第95話 右眼の約束
藤堂が目を覚ました時、そこは病院の個室のベッドだった。窓からは、レースのカーテン越しに暖かな陽射しが差し込み、病室の白い壁を柔らかく照らしていた。
頭はまだぼんやりとしていて、身体にも思うように力が入らない。視線を動かすと、病室の奥に一人の看護師が立っているのが見えた。
「……ここは、どこなんだ?」
掠れた声でそう尋ねると、看護師はビクンと肩を震わせた。
「藤堂さん! 目を覚まされたんですね!? ちょっと先生を呼んできますね」
そう言い残すと、看護師は慌ただしく病室を駆け出していった。
患者のことを真摯に考えてくれる看護師なのだろう。彼女が纏っていた色は、事務的な職務としてのものではなく、一人の患者を心から案じる優しさが滲んでいるように感じられた。
それからほどなくして病室の扉が勢いよく開き、小田桐が足早に入ってきた。
「藤堂、お前は……いったい何を考えているんだ!」
小田桐が怒声とともに、藤堂の胸ぐらを力強く掴んだ。ベッドの上で藤堂の身体が激しく揺さぶられる。
「先生! 駄目です!」
看護師が慌てて間へ入り、小田桐の腕を必死に押さえた。
だが、藤堂は不思議なほど落ち着いていた。
小田桐は激しい剣幕で藤堂の胸ぐらを掴み、怒りを露わにしている。だが、藤堂には、その怒りよりも強く胸を占める感情がはっきりと見えていた。
病室へ駆け込んできた時に纏っていた深い心配の色は、藤堂が目を覚ましたことで安堵へと変わり、その奥には失うかもしれなかった恐怖と、もう二度と同じ過ちを繰り返してほしくないという強い願いが滲んでいた。
その思いを知った時、藤堂は初めて、自分がどれほど身勝手なことをしたのかを思い知った。
「……すまなかった」
自然と、その言葉が口をついて出た。それは、心の底からの謝罪だった。
小田桐はしばらく黙って藤堂を見つめ、一度だけ静かに目を瞬かせると、おもむろに口を開いた。
「藤堂……ちょっと、その眼帯を外してみてもいいか?」
その言葉に、藤堂はふと違和感を覚え、そっと右眼へ手を当てる。
左眼には何もついていない。だが、右眼は厚い包帯で覆われ、その上から硬質なプラスチック製の保護眼帯で固定されていた。
――右眼が見えるはずがない。
そう思った藤堂は、小田桐へ黙って頷いた。
小田桐は慎重な手つきで右眼の眼帯へ手を掛けると、傷口へ負担を掛けないよう保護眼帯をゆっくりと外し、包帯をそっと緩めて患部を覗き込んだ。
その瞬間、小田桐がハッと息を呑む。
「……っ!」
信じられないものを見るように右眼を見つめたまま、小田桐は震える声で口を開いた。
「藤堂……お前、ひょっとして……まだ、光が見えるのか?」
「あ、ああ……」
戸惑いながらも、藤堂は小さく頷く。
小田桐はなおも患部から目を離さず、確かめるように静かな声で続けた。
「藤堂、お前の右眼は摘出したんだ。確かに……昨日、この俺の手で全摘手術を行った」
「……」
藤堂は何も答えられなかった。
小田桐はゆっくりと息を吸い込み、医師として事実を確認するように告げる。
「藤堂……今、お前の右眼が光を放っている」
「そ、そんな……そんなことって……」
藤堂は呆然と呟いた。摘出したはずの右眼。その右眼があった場所が光を放っている。
その事実は、小田桐だけでなく、藤堂自身にとっても到底受け入れられるものではなかった。
小田桐はしばらく黙って藤堂を見つめると、傍らに立つ看護師へ静かに視線を向けた。
「少しの間、藤堂と二人で話がしたい」
「……分かりました」
看護師は小さく頷くと、一礼して病室を後にした。扉が静かに閉まり、病室には二人だけが残る。
その静寂を確かめるように、小田桐はゆっくりと口を開いた。
「藤堂。昨日、お前には俺の能力について話したな」
藤堂は無言のまま頷く。
「今、世間を騒がせている巨大蟻は、あくまでほんの一部に過ぎない」
小田桐の表情が僅かに険しくなる。
「俺の能力で奴らの視界を見ている限り、クレーターの地下では、あの植物の根が今も勢いよく広がり続けている。そして、それに伴って奴らも次々と増殖しているんだ」
一度言葉を切り、小田桐は重く息を吐いた。
「数だけじゃない。個体の大きさも日に日に増している。このまま放っておけば、そう遠くないうちに、人の力では手の施しようがない数と規模で地上へ押し寄せてくるだろう」
その言葉に、藤堂は思わず息を呑んだ。小田桐は藤堂を真っ直ぐ見据える。
「俺は、この事実を政府へ、そして軍へ伝えに行くつもりだ」
その声には迷いがなかった。
「そして俺は、この能力を使って奴らと戦う。その、人類の最前線に立ち、少しでも多くの命を救いたいと思っている」
病室に静寂が落ちる。やがて、小田桐は静かに問い掛けた。
「どうだ、藤堂」
その眼差しは、医師でも能力者でもなく、一人の友人へ向けられたものだった。
「お前にとって、その力は呪い以外の何物でもないのかもしれない。それでも――」
一拍置き、小田桐は真っ直ぐに言った。
「その能力を、お前の力を、俺に貸してはくれないだろうか」
藤堂は、静かに小田桐を見つめた。
失ったはずの右眼に映る小田桐の姿は、前日の夜と同じだった。
一点の揺らぎもない、力強い光の色。
そこには迷いも、恐れもない。ただ、人類を救うという揺るぎない決意だけが宿っていた。
小田桐は何も言わず、藤堂へ右手を差し出した。その手を見つめた瞬間、脳裏によみがえったのは、小田桐が口にした『腐れ縁』という言葉だった。
藤堂は家族を失い、何も残っていないと思っていた。それでも、自分を必要としてくれる友がいる。
差し出された右手を握り返さない理由を、藤堂はもう持ち合わせてはいなかった。
「ああ……俺の力でいいなら、好きなだけ使ってくれ」
そう言って差し出された手を強く握り返す。小田桐は小さく笑みを浮かべると、その手を力強く握り返した。
藤堂は静かに語り終えると、小さく息を吐いた。誰も言葉を発しない。室内は重い静寂に包まれていた。
その静寂を破るように、不意にミーティングルームのドアがガチャリと音を立てて開いた。
「済まない。ノックはしたのだが、反応がなかったものでな」
そう言いながら入ってきたのは、小田桐基地司令だった。
「小田桐……来たのか」
藤堂が声を掛ける。
「ああ。この基地の司令に確認したら、おまえたちはこの部屋にいると聞いたものでな」
そう言いながら小田桐基地司令はヴァンガード隊が囲むテーブルの前まで歩み寄ると、静かに立ち止まった。
そして、深々と頭を下げた。
「今回は危険な任務をヴァンガード隊一隊に押し付け、その結果として佐伯の命が失われてしまった。その責任は、すべて私にある。本当に、申し訳なかった」
室内に重い沈黙が流れる。誰も口を開かなかった。
やがて、その空気を破るように、ニックが肩をすくめて小さく笑う。
「まぁ、でも、カルナの眼は五つや。そして能力者の数も五人のはずや」
そう言って椅子の背にもたれ掛かると、指を一本ずつ折りながら続けた。
「今回の作戦は、作戦の責任者、最前線の兵士、そして現地の協力者に、三人の五眼の能力者が絡んどる」
加納は腕を組んだまま静かに目を閉じ、他の隊員たちも、それぞれあの日の作戦を思い返すように表情を引き締める。
ニックは全員を見回し、軽く頷いた。
「つまり、人類最強の布陣やったんや。それで失敗したんやったら、誰の責任でもあらへん」
一拍置いて、小田桐基地司令へ視線を向ける。
「せやから、小田桐基地司令が打てる手は、もう全部打ち切っとった。ワイはそう思うけどな」
その言葉に、席へ着くほかの隊員たちも一様に頷いた。
小田桐基地司令はゆっくりと頭を上げると、藤堂へ視線を向けた。
「藤堂。能力のことは話したのか?」
「ああ。何か問題でもあったか?」
藤堂が答えると、小田桐基地司令は小さく笑った。
「他ならぬヴァンガード隊に対して、もはや隠しておかなければならない機密などない」
一度言葉を切ると、悪戯っぽく口元を緩める。
「それに、お前の右眼の手術は、最早私にとっては道楽のようなものだ」
その一言に、加納が目を丸くした。
「……え?」
「何だ。言ってなかったのか?」
小田桐基地司令が藤堂を見る。
藤堂は気まずそうに頭を掻いた。
「こいつは『右眼なんてガラス玉か、一生眼帯で構わない』なんて言うんでな」
呆れたように肩をすくめながら、小田桐基地司令は続けた。
「だったら私が実験台として使わせてもらおうと思ってな。新型の義眼を入手するたび、こいつに試してもらっているというわけだ」
「ちなみに、こいつは義眼の値段だけは頑として教えてくれないんだ。噂じゃ、車が一台買える値段らしいけどな」
「ふん」
小田桐は鼻を鳴らしただけだった。藤堂は苦笑し、頭を掻いてみせた。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んでいた。




