第93話 雨の日の邂逅
藤堂は小さく鼻で笑った。
「ドアを開けたら、そこにあいつが立っていた」
その言葉が静かな室内へ落ちると、誰も口を開かなかった。流れる沈黙の中、藤堂はゆっくりと目を閉じる。
「……あの日は雨が降っていたな」
遠い記憶を辿るように呟く。
アパートの古びたドアを開けると、そこには見覚えのある男が立っていた。片手には黒い雨傘、もう片方の手にはコンビニのビニール袋。スーツの肩は雨に濡れ、傘の先からはぽたりと雫が落ちている。
藤堂は数か月ぶりに見る顔、小田桐だった。
『探したぞ、藤堂』
開口一番、小田桐はそう言った。予想だにしなかった言葉だった。雨に煙る玄関先で、その一言だけが妙に鮮明に耳へ残る。
藤堂は思わず眉をひそめた。
『俺を探した?』
乾いた声が漏れる。
『馬鹿な。お前に何で俺を探す必要がある』
小田桐は雨に濡れた前髪を指先で払い、小さく肩を竦めた。
『病院に勤めているとな、被災者の情報は何かと集まってくるものなのさ』
一度言葉を切る。
『まぁ、腐れ縁ってやつだ』
その言葉に、藤堂は思わず苦笑した。
腐れ縁――確かにそうかもしれなかった。
中学時代はよく一緒に馬鹿をやった仲だったが、卒業後は進む道が分かれ、連絡を取ることもほとんどなくなった。
だが数年前、偶然にも藤堂の自宅と小田桐の勤務先の病院が近くにあったことで再会した。しかも奈菜も同じ中学の同級生だったため、その縁もあって小田桐を家へ招いたことも何度かある。
藤堂の息子の蓮が小田桐によく懐いていたことを思い出し、藤堂の口元にわずかな笑みが浮かんだ。
そんな藤堂を見ながら、小田桐は玄関先で少しだけ視線を落とした。
『奈菜さんと蓮くんは……?』
静かな声だった。
藤堂は何も言わず、ただ首を横に振った。
それだけで十分だった。
『そうか……』
小田桐は俯いた。
しばらく雨音だけが二人の間を流れる。
やがて藤堂は小さく息を吐いた。
『まぁ、せっかく来たんだ。上がってくれ』
小田桐は黙って頷くと靴を脱ぎ、狭いアパートへ入った。
二人は畳敷きの部屋に置かれた座卓を挟んで向かい合って座った。
室内は生活感に乏しかった。置かれていたのは最低限の家具だけで、まるで誰かが一時的に寝泊まりするためだけに借りた部屋のようだった。
小田桐はそんな室内を見回し、手にしていたコンビニ袋を座卓へ置いた。
『飲むか?』
袋の中には缶ビールが二本入っているのが見えた。それを見た藤堂は思わず眉を上げた。
『お前が飲んでいいのか?』
当時の小田桐は近くの総合病院に勤める医師だった。昔から生真面目な男で、酒を手に人を訪ねてくるようなタイプではない。
そんな小田桐が缶ビールを持って現れたことに、藤堂は少しだけ意外さを覚えた。だが、当の本人は、少しだけ居心地が悪そうな表情を浮かべて苦笑するのだった。
『俺だって、たまには飲みたい日があるのさ』
そう言いながら小田桐はコンビニ袋から缶を一本取り出し、藤堂へ差し出した。藤堂は無言でそれを受け取った。缶の表面を伝った冷えた水滴が、やがて缶底へと集まり畳へと静かに落ちた。
やがて二人は缶のプルタブを開けた。乾いた音が小さく重なり、その後は再び沈黙が部屋を満たす。
窓の外では雨が降り続いていた。ガラスを叩く雨音だけが、静かな室内に淡く響いている。
そうしてしばらく経った頃、藤堂がぽつりと口を開いた。
『なあ、小田桐』
『なんだ?』
小田桐が視線を向けると、藤堂は少しだけ言い淀んだ。
『お前、専門は精神科じゃなかったよな』
その言葉に、小田桐は眉をひそめる。
『ああ。違うが……どうした?』
一拍置いて続けた。
『何か調子が悪いのか?』
『ん……ああ』
藤堂は曖昧に頷いた。
『調子が悪いっていうのとは少し違うんだがな』
窓を叩く雨音へ耳を傾けるように視線を逸らす。
『あの日、カルナを失ってから……変なんだ』
小田桐の表情が僅かに引き締まる。
『変?』
『人の感情が見える』
静かな声だった。
『……感情?』
『ああ』
藤堂は頷いた。そして缶を机へ置く。
『喜びとか、悲しみとか、怒りとか……そういうものが光みたいに見えるんだ』
小田桐は黙って耳を傾けていた。
『今も見えるのか?』
『見える』
藤堂は小さく笑った。
『例えば今、お前が軽い気持ちで話を聞いてるんじゃなくて、本気で俺を心配してることも分かる』
その言葉に、小田桐は目を細めた。
『そうか……』
だが次の瞬間、缶ビールを片手に持った小田桐のその表情がわずかに強張った。
それまで穏やかに藤堂の言葉を受け止めていた視線が、不意に一点へと吸い寄せられる。まるで何か微細な違和感を拾い上げたかのように、目元がわずかに細くなり、口元からも僅かな余裕が消えた。
『藤堂』
低く呼びかける声には、先ほどまでとは違う緊張が混じっていた。何かに気付いたように、藤堂の右目を凝視している。
『ん?』
『お前……右眼が光ってないか?』
藤堂は眉をひそめた。
『何だって?』
『気のせいじゃない』
缶ビールを座卓の上に置くと、小田桐は身を乗り出した。
『ほんの僅かだが、右眼だけ光って見える』
藤堂は缶ビールを座卓の上に置き、反射的に右目へ手を当てた。
『冗談だろ』
『俺がこんなことで冗談を言うと思うか?』
その声に迷いはなかった。
二人は無言のまま顔を見合わせると、ほとんど同時に立ち上がり、薄暗い洗面所へ足を向けた。畳を踏む足音だけが静かな部屋へ響き、窓を打つ雨音がその後を追うように重なった。
古びた鏡の前に立ち、自分の顔を映し込んだ藤堂は、次の瞬間、思わず息を呑んだ。
『……』
確かに右眼だけが淡く光っていた。
暗い室内だから見間違えたわけではない。瞳の奥には小さな光が灯り、それはまるで蛍火のようにかすかに揺らめいていた。
『馬鹿な……』
藤堂が呟いた、その時だった。
鏡の中の自分から、胸の奥に立ち昇る煙のような淡い色彩が滲むように浮かび上がる。それは今まで他の人にしか見えていなかった、感情の光だった。
『これは……』
藤堂は思わず息を呑んだ。
鏡の中の自分自身にも、その感情の光が見えている。そして、その色が何を意味するのかも分かってしまった。
不安。
戸惑い。
恐怖。
鏡の中に映る自分は平静を装っているようでいて、その実、どうしようもなく怯えた色を湛えていた。
藤堂は無言のまま蛇口をひねった。
勢いよく流れ出した水を両手ですくい、そのまま何度も顔へ浴びせる。刺すような冷たさが頬を打ち、熱を帯びていた頭が少しずつ冴えていくような気がした。
やがて滴る水を手で拭い、もう一度ゆっくりと鏡へ目を向ける。
『……』
だが、何も変わってはいなかった。
鏡の中の自分を見つめ返す右眼には、依然として蛍火のような淡い光が静かに宿っている。その様子を隣で見つめていた小田桐が、小さく口を開いた。
『まさか、だったな』
その声音には驚きよりも、どこか確信に近い響きが滲んでいた。
藤堂が顔を向けると、小田桐は一瞬だけ言葉を選ぶように沈黙し、やがて静かに続けた。
『これは話をするつもりはなかったんだが……』
そう言いながら、小田桐はゆっくりと眼鏡を外す。藤堂は鏡越しにその姿を見つめていた。
『あの隕石が落下した日から、変なものが見えるようになったのは、藤堂――どうやらお前だけではないらしい』
次の瞬間、藤堂は息を呑んだ。鏡に映る小田桐の右眼もまた、自分と同じように淡い光を静かに湛えていた。
小田桐は眼鏡を掛け直すと、静かに藤堂へ向き直る。
『藤堂、お前に話したいことがある』
静かな声だった。
『今、俺が考えている、この能力の正体についてだ』
藤堂は言葉を失い、ただ小田桐を見つめていた。
その目に映る小田桐の姿から滲む光は、藤堂がこれまで見てきたどの色とも違っていた。一点の揺らぎもない、強い光だった。




