01 コンサルタントの異世界転移
最初に気づいたのは、揺れがないことだった。
電車は揺れる。座っていればおしりの下に振動がある。立っていればつり革が微かに動く。その揺れが、ない。
(寝過ごした……!)
久しぶりにやっちゃったか……と、反射的にそう思った。終電で寝過ごして、車庫かどこかに連れていかれたパターン。過去に三回くらいやってる。さっきも、電車の座席に座った瞬間に意識が落ちた気がする。だから多分、これは。
目を開けた。
視界が白く飛んで、それから輪郭がゆっくり戻ってくる。天井――のはずの場所に、天井がない。木の枝が重なって、その隙間から夕暮れの空が見えている。
空……、外……?
頬に土の感触があった。湿っていて、冷たくて、草の匂いと、もっと奥に、古い石のような匂いが混じっている。
私は自分が地面に横たわっていることに、そこでようやく気づいた。
(は?)
声にならない声が、頭の中でだけ響いた。
体を起こそうとして、手のひらが土をつかんだ。爪の間に泥が入る感触がして、それが妙に生々しくて、ようやく「これは夢じゃないかもしれない」という考えが差し込んでくる。夢じゃないならなんだ?
撮影? いや、こんな場所で何を撮るんだ。イベント? いやいや、いくらなんでも土に直接寝かせる企画なんてない。
馬鹿げた考えが、順番に浮かんでは消えていく。どれも違う気がするのに、それでも一つずつ検討してしまう自分がいた。
スマホ、と思って、反射的にジャケットのポケットに手を伸ばす。
ない。
いや――待って、ポケットの位置は合っている。ジャケットは着ている。会社帰りのままの格好だ。ブラウスも、パンツスーツも変わっていない。でも中身がない。スマホも、社員証も、財布も。噓でしょ。
頭の芯がひやりとした。
その冷たさに引っ張られるように、体が震え始めた。寒いからではない。もっと違う種類の震えだった。
顔を上げると、視界の端に人影が入った。
一人や二人ではない。十人以上いる。
鎧を着た人。ローブのようなものを着た人。誰の服装も、私の知っている服装ではない。中世ヨーロッパの絵で見たような、そういう格好の人たちが、私を囲むようにして立っている。遠くには荷物が詰まれた木製の荷車も見えた。
「――はは!うまくいったぞ」
声がした。
聞いたことのない響きと抑揚の言葉だ。でも、なぜか、その声の意味が、頭の中で勝手に日本語になって届いた。
なんで……なんで分かるんだろう、この人の言葉が。知らない響きのはずなのに。おかしい。おかしいけど――
いや、待って、それより
今考えることはそれじゃない。多分。いや、本当にそうだろうか。今考えるべきことがどれなのかすら、分からない。
まてまてまて。情報が多すぎる。
地面が土。周りに知らない人たち。知らない服。知らない言葉なのに分かる言葉。スマホがない。
どれか一つずつなら、まだ受け止められたかもしれない。でも全部が同時に来ている。頭の中で処理待ちの案件が積み上がっていくみたいに、次から次へと未処理のまま並んでいく。
「成功だ、また論文を書かないといかんな」
さっきの声。今度は満足そうな響きが混じっている。
声の主を、ようやく視界がとらえた。灰色がかった髪の、痩せた中年の男性だった。刺繍の凝ったローブを着こんでいて、腰元や背にはたくさんの道具や紙を携帯している。目つきが鋭くて、何かを観察するような視線を私に向ける。
この人が喋ってる。未知の言語を。けど、意味が分かる。どうしてだ。
「……まさか本当に成功するとはな。アルヴァス、疑って済まなかった」
別の声。今度は男性の、もっと硬い声だった。
振り返ると、大柄な男の人がいた。全身に鎧を着こんでいて、腰には剣らしきものも見える。表情が険しくて、眉間に深い皺が寄っている。
その男性が、灰髪の男性に向かって、頭こそ下げていないものの、明らかに謝る態度を見せている。
「俺が失敗するわけないだろう?」
灰髪の男はさも当然、といった感じで返した。
なんだこの状況は。そうだ、今何時だ……明日の朝、私が出社しなかったら、報告会どうするんだ?マネージャーはそこは任せたって。それに……明後日は同期との飲み会……。
明日のことを考えた瞬間、喉の奥が締まった。泣きたいわけじゃないのに、涙腺の裏がじわりと熱くなる。
駄目、今は。
自分にそう言い聞かせたところで、なぜか涙があふれそうになる。頬を一筋、生温かいものが伝う感触があった。
止めようとして、止まらない。震えも止まらない。両手を握りしめても、指先の震えは消えなかった。
膝を立てようとした。うまく力が入らなかった。
「お加減はいかがですか」
柔らかい声が、すぐ近くでした。
顔を上げると、若い女性がしゃがみこんで私を覗き込んでいた。
プラチナブロンドの長く美しい髪。顔は整いすぎていて、最初は精巧な人形のように見えた。けれど彼女が心配そうに眉を寄せている表情は、とても人間らしかった。
「……あ」
声が掠れた。何か言おうとしたのに、言葉が出てこない。
「大丈夫です。ゆっくりで構いません」
彼女はそう言うと、私が落ち着くのを、急かさずに待ってくれた。
その静かな態度に、少しだけ呼吸が整った。完全にではない。震えも涙も残ったままだった。それでも、声を出せるくらいには。
「……すみません、私……」
「謝らないでください。突然のことで、混乱されていて当然です」
彼女は私の目線に合わせるように、もう少し姿勢を低くした。
「まず、私が誰かをお伝えします。私はアストリッド。アレクサンドリア王国の王女です」
おうじょ。
王女と言った?言葉は分かる。意味も分かる。でも理解が追いついていない。
「あなたは今、私たちの持つ、古い術によってこの地へ呼ばれました。何が起きたのか、これから順を追ってご説明します」
「……ここ、は」
声が震えた。
「日本、じゃない、ですよね」
「日本、というのが、あなたの故郷の名前でしょうか」
「……はい」
「申し訳ありませんが、聞いたことのない名前です」
その一言が、何か決定的なものとして胸に落ちてきた。
聞いたことがない。この人にとって、日本という場所自体が存在しない。
――異世界。
まだ何も確定していないのに、その言葉だけが先に浮かんだ。
「お名前を伺っても?」
アストリッドさんの声が、静かに続く。
「……神林、透子です。透子が名前です」
「トーコ、ですね。トーコさんとお呼びしても?」
頷く。そうだ、私は透子だ。
名前を呼ばれて、少しだけ現実感が戻ってきた気がした。
人に名前を呼ばれる、というだけのことが、こんなに人を落ち着かせるとは思わなかった。
少しだけ余裕が戻ってきた。ようやく周りを見ることができた。
私は石造りのステージのような場所に座り込んでいた。何か古い遺跡のようだが、ところどころ崩れ落ちている。そして私の周りには幾何学模様と、見知らぬ文字が複雑に書き込まれた模様が刻み込まれている。魔法陣、というやつだろうか。
十三人ほどの一行が私を囲んでいた。半分ほどは、鎧を着こんでおり剣を携えている。もう半分は、ローブを羽織っていて分かりづらいが、鎧などは着てなさそうだ。誰も彼も、ファンタジー映画から出てきたような、昔のヨーロッパを彷彿とさせるような格好だ。
誰の顔も疲れている。鎧や服には泥や汚れがこびりついていて、何日も同じ格好で移動してきたことが窺える。
そして、誰も私を見て安堵していない。
むしろ、失望に近い空気があった。
「トーコ。単刀直入に聞く」
さっきの大柄な男性が口を開いた。
「戦えるのか」
突き放すような声ではなかった。ただ、確認そのものが目的、という響きだった。
「え、と……」
頭の中がまた散らかる。何を聞かれているのかは分かる。分かるのに、答えを組み立てる余裕がない。
「剣は?」
「……使えません」
「……戦闘の経験は」
「ない、です」
「では、魔術は」
「ま……まじゅつ?ですか?」
男性の眉間の皺が、さらに深くなった。
「……なにか特殊な技能は」
「えっ」
急に聞かれても、うまく言葉が出てこない。頭の中を必死に探る。
「えー……本読むの早いくらいですかね……」
沈黙が落ちた。
先ほどの痩せた中年の男性が代わって声をかける。
「あー何をしていた?仕事というか、生業は?」
「……コンサルタント、なんです、が……」
誰の顔にも、その単語への理解の色がなかった。
「……何だそれは」と大柄な男性が明らかに困惑した表情を浮かべる。
「ですよね」
「こんさるたんと。どういう仕事だ?」
馬鹿にしている口調ではなく、純粋に知らない単語として発音しただけ、という響きだった。
「経営とか、事業とかの、相談に乗る仕事、です」
言っても分からないだろうな……と言ってから思った。ほかにどう説明すればいいものか。
「おい、アルヴァス。戦えない人間を一人増やしただけではないのか?」
大柄な男性が、アルヴァスと呼ばれる灰髪の男性を睨む。
「ハルヴァルド」
アストリッドさんが静かに口を挟む。
「彼女に非はありません」
「分かっています」
ハルヴァルドと呼ばれた男性は、それ以上言わずに口を閉じ、腕を組んだ。感情を無理に抑えている、という顔だった。
一方で、アルヴァスさんは違う反応をしていた。
「コンサルタント、ね」
興味深そうに私を見下ろしている。値踏みするというより、未知のものを観察するような目だった。
「どんな相談に乗るんだ?」
いやもう、うまく説明できる気がしない。文明レベルだか文化だか、全く違う気がする。
「え、あの……一つの目的に向けて多数で取り組む組織を相手に、それをどう円滑に進めるか……みたいな感じですかね……?」
「ほう……組織、か」
それだけ言うと、アルヴァスは顎に手を当てて考え込んだ。何を考えているのかは、私には分からない。
膝の上で、私はまだ震えている自分の手を見ていた。
帰りたい
考えないようにしていたはずなのに、また浮かんだ。
お父さん、お母さん、心配するだろうな。明日、いや、もう明日の朝かも?レビューあったのに。マネージャー、私が来なかったら、どう思う――
あんな大都会にいたはずなのに。周囲はうっそうとした森だ。一体ここはどこなのだろう。
高い木がまっすぐと伸びている。日本の、下草の生い茂るような森とは何かが違う気がする。そういうことに気が付くと、より一層心細くなってくる。
木々の間から差し込む夕焼けが、長い長い影を作っている。もうすぐ夜になるのだ。
考えれば考えるほど、喉の奥が締まっていく。またパニックになっていく自分が分かる。
止めようとした。けれど、一度走り始めた思考は簡単には止まってくれない。
「最後の手段でも状況は変わらなかった……やはり、夜陰に乗じて抜けるしかあるまい」
ふいに、ハルヴァルドさんの声が耳に入った。
私にではなく、アストリッドさんとアルヴァスさんに向けた声だった。
「あの多勢を相手にか。冗談は顔だけにしておけ」
アルヴァスさんが即座に返す。うんざりした口調だった。
「だから私が留まると言っている。殿を務めればあるいは」
「それは既に認めないと言っています」
アストリッドさんの声は柔らかいままだったが、芯には迷いがなかった。
三人のやり取りを、私は半分ぼんやりと聞いていた。頭の中では、まだ日本のこと、家族のこと、スマホがないこと。考えることが順番待ちしている。それでも、耳だけは会話を拾っていた。
こんな会話を今まで何度かしているのだろう、今初めて出てきた話じゃない気がする。
言葉の端々に、擦り切れた感じがある。同じ提案、同じ反論、同じ拒絶。何度も繰り返してきた摩耗の跡のようなものが、声の疲れ方に滲んでいた。
この人たちは、何かにずっと詰まっている。
その事実だけは、震える頭の中でも、輪郭を持ち始めていた。
膝の上に置いた自分の手を、私はもう一度握りしめた。爪が手のひらに食い込む感触があった。痛い。痛いということは、これは夢じゃない、という確認のようにも思えた。
今、泣いても、仕方、ないだろ
自分にそう言い聞かせた。声には出さなかった。頭の中だけで、一度だけ、強くそう思った。
けれど、それで涙が止まったわけではなかった。震えも消えなかった。ただ、その言葉を思い浮かべたことで、ほんの少しだけ、次の言葉を探す余地ができた気がした。
喉の奥に、何か塊のようなものが残ったまま、私は口を開いた。
「……すみません」
声はまだ震えていた。
全員の視線が、もう一度私に集まった。
「まず……今、どういう状況なのか、教えてもらってもいいですか」
それだけ言うのに、思ったよりずっと時間がかかった気がした。




