00 深夜のオフィス
広く、近代的なオフィスは、がらんとしていた。
オフィスに残っているのは、たぶんもう私のほかには二、三人くらいだ。
フロアの照明は半分近く落とされていて、隣の島のモニターも真っ暗になっている。私がキーボードを叩く音がやけに響く。
画面には、明日の午前に報告予定の資料が開いている。市場規模の推移と、競合の動きを並べたスライド。数字はもう固まっているのに、キーメッセージには黄色いボックスがでかでかと表示されている。マネージャーからの修正指示だ。
ここ、もう三回目の直しだな……
ちなみに何ページも似たようにコメントが入っている。一年目の頃なら、この量の修正に半日以上かかっていた気がする。今は、集中していれば一時間半で終わる。終わる、というか、終わらせられるようになった。
自分でも、成長したという実感はある。任される範囲は明らかに広がった。去年は先輩の後ろについて議事録を取るだけだったミーティングに、今は一人で出ることもある。クライアントから直接名前で呼ばれることも増えた。
チームの役には立っている。多分。
それでも、たまにふっと浮かぶ感覚がある。
なにか違うような、なにか忘れているような。
カーソルの点滅を眺めながら、少しだけ手を止めた。
「まだいたのか」
声に振り返ると、先輩が上着を片手に立っていた。帰り支度は済んでいて、これから本当に帰るところらしい。
「あ、お疲れさまです。もうちょっとだけ」
「見せて」
断る理由もないので、画面を先輩の方へ向ける。数秒、視線が滑るように上から下へ動いた。
「ここ」
指した先は、市場が縮小している理由を説明している段落だった。
「事実と推測が混じってる。分けといた方がいい」
「あ……はい」
言われてみれば、確かにそうだった。実際に公表されている数字と、それを踏まえてこちらが「多分こうだろう」と考えた部分が、同じ文体でつながってしまっている。読む側からすれば、どこまでが裏の取れた話で、どこからが仮説なのか、区別がつかない。
「すみません、直します」
「うん」
それだけ言って、先輩はもう視線をパソコンから外していた。頑張れとも、遅くまで大変だなとも言わない。ただの事実確認として渡された指摘で、こちらもただの事実確認として受け取る。それくらいの温度感の会話だった。
「お先に」
「お疲れさまです」
オフィスのドアが閉まる音を聞きながら、私はもう資料の修正に取り掛かる。
もうすぐ日付が変わる。
明日の午前にはさっきのレビュー、午後にはクライアントとの定例が入っている。定例の準備は半分くらいしか終わっていない。今日中にやりきるつもりだったけれど、多分無理だ。明日の朝、少し早く来て片付けよう。
逆算すると、あまり余裕はない。それでも、去年の今頃を思えば、今日はまだいい方だった。あの頃は毎日こんな感じで、しかも今日ほどうまく終わらせられなかった。
できるようになったことは、確かにある。
資料の型も、大体分かる。クライアントの温度感も、以前より読めるようになった。先輩からの一言も、今なら余計な説明がなくても意図を汲める。
それなのに。
「……コンサルタントには、なれたのかな」
声に出してから、自分の口から出た言葉に少し戸惑った。誰に聞かせるつもりもない、独り言。
何が引っかかっているのか、自分でもうまく説明できない。考えても、今すぐ答えが出るものではなさそうだった。
答えがでないものは、考えないに限る。考えるべきものだけを考える。これもコンサルタントになって学んだ思考習慣の一つだ。
パソコンをスリープさせて、荷物をまとめる。
オフィスを出ると、涼しい風が火照った頭を冷やしてくれた。人通りはほとんどない。オフィス街特有の、静かすぎる夜の空気。混じるのは、枯葉と銀杏の香りが入り混じった秋のにおい。
駅までの道を歩きながら、頭の中では半分くらい明日の予定を組み立てていた。
改札を抜けて、ホームに滑り込んできた電車に乗る。この時間でも座席にはちらほらと乗客がいる。みんな大変なんだろうな。窓際の席に腰を下ろした瞬間、体の力がどっと抜けた。
肩が重い。目の奥も重い。
少しだけ、目を閉じよう。
乗り換え駅まではまだ距離があるし、着く前には多分目が覚める。いつもそうだから。
そう思った次の瞬間には、もう意識が沈んでいた。
電車の走行音が、少しずつ遠くなっていく。
やがて、完全に消えた。
体がどこまでも落ちていくような感覚だけが、そこに残っていた。




