02 それぞれの仕事
食卓が、長い。
端から端まで、たぶん十人以上は座れる。磨かれた木の天板に、白い布が細長く敷かれていて、その一番端の一席にだけ、朝食が並んでいる。
私の席だ。
焼いた卵。薄く切った燻製肉。昨日と同じ白いパン。湯気の立つ、何かの乳を温めたもの。小さな器に、赤い果物を煮詰めたようなもの。
どれもおいしい。おいしいのだけれど。
壁際に、使用人の人が三人立っている。
何をするでもなく、ただ立っている。私が食べているのを、見ているわけではない。見ていないふうに、でもこちらの気配だけは確実に拾える位置に、きちんと立っている。
目が、まだ少し腫れぼったい。朝起きて、水盆の冷たい水で何度か顔を洗ったけれど、瞼の重さは取れなかった。眠れたのかどうかもよく分からない。気づいたら窓の外が明るくなっていて、身体がやけに重かった。
それでも、地面の上で目を覚ますよりは、比べものにならないくらい楽だった。背中が痛くない。寒くない。起きた瞬間に、周りの音を確かめなくていい。
焼いた卵を口に運ぼうとフォークで持ち上げるも、思ったより柔らかな卵で、スルッと皿の上に落としてしまった。
「あ」
「御用でしょうか」
壁際の一人が、すっと一歩前に出た。
「え!?いえ。大丈夫です。すみません」
一歩戻る。
乳を温めたものを飲もうとして、器に触る。思ったより熱かった。
「ぁち」
「失礼しました。冷たいものをお持ちいたしましょうか」
「だ、だ、大丈夫です!ありがとうございます」
また一歩戻る。
居心地が悪い……っ!
声をあげるたびに、誰かの仕事を発生させている。
高級なホテルに泊まったことくらいはある。出張で、クライアントの手配したところに一度だけ。あのときもフロントの人は丁寧だったし、レストランの給仕の人は完璧だった。
でも、あの人たちは私だけのために立っていたわけじゃない。
ここの人たちは、明らかに、私一人のためにここにいる。私が食べ終わるまで、たぶんずっと。
慎重に卵を口に入れる。もしむせたりでもしたら、今度は医者でも呼ばれかねない。
細心の注意を払って咀嚼していると、自分が何をしているのか分からなくなってくる。
昨日まで、朝ご飯というのは、固いパンを割って、配られた分を数えて、歩きながら噛むものだった。
それが今は、音を立てずに卵を食べることに全神経を使っている。
生きているから贅沢な悩みだ、とは思う。思うけれど、落ち着かない。何もしないで座っていていい、ということに、身体のほうが慣れていない。
そもそも今日、私は何をすればいいんだろう。
誰も、それを教えてくれない。たぶん、何もしなくていいのだ。客人だから。
それが一番落ち着かなかった。
扉が開いた。
入ってきたのは、シグネさんだった。
昨日までの旅装ではなく、侍女らしい落ち着いた色の服を着て、髪をきっちりまとめている。それだけで、ずいぶん印象が違う。でも、あの少し眠そうな目つきは同じだった。
シグネさんは壁際の使用人さんたちに軽く会釈して、私の横まで来た。
「殿下がお呼びです。朝食がお済みになりましたら――」
「すぐ行きましょう!」
立ち上がっていた。
椅子が、思ったより大きな音を立てた。壁際の三人が、そろって一歩前に出かけた。
シグネさんは、ほんの少しだけ間を置いた。
「……まだ、食後のデザートとお茶が出てきますよ」
「大丈夫です。もう、お腹いっぱいなので」
本当だった。気持ち的な意味で、だが。
シグネさんはそれ以上何も言わず、「こちらへ」と踵を返した。その横顔が、ほんのわずか、呆れたように見えたのは、たぶん気のせいではないと思う。
廊下を歩きながら、少しだけ気分が明るくなった。
行き先がある。呼ばれている。それだけで、さっきまでの宙ぶらりんな感じが薄れていく。我ながら単純だ。
会議室は、館の奥にあった。
扉が開くと、中にはもう人が揃っていた。
部屋の真ん中に大きな卓があって、両側に人が分かれて座っている。片側には、見知った顔。アルヴァスさん、ハルヴァルドさん、ロルフさん、アレスさん。反対側には、昨日城門で迎えてくれたエドヴァルドさん。その隣に、痩せた事務長のベルンハルトさん。少し離れて、大きな身体の守備隊長、グンナルさん。ベルンハルトさんの前には、もう書類が何枚も積まれていた。
そして、上座には。
「よく休むことができましたか?」
アストリッドさんが、微笑んでいた。
一瞬、返事が遅れた。
髪が、整えられている。背中のあたりで切り揃えられていた髪は、丁寧に梳かれて、ところどころ編み込まれ、細い飾りで留められていた。昨日まで土埃でくすんでいた色が、窓からの光を受けてつややかに見える。
服も違う。深い色の、身体にきちんと合った衣装。派手ではないのに、一目で上等なものだと分かる。顔にはうっすら化粧が施されていて、頬の血色がいい。
そして何より、座り方が違った。
背筋が伸びている。それは森の中でも同じだったはずなのに、今は、この部屋で一番高い位置に座っていることが、少しも不自然に見えない。
私、昨日までこの人と森を歩いてたのか……?
同じ鍋の、同じ量のスープを分けて。ぬかるみで足を取られて、二人で泥だらけになって。夜は、焚き火のそばで寒さに震えながら、ぽつぽつ話をして。
その人が今、王女の顔をして、そこに座っている。後光さえ見えそうだ。
「あらあら、美しい私に見惚れてしまいましたか?」
え。
「でもダメですよ。私、王女ですから、そう簡単には口説けません」
とウィンクをする。
反応に困る。この人は時々こういうことを言うのだ。ほら、ベルンハルトさんびっくりしてるでしょ。スルーするといいですよ、と教えてあげたい。
「……おかげさまでよく眠れました……」
アストリッドさんの目が、一瞬だけ私の瞼のあたりで止まった気がした。でも、何も言わなかった。
「それはよかった。ささ、どうぞ、こちらへ」
示された席は、アストリッドさん側の端だった。腰を下ろすと、向かいのアレスさんがこっそり目で笑いかけてきて、隣のロルフさんに肘で小突かれていた。
「ははは。姪によく気に入られているようです。改めて、昨日は名乗るばかりで失礼をした」
エドヴァルドさんが言った。昨日と同じ、穏やかな声だった。
「殿下からも、道中の話を少しばかり伺いました。随分と助けられたようですな」
「いえ、あの、そんな大したことは……」
反射的に首を振る。
本当に、大したことはしていないのだ。分からないことを聞いて、聞いたことを並べ直しただけで。実際に動いたのは、ほかの人たちだった。
「なかなかのお知恵をお持ちだと、伺いました」
エドヴァルドさんは、私の謙遜を社交辞令として受け取ったようだった。目尻に、柔らかい皺が寄る。
「それならば、ぜひ我々も、そのお知恵を拝借したいものだ。殿下を助けた方とあらば、これからの相談にも――」
「いえ」
アストリッドさんだった。
大きな声ではなかった。でも、その一言で、エドヴァルドさんの言葉がきれいに止まった。
「叔父上のお気持ちはありがたく思います。ですが、トーコにはもう、十分に助けていただきました」
アストリッドさんは、エドヴァルドさんではなく、私のほうを見ていた。
「私は別に、何か、お手伝いできることがあれば――」
言いかけて、自分でも何を言おうとしているのか、よく分からなくなった。
お手伝いできること。何を? 戦争の?
アストリッドさんは、首を小さく横に振った。
「あなたは、帰らなければならないでしょう」
静かな声だった。
森で一度、同じ話をした。勝手に呼んでしまったこと。帰す方法があるとは約束できないこと。あのときのアストリッドさんは、何度も言葉を選んでいた。
今は、選んでいなかった。もう決めている人の声だった。
「まずは、帰る方法を探しましょう。そちらを、あなたの一番の仕事にしてください」
何か言い返そうとして、何も出てこなかった。
帰りたい。それは本当だ。昨日の夜、嫌というほど分かった。
でも、いいのだろうか……。
これからアストリッドさんやハルヴァルドさんは、きっと大変な仕事に取り組むのだろう。そんな中、私だけ……。
「これより先は、軍議となる」
ハルヴァルドさんが言った。
「王都の情勢。ガーランド軍の動き。各地に残る王国勢力の状況。それから、行方の知れぬ王子殿下方のこと」
短く、事務的に並べていく。
「戦の話だ」
それで、十分だった。
王子殿下方。アストリッドさんのお兄さんたち。行方が分からない、ということを、私は今初めて、はっきりと聞いた気がする。
戦争のこと、政治のこと。私には分からないことばかりだ。
「アルヴァス」
アストリッドさんが呼んだ。
「……トーコを帰す方法について、調べていただけますか」
「もちろんだ」
即答だった。
アルヴァスさんは、椅子の背にもたれたまま、にやりと笑った。
「俺も、聞きたいことが山ほどある」
嫌な予感がした。
とても、嫌な予感がした。
アストリッドさんが、ちらりとシグネさんを見た。
シグネさんは、それだけで何かを察したらしかった。
「私も同席します」
「では、トーコ殿。また後ほど」
エドヴァルドさんが、軽く頭を下げた。気を悪くした様子はまったくなかった。
「出過ぎたことを申しましたな。殿下のお客人には、まずはゆるりとしていただかねば」
私も慌てて頭を下げて、立ち上がった。
扉が、背後で閉まる。
閉まる直前、ベルンハルトさんの「では、最初に王都の現状から」という声と、書類をめくる音が聞こえた。
廊下に出ると、急に静かになった。
アルヴァスさんが先を歩き、私がその後ろを、シグネさんが少し遅れてついてくる。
振り返らずに、階段を上った。
アルヴァスさんの部屋は、館のずいぶん高いところにあった。
扉を開けた瞬間、光が目に入った。
正面に、大きな窓。その向こうに、エストホルムの街が広がっている。白い城壁の内側に、赤茶色の屋根が重なり合って、その先に、湖。朝の光を受けて、水面が一面に細かく光っている。小さな船が何艘も、その上を行き来しているのが見えた。
昨日、城壁の外から見上げた街を、今は上から見下ろしている。
いい部屋だ、と思った。たぶん、もともとは上等な客間か、書斎だったのだろう。壁には立派な書棚があって、窓際には重そうな机が置いてある。
ただし。
その机の上が、紙で埋まっていた。
机だけではない。床にも、椅子の上にも、寝台の端にも、紙が散らばっている。びっしりと文字が書き込まれたもの。円や線が幾重にも重なった図形を写したもの。古びて黄ばんだ冊子が、開いたまま何冊も伏せてある。インク壺が二つ。そのうち一つは空になっていた。
昨日着いたばかりのはずだ。
部屋を与えられてから、まだ一晩しか経っていないはずだ。
「……いつ寝たんですか、アルヴァスさん」
「寝た?」
アルヴァスさんは、心底不思議そうな顔をした。
「昨夜は、灯りが消えていませんでした」
後ろから、シグネさんが淡々と言った。
「朝まで」
「考えることが多かったんだ」
アルヴァスさんは悪びれた様子もなく、机の上の紙をざっと寄せて、空いた場所に椅子を一つ引いた。
「座れ。そこだ」
座る。
アルヴァスさんは向かいに腰を下ろし、紙の束を手元に引き寄せた。一番上の一枚に、細かい文字が縦にずらりと並んでいる。
嫌な予感は確信に変わる。
あれは、聞くことのリストだろうな……一体何行あるんだ。
「やはりまずは向こう側の状況か……いや、術式の条件との照合が先か……?」
アルヴァスさんは紙を眺めて、なにやらぶつぶつと言っている。
まあ帰るのに協力してくれるようだから、私も付き合う気ではいる。
でも、その前に。最初に聞いておきたい。
「あの、アルヴァスさん」
「なんだ」
アルヴァスさんは手元から顔を上げずにぶっきらぼうに返事をする。
「始める前に、一つ、聞いてもいいですか」
ふいに顔を上げた。アルヴァスさんの関心を得たようだ。
「ほう?なんだ?」
「帰る方法って……分かっているんですか?」
アルヴァスさんは、紙の束を置いた。
そして、あっさりと言った。
「分からん」
なんとなく皆の口ぶり的にそんな気はしていた。
していたけれど、胸の奥で、何かが小さく沈んだ。
「分からんから、調べるんだろう」
アルヴァスさんは、当たり前のことを言う顔で続けた。
「お前を向こうへ戻したい。つまり、もう一度、世界を渡らせたい。そのためには、まず、お前がこっちへ来たときに何が起きたのかを知らなきゃ話にならん。何も分からんまま陣を描いて、お前をどこかへ放り出すわけにはいかんだろ」
「……どこかへ、放り出す?」
「戻る先が、お前の元いた場所とは限らん、という意味だ」
さらりと、怖いことを言う。
「だから、まず情報が要る。古文書も、陣の記録も、俺の頭の中にあるものも使う。だが、一番の情報源は――」
アルヴァスさんの指が、まっすぐ私を指した。
「お前だ」
帰れるとは言われなかった。
帰れないとも、言われなかった。
分からない。だから調べる。
それだけだった。
それだけのことが、不思議と、一番信用できる気がした。
「お茶をどうぞ」
気づくと、シグネさんが私の前に湯気の立つ器を置いていた。
いつの間に用意したのか、まったく分からなかった。
「ありがとうございます」
「長くなるので」
淡々と言われた。
シグネさんにも、これは長いやつだと分かっているらしい。
「では、始めようか」
アルヴァスさんが、ペンにインクをつけた。
私はお茶を一口飲んで、それから、なんとなく窓の外へ目をやった。
湖の上を、船が行き来している。岸辺の倉庫の前で、荷を積んだ車がゆっくりと動き出す。屋根の連なりの間の通りを、豆粒みたいな人たちが、それぞれの方向へ歩いていく。昨日、城門の外で見た、あの晩ご飯の支度をしていた街の、朝の顔だ。
昨日の朝まで、私は森の中を逃げていた。
帰れるかどうかは、まだ分からない。
でも、少なくとも、ここは逃げるための場所ではなかった。
帰るために、何かを始められる場所だった。
「おい、聞いてるか」
「あ、はい。すみません」
向き直ると、アルヴァスさんがペンを片手に妙に楽しそうな顔をしている。
聞くことリストの一番上の行にチェックを入れたようだ。
「まずはだな……」
私は小さく息を吐いて、お茶の器を両手で包んだ。
温かかった。
「……どうぞ」




