第94話 喪失の果てに
二人は洗面所を後にし、再び畳敷きの居間へ戻ると、向かい合うように座卓へ腰を下ろした。
座卓の上には、飲みかけの缶ビールがそのまま置かれており、表面を覆っていた水滴もすでに消えていた。ぬるくなったそれに、二人はもう手を伸ばすことはなかった。
しばらく沈黙が続いたあと、小田桐が静かに口を開く。
『藤堂。ちょっとテレビをつけてもいいか?』
藤堂は理由も聞かず、小さく頷いた。
小田桐は座卓の端に置かれていたリモコンへ手を伸ばし、電源を入れる。暗かった部屋にテレビの白い光が広がり、静まり返っていた室内へ電子音が流れ込んだ。
いくつかチャンネルを切り替えると、小田桐は報道番組で手を止めた。
画面では『クレーター周辺で巨大生物を確認』のテロップが躍り、ニュースキャスターが険しい表情で原稿を読み上げていた。その横には、子犬ほどの大きさまで拡大された蟻の模型が置かれ、コメンテーターが模型を指し示しながら何かを説明している。
『お前、ニュースなんか見てないんだろう』
テレビから目を離さないまま、小田桐が言った。
『最近はクレーターの周りで巨大な蟻が発生していてな。政府も自衛隊も大騒ぎだ。何でも口から強力な酸を吐くらしい。車のボディどころか、コンクリートまで溶かしてしまうそうだ』
藤堂は無言でテレビへ目を向けた。
画面には防護服を着た調査隊が映し出され、アスファルトには酸で焼かれたような黒い穴が点々と残されている様子が映し出されていた。
小田桐は静かに続ける。
『どうやら、ただの隕石じゃなかったらしいな』
その言葉に、藤堂がゆっくりと顔を向ける。
『クレーターの中央では、何やら植物のようなものが芽吹いているらしい』
テレビの光が小田桐の眼鏡に映り込み、レンズが一瞬、鋭くぎらりと輝いた。
『隕石じゃない』
一拍置き、小田桐は低い声で言った。
『宇宙から飛来した植物の種だったという話だ』
藤堂は何も言わなかった。
小田桐の右眼には、先ほど鏡で見たあの淡い光が静かに宿っている。
『そして、巨大蟻の出現も、その植物と無関係じゃない』
部屋には再び雨音だけが響いていた。
『……俺たちのこの能力も、おそらくは……な』
その言葉を聞いた瞬間、藤堂は大きく目を見開いた。
『どういうことなんだ、小田桐!』
思わず座卓へ身を乗り出す。
『俺の目に、あの隕石が関係しているというのか!』
声を荒らげる藤堂とは対照的に、小田桐は静かに首を振った。
『落ち着け、藤堂』
低く落ち着いた声だった。その一言だけで、張り詰めていた空気がわずかに静まる。
小田桐は藤堂を真っ直ぐ見据えたまま、淡々と話を続けた。
『説明するには、まず俺の能力について話さないといけない』
小田桐は一息つくと、テレビ画面へ視線を移した。そこには、巨大蟻の模型が再び映し出されていた。
『クレーターの周りで見つかった巨大蟻なんだが、一つだけ妙な特徴がある』
藤堂は黙って耳を傾ける。
『どの個体にも、目が五つあるそうなんだ』
『五つの目……』
思わず藤堂が呟く。
小田桐は静かに頷いた。
『俺の能力は、その五つの目のうち一つを盗み見る能力だ』
藤堂の眉がぴくりと動く。
『いや、正確には少し違うな』
小田桐は言葉を選ぶように小さく息を吐いた。
『奴らの視点で言えば、全個体が視覚情報を共有している。そして俺は、その共有された視界へ割り込むことができる』
テレビ画面には、黒い外殻を持つ巨大蟻の模型が大きく映し出されていた。その頭部には、不規則に歪んで並ぶ五つの目があり、赤い光を鈍く湛えている。
小田桐はその映像を見据えたまま、静かに続けた。
『俺の能力で見える世界は、明らかに奴らが見ている世界なんだ』
藤堂は言葉もなく耳を傾けていた。
『だから、多分お前の能力も同じはずだ』
小田桐は眼鏡へ指先を添え、わずかに位置を直す。
『俺と同じように、奴らの五つある目のうち、どれか一つと繋がっている可能性が高い』
そして、静かに言い切った。
『……いや、そうとしか考えられない』
『そ、そんなことが……』
藤堂の唇から震える声が漏れた。顔から血の気が引いていく。
ゆっくりと立ち上がると、ふらつく足取りのまま洗面所へ向かう。まるで夢遊病者のように、頼りない足取りだった。
鏡に映る自分からは、本来なら見えているはずの感情の光が消えていた。
何もない。
喜びも、悲しみも、怒りも、不安も。
そこにあったのは、感情すら失った者だけが纏う――虚無だった。
すべてを失い、悲しむことさえ忘れてしまった者だけが纏う、何も映さない色。
その時だった。不意に奈菜の笑顔が脳裏をよぎった。そして、小さな蓮が無邪気に笑いながら自分へ駆け寄ってくる気配がした気がした。
『パパ!』
聞こえるはずのない声が頭に響く。鏡の中の藤堂から、柔らかな光が一瞬だけ静かに溢れた。
だが、それは一瞬だった。
暖かな希望の光は音もなく消え去り、代わって深い絶望の色が鏡に映る藤堂を満たしていく。
どうしようもない悲しみの色が全身へ広がり、その奥底から煮え立つような怒りの色が滲み始める。
怒りの色は瞬く間に悲しみを塗り潰し、やがてどす黒い色となって鏡に映る自分を覆い尽くしていった。
『……っ』
藤堂は鏡へ映る右眼を睨みつけた。
その瞳に宿る淡い光が、自分という存在を侵食する異物のように思えた。
妻を奪い、息子を奪い、なお自分の中へ巣食い続ける忌まわしい何か。それが自分の体のなかに収まっている。藤堂は耐えられなかった。
後ろで小田桐が立ち上がる気配がする。
『藤堂――』
呼び止める声が聞こえた、その瞬間だった。藤堂は迷うことなく右手を自らの右眼へ伸ばし、その指を深く突き立てていた。
藤堂の身体がぐらりと揺れる。
一歩、二歩とよろめき、支えを失った身体はそのまま力なく床へ崩れ落ちた。倒れ込む音が洗面所へ重く響く。
藤堂の意識が薄れていく。右眼の奥に走った熱が、徐々に遠のいていく。痛みはもう、意味を持たなかった。ただ、世界だけが静かに崩れていく。
どこか遠くで、声が聞こえた。
『……俺だ。急患だ。至急、救急車を寄越してくれ! 住所は――』
小田桐の声だった。その声が、やけに遠く感じられた。すぐ目の前にいるはずなのに、どこか隔てられているような感覚だった。
『患者は男性一名。至急搬送が必要だ』
小田桐はスマートフォンを耳に当てたまま、藤堂の様子を素早く確認する。表情に焦りはない。だが、その眼差しだけは医師として患者の命を繋ぎ止めようとする強い意志を宿していた。
『手術室を空けておいてくれ。麻酔科にも連絡を回せ。搬送されたら、そのままオペに入る』
小田桐は床へ膝をつき、視線を藤堂から外さないまま静かに続けた。
『執刀は私が行う。私も救急車に同乗する。到着までに準備を済ませておいてくれ』
小田桐が何かを話している声は聞こえる。だが、その声はもう言葉ではなく、ただ遠くで響く音にしか聞こえなかった。
視界はゆっくりと霞み、床へ滴る血の色も、雨に濡れた洗面所の床も、少しずつ輪郭を失っていく。音という音も、水の底へ沈んでいくように遠ざかり、それとともに身体から力も静かに抜け落ちていった。
瞼は鉛のように重く、もう開いていることさえ苦しかった。
意識の奥で、奈菜が微笑んでいた。その隣では、小さな蓮が無邪気な笑顔で手を振っている。
二人の姿へ手を伸ばそうとした、その瞬間――世界は静かに暗闇へ溶けていった。
藤堂の意識は、そこで完全に途絶えた。




