の支度をしていた。
城門は、近くで見ると思っていたよりずっと大きかった。
白い壁に、黒ずんだ木と鉄の扉。その脇に、門番とは明らかに違う一団が立っていた。
二日前に、シグネさんが先に人を走らせていた、と聞いていた。たぶん、あの人たちが迎えだ。
真ん中に立っていたのは、背筋のまっすぐな、年配の男の人だった。深い青の外套。白いものの混じった髪をきちんと撫でつけていて、目元が、どこかアストリッドさんに似ている。
その人が、一歩前に出た。
「アストリッド――」
名前を呼びかけて、言い直す。
「……殿下。よくぞ、ご無事で」
声が、少しだけ掠れていた。泣きそうな顔で微笑んでいる。
男の人はアストリッドさんの両手を取り、それから、その視線が一瞬だけ、彼女の髪の先で止まった。
出会ったとき、アストリッドさんの髪は腰まであった。今は背中のあたりで切り揃えられている。森で、偽装のために切ったのだ。たぶん、この人の知っているアストリッドさんの髪は、もっと長い。
男の人は、そのことについて何も聞かなかった。ただ、手を握る力が少し強くなったのが、横から見ていても分かった。
「よく……ご無事に、ここまで」
「皆のおかげです、叔父上」
アストリッドさんは、いつもと同じ柔らかい声で言った。
叔父上。
この人が、エストホルムの領主。アストリッドさんの叔父さん。
森の中で何度も聞いた「エストホルムまで行けば」という言葉の、その先にいた人だ。
「紹介しておきましょう。事務長のベルンハルトと、守備隊長のグンナルです。滞在の手配は、この二人に任せてあります」
領主さんの後ろで、痩せた中年の男の人が軽く頭を下げた。手には書付けのような板を持っていて、頭を上げるとすぐ、その目が私たち一行の上を順に滑っていった。人数を数えている。それから、すっとシグネさんのほうへ寄って、小声で何か確認を始めた。
もう一人は、大きかった。ハルヴァルドさんと並んでも見劣りしない体格に、使い込まれた鎧。顎の髭には白いものが混じっている。その人の視線は、私たちではなく、私たちが歩いてきた道のほうへ一度向けられて、それから、ハルヴァルドさんで止まった。
ハルヴァルドさんも、その人を見ていた。
二人は言葉を交わさず、互いに小さく顎を引いた。
知り合いなのだろうか。
そんなことを考えていたら、領主さんと目が合った。
正確には、領主さんの目が、私の上で止まった。顔から、ジャケットへ。ジャケットから、すっかり汚れた革靴へ。
「見かけぬ顔ですな」
責めるような口調ではなかった。単純に、不思議そうだった。
それはそうだと思う。王女の一行に、どう見ても騎士でも側仕えでもない、妙な服の女が一人混じっているのだから。
何と名乗ればいいのか迷っているうちに、アストリッドさんが半歩、私の前に出た。
「道中で、助力していただいた旅の方です」
異世界、という言葉は出なかった。
「……彼女は私の大切な客人です。くれぐれも失礼のないようにお迎えいただけますか」
領主さんは、一瞬だけ私とアストリッドさんを見比べ、すぐに表情を緩めた。
「これは失礼を。殿下の客人とあらば、我が家の客人も同然。エストホルム領主、エドヴァルドと申す。ゆるりと休まれるがよい」
「か、神林……トーコです。お世話になります」
反射的に、深く頭を下げていた。
顔を上げると、エドヴァルドさんがほんの少しだけ目を瞬かせていた。たぶん、この世界の挨拶はこうではないのだろう。でも彼はそれについても何も言わず、小さく頷いただけだった。
大切な客人。
一か月、一緒に歩いて、一緒に怯えて、一緒に固いパンをかじっていただけだ。どうも居心地が悪いなぁ……。
「叔父上、急ぎお伝えしなければならないことが――」
アストリッドさんが言いかけたところで、エドヴァルドさんが片手を上げた。
「殿下。それは明日にしましょう」
「ですが、国家に関わる……!」
「ご自分のお顔をご覧になりましたか」
穏やかな声だった。でも、退く気配はなかった。
「そのお顔で話を伺っても、私の方が身が入りませぬ。正式な話は、明日にいたしましょう」
それから、私たち全員のほうへ向き直る。
「皆も、まずは湯と食事を。部屋は用意させてある。今夜はただ、休まれよ」
アストリッドさんは少しの間黙っていたが、やがて、小さく息を吐いて笑った。
「……では、お言葉に甘えます」
その笑い方を見て、ああ、この人も疲れていたんだ、と思った。当たり前のことなのに、なぜか今まで、ちゃんと考えたことがなかった。
領主館までは、馬車だった。
クッションの効いた座席に腰を下ろした瞬間、身体がそのまま沈んでいきそうになって、慌てて背筋を伸ばす。
窓の外を、街が流れていく。ポツポツと店先や家の中にあかりが灯る。
領主館は大きかった。玄関ホールで、メイドさんのような格好の若い女性に
「こちらです」と招かれた。
皆と離れるようだ。一瞬不安になったが、アストリッドさんが目を合わせて微笑んだ。「大丈夫、ここは安心だ」と言ってくれたようだ。
大きな玄関ホールを通り抜けて長い廊下を進む。天井は高く、広く窓がとられている。柱や廊下は古びているが、老朽化、というよりは重厚な歴史を感じさせる。
「こちらをお使いくださいませ」
案内してくれた女性が、扉を開けた。
部屋は、私が住んでいたワンルームよりも広かった。
奥に寝台。その脇に、小さな卓と椅子が二脚。暖炉にはもう火が入っていて、部屋全体がほんのりと温かい。壁には織物が掛かっていて、床には厚い敷物が敷いてある。
それから、隣の小部屋から、湯気が漏れていた。
「湯をご用意しております。お手伝いいたしましょうか」
「えっ。あ、いえ、だ、大丈夫です。自分でできます」
メイドさんは少し困ったような顔をしたが、それ以上は勧めず、「では、お召し替えはこちらに」と畳んだ布を寝台の上に置いて、一礼して出ていった。
扉が閉まる。
小部屋を覗くと、木の大きな湯桶に、たっぷりとお湯が張られていた。
お湯だ。
沢の水でも、鍋で沸かした少量のお湯でもなくて、身体が全部入るだけの、お湯。
ジャケットを脱ごうとして、袖が腕に貼りついているのに気づいた。汗と泥で、生地が固くなっている。苦労して脱いで、それをどこに置けばいいのか分からなくなった。
こんなに汚れたもの、この部屋のどこに置いても場違いだ。いっそ捨ててしまっても――と一瞬思って、やめた。
これしかないのだ。私が向こうから持ってこられたものは。
椅子の背に、なるべく丁寧に畳んで掛けた。ブラウスもパンツも、その上に重ねる。
片足を湯に入れた途端、爪先がじんと痺れた。
熱い、と思ったのは最初だけだった。脛に、腕に、いつのまにか作っていた小さな擦り傷がいくつもあって、そこが一斉にしみる。顔をしかめながら、ゆっくり肩まで沈む。
お湯の色が、みるみる変わっていく。
……ごめんなさい、と誰にともなく思った。
汚れと一緒に、身体から何かが少しずつ抜けていく。抜けていくのが分かって、そこで初めて、ずっとそこに力が入っていたのだと気づいた。首の後ろ。肩甲骨の間。奥歯。
奥歯を、噛みしめていたらしい。いつからだろう。
考えるのが面倒になって、目を閉じた。
気づくと、お湯がぬるくなりかけていた。眠っていたのかもしれない。慌てて上がる。
置いてあった布は厚手で、柔らかくて、顔を埋めると日向のような匂いがした。
寝台の上の着替えは、ゆったりした長袖の寝間着だった。袖が少し長くて、手の甲まで隠れる。生成りの布が、肌の上でさらさらと音を立てる。
寝台に腰を下ろすと、身体が沈んだ。
柔らかい。
沈んで、それきり戻ってこない。背中から倒れ込みそうになるのを、なんとかこらえた。ここで横になったら、たぶん朝まで起きない。
扉が叩かれた。
さっきのメイドさんが、盆を持って入ってくる。卓の上に並べられたのは、湯気の立つスープの椀と、丸いパンが二つ、それから水差し。
「何かございましたら、廊下の端に控えておりますので」
「ありがとうございます」
今度はちゃんと言えた。メイドさんは一礼して、扉を閉めた。
足音が遠ざかって、聞こえなくなる。
部屋が、静かになった。
暖炉の火が小さく爆ぜる音だけがする。誰も見張りに立っていない。誰も、遠くの物音に耳を澄ませていない。私も、澄ませていない。
卓につく。
スープには、細かく刻んだ野菜と、ほぐした肉が入っていた。匙ですくって、口に運ぶ。
温かい。
塩気が舌の上で広がって、そのあとから、野菜の甘さがゆっくり来る。煮込まれた根菜は、歯を立てる前に崩れた。
「……おいしい」
声に出していた。
パンを手に取る。白い。軽い。指で押すと、押した分だけ沈んで、ゆっくり戻ってくる。
ちぎると、何の抵抗もなく割れた。
森で食べていたパンは、固くて、水やスープに浸さないと歯が立たなかった。それすら、最後の何日かは数えながら食べていた。
口に入れる。柔らかい。噛まなくても、いいくらいだ。
もう一口、スープを飲む。
喉を通って、胸のあたりが内側から温まっていく。
ああ。
私、生きてる。
生き残ったんだ。
匙が、指から滑った。
椀の縁に当たって、硬い音がする。拾おうとして、手が震えていることに気づいた。
あれ、と思った。
次の瞬間、喉の奥が詰まった。
息を吸おうとしたのに、うまく入ってこない。ひくっ、と変な音が鳴って、目の前の椀の表面に、ぽたりと何かが落ちた。
溢れ出したら、止まらなかった。
手の甲で目を押さえる。押さえても、指の間から溢れてくる。
電車の窓に映っていた、疲れた自分の顔。
目を開けたら、見知らぬ世界、見知らぬ人々。
焦げた匂い。切られた髪。地面に残した、あの人。
喉から、声が出た。自分の声だと思えないような、ひしゃげた声だった。慌てて口を押さえる。廊下の端に、さっきの人がいる。聞こえてしまう。
押さえた掌の内側で、声は勝手に続いた。
噴水のように上がった血しぶき。
土煙の向こうから伸びてくる槍。
地面に座り込んだまま、どうやっても立てなかった足。
お母さんの電話番号。
思い出せない。いつもスマホが覚えていたから。そのスマホも、もうない。
椅子から滑り落ちるようにして、寝台の縁に額を押しつけた。敷布を握る。握った手に、力が入りすぎて痛い。
怖かった。
不安だった。
悲しかった。
帰りたかった、かえりたい!
なんでこんなところにいるの!?
こんな世界で!こんな場所で!怖いことばかり!!
私がなにをした?
お父さんに会いたい、お母さんに会いたい!
わたしは……
かえりたいよ……!
◇
ハルヴァルドが客間の並ぶ廊下へ足を向けたのは、殿下の部屋の前をロルフに任せた後だった。
館の中は静かだった。エストホルムの守備兵が要所に立ち、廊下の燭台にはまだ火が残っている。久しく見なかった光景だ。壁があり、交代の兵がいて、夜を誰か一人が背負わずに済む。
それでも、身体の芯はまだ張っていた。一か月の間、眠るときですら剣を手の届く場所から離さなかった。一晩で抜けるものではない。
トーコ殿の部屋は、廊下の奥だと聞いていた。
話しておきたいことがあった。
――今後も、殿下のために力を貸してもらえないか。
それを、改めて頼むつもりでいた。言葉はあらかじめ決めてある。回りくどい言い方は得意ではない。言うべきことを、言うべき相手に、まっすぐ言えばいい。
あの魔法陣の上に彼女が現れたとき、正直に言えば、落胆した。
救国の英雄を呼ぶ。アルヴァスはそう言い、殿下はそれに賭けた。光の中から現れるのは、伝承に謳われるような、剣か魔術か、何かしら抜きん出た力を携えた者だと思っていた。
現れたのは、剣を握ったこともなく、魔術の一つも知らず、見慣れぬ服を着た痩せた女だった。
殿下が呼んだ者である以上、粗略には扱わない。だが、なぜこの者が、とは思った。
その女が、戦況を変えた、と思う。
まだよく理解できないが、彼女が来てから確かに流れが変わった。
敵勢を抜けるか、一縷の望みをかけて逃げるか、そのくらいしか打つ手がなかったのだ。しかし、気づけば彼女が言い出したことを軸に話が進んでいた。
剣でなく、別のものを携えて来る英雄も、いるのかもしれない。
異界から来る者とは、そういうものなのかもしれない。
そう考えるようになっていた。それならば、殿下の今後のためにも、その力は――
扉の前で、ハルヴァルドは足を止めた。
低い、押し殺した声がした。
最初、彼はそれを呻き声だと思った。右手が、反射的に剣の柄へ伸びかける。
伸びかけて、止まった。
違う。
あれは、泣いている声だ。
声を殺そうとして、殺しきれずに漏れてくる音。息を吸い損ねては、喉の奥で引きつれる音。
泣いているのか……。
ハルヴァルドは、そのことに少し驚いている自分に気づいた。
冷静な女だと思っていた。突然の出来事だったと思うが、すぐに議論に参加したのだ。胆力のある策略家かなにかと思っていた。
扉の向こうにいる女は、普通の、どこにでもいる娘だったのではないか。
自分の世界で暮らしていたところを、こちらが呼んだ。殿下が決め、アルヴァスが陣を補い、自分はその傍らに立っていた。止めなかった。止めるべき理由があるとも思わなかった。
あの街道での襲撃のことを思い出す。
戦いが終わった後、彼女は地面に座り込んだまま、しばらく立てずにいた。視界の端でそれを見て、自分は、戦えぬ者なら無理もない、とだけ判じた。それ以上のことは考えなかった。考える必要があるとも思わなかった。
扉の向こうで、また一段と声が大きくなった。
恐れを知らぬ英雄なのではない。戦に慣れた者でもない。
恐れていたのだ。ずっと。
ハルヴァルドは、扉を叩こうと持ち上げかけていた手を、ゆっくりと下ろした。
泣いている者に掛けるべき言葉を、彼は知らない。
知っているのは、泣いている間、誰も踏み込ませないことだけだった。
ハルヴァルドは静かに踵を返した。
廊下の端に、燭台を持った使用人の女が控えていた。こちらに気づき、慌てて頭を下げる。
「あの部屋の客人は、ひどくお疲れだ」
ハルヴァルドは言った。
「朝まで、呼ばれぬ限り、誰も入らぬように」
「か、かしこまりました」
使用人は何も聞かなかった。それでいい。
廊下を戻りながら、用意していた言葉のことを考えた。
力を貸してほしい。
それを頼むのは、明日でいい。
ハルヴァルドはそのまま廊下を戻った。




