05 王女の決断
メイアさんの身体が、傾いだ。
支えていた若い騎士が、慌てて肩を抱き直す。
「メイア!」
アストリッドさんが真っ先に動いた。腰を浮かせるどころじゃない、もう地面を蹴っていた。駆け寄って、崩れかけるメイアさんの身体を受け止める。
「傷を見せろ」
アルヴァスさんの声が、いつもよりずっと硬い。
ハルヴァルドさんはすでに周囲へ視線を走らせている。剣の柄に手がかかっているのが見えた。敵、という言葉が頭の中で赤く点滅する。
私は、動けなかった。
いや、動いてはいたと思う。でも、何をどう動けばいいのか分からないまま、ただその場に立っていた。血の匂い。誰かの荒い呼吸。地面に広がっていく黒っぽい染み。
「触るな、俺がやる」
アルヴァスさんがメイアさんの脇に膝をつく。手のひらを傷口の上にかざして、聞き取れない言葉を短く口にした。
その手のひらの下から、淡い光が漏れた。熱のようなものも、少し離れた私のところまで届く。空気そのものが震えるような感覚があった。
「……深い」
アルヴァスさんが、短く言った。たぶん、いいことじゃないのは分かる。
「……魔力を、残して……ください」
メイアさんの声だった。かすれて、途切れ途切れで。
「追手が……まだ、近くに……」
「喋るな」
アストリッドさんが、メイアさんの手を握った。両手で、包み込むように。
「メイア、大丈夫ですから。喋らなくていいのですよ」
その声は、いつものアストリッドさんの声じゃなかった。王女様の声でもなかった。もっと近い距離の、誰かに向けた声だった。
私はその光景を、見ているだけしかできなかった。
「アストリッド、様……」
メイアさんが、薄く目を開けて、アストリッドさんを見た。まるで記憶に焼き付けるように、残る力を振り絞るように。
「……メイア」
その呼びかけに、返事はなかった。
「……ありがとう。ほんとうに、ごめんなさい」
メイアさんは……気を失ったのだろうか……
誰も、何も言わなかった。
しばらくの間、誰も。
風が森の木々を揺らす音だけが聞こえる。
「殿下」
最初に沈黙を破ったのは、ハルヴァルドさんだった。
「水場の方角から来たということは、もうそう遠くない場所に斥候がいます。すぐに動くべきです」
その声には、いつもの硬さの上に、もう一段強い緊張が乗っていた。
「……そうですね」アストリッドさんの顔は見えない。
メイアさんは安静にしたほうがいいはずだ。逃げるといっても動けるのだろうか。
「しかし、逃げて、その先は?」
「殿下。あなただけでも生き残らなければ」
ハルヴァルドさんも本意ではないのだろう。それでも、きっと彼は言わなければいけないのだ。
騎士、というものがどういうものか詳しく知らないが、それが彼の役割なのだろう。
「私がやります。敵中に切り込めば、多少は足止めできるでしょう」
ハルヴァルドさんが即座に言った。
「だから、殿下だけでも先にお行きください。私が時間を稼ぎます」
「阿呆が。迂回されればそれまでだ」とアルヴァスさんが返す。これまでのようなからかうような雰囲気はない。
「俺が、広域魔術で敵を足止めしてやろう。お前は殿下を守ればいい」
「単独行動の魔術師など、捕捉されてそこまでだ。私が切り込んだほうが足止めできる」
ハルヴァルドさんが剣に手をかけた。
「いっそ二人でいくか。少しはマシになるだろ」アルヴァスさんが不敵に笑みを浮かべる。
「駄目です」
アストリッドさんは、そこにいる全員を見据えるように顔を上げた。
「そんなことに、さほどの意味がないことはあなた方も理解しているでしょう?」
ハルヴァルドさんが、何か言い返そうとして、言葉を止めた。アルヴァスさんは肩をすくめる。
「先ほどの話を、続けましょう」
アストリッドさんが言った。
「死んだことにする。あの案です」
「しかし、王女殿下に似せられる遺体など――」
ハルヴァルドさんが言いかけて、何かに気づいて止まった。
アストリッドさんは、メイアさんを見ていた。その表情は、愛おしそうにも、悲しそうにも見えた。
「……ここに、いるではありませんか」
え……?
言葉の意味が、頭の中で像を結ぶまでに、少し時間がかかった。
いやだって、メイアさんはまだ生きて……?
「アストリッド」
アルヴァスさんが、低い声で言った。
「本気か」
「本気です」
アストリッドさんの声は静かで、でも有無を言わさない強さがこもっているようだ。
「メイアもそれを望んでいるなどとは言いません。本人に代わって、都合のいいことを言うつもりはありません」
ようやく、理解が追いついてきた。息が詰まる。胸が苦しくなる。
「だから、私が決めます」
まさか、そんな。メイアさんはもう……。さっきまで生きていた人が……。
「これは、私の責任で行います」
その言葉に、揺らぎはない。
……この人は。
本当に、王女様なんだ。
「髪も、衣服も用意できます」
アストリッドさんが、静かに続けた。
「似た背格好の遺体も、あります」
そして、私の方を見た。別に睨まれたわけではないのに、怖いと思ってしまった。
「あとは、何が必要ですか?」




