第92話 ぬくもりの残り香
話の区切りがつき、誰からともなく椅子を引く音が聞こえ始めた。重かった空気も、ようやく少しだけ和らいでいる。
ノアは窓の外へ視線を向け、ジョディは伸びをしながら『あー、お腹すいた』と小さく呟く。ニックは椅子の背にもたれ、加納は腕を組んだまま何かを考え込んでいた。
そんな中、不意に加納が口を開いた。
「藤堂、すまないが、一つ確認しておきたいことがあるんだ」
静かな声だった。
室内の空気がわずかに変わる。
藤堂は椅子に座ったまま視線だけを向けた。
「なんだ?」
短い返答。その一言に、室内が静まり返った。
加納は一拍置いてから続けた。
「俺は佐伯さんの後を引き継いで、アメノウズメの操縦桿を握ることになった」
加納のその言葉に、誰も軽々しく口を挟まなかった。
「だから、ヴァンガード隊の戦力は把握しておく必要がある。それで……お前に聞きたいことがあるんだ」
加納のその言葉に、ジョディはノアへ視線を向けた。
「じゃあノア、私たちは先にご飯でも行こっか」
そう言って椅子から立ち上がる。
「ヒッカム基地のスパムむすび、なかなかいけるのよ。まだ食べてないでしょ?」
ノアは一瞬だけ加納達へ視線を向け、それから静かに頷いた。
「そうですね」
穏やかな声だった。
「ちょうどお腹も空いていました」
「決まりね」
ジョディは笑いながらドアへ向かう。
「ほら、行きましょ」
「はい」
ノアも立ち上がった。
そして扉の前で振り返る。
「ドクター・フジワラ」
不意に呼ばれ、藤原博士が顔を上げる。
「お話が終わったら呼んでください」
ジョディが片目を瞑って小さく微笑んだ。
「スパムむすび、残しておきますから」
藤原博士は思わず苦笑する。
「なんや、それは」
わずかに和らいだ空気を残しながら、ジョディとノアは部屋を後にした。扉が静かに閉まると、室内にはヴァンガード隊の面々と藤原博士だけが残された。
誰もすぐには口を開かなかった。やがて加納が改めて藤堂へ向き直る。藤堂は無言でその視線を受け止め、数秒後、小さく頷いた。
「わかった」
加納は息を整え、言葉を続けた。
「カルナ・ドームで蜘蛛型サーヴィターにアメノウズメが急襲された時――俺に警告したのは、お前だった」
静かな声だった。
「……」
「あの時、一番近くにいたのはストライク・イーグルだった。ジョーカーやユグドラシルだってサイクロプスより近い位置にいた」
そこで一度言葉を切る。
「それなのに……最初に気付いたのは、お前だった」
加納の声は淡々としていたが、その中に確かな違和感が混じっていた。
「それだけじゃない。屋島でユグドラシルが百足型サーヴィターに不意打ちされた時もそうだ。お前の警告は、百足型サーヴィターが地中から現れるより、一瞬だけ早かった」
室内が静まり返る。藤堂は何も言わない。
その横で、大樹がゆっくりと口を開いた。
「僕もそれは気になってました」
皆の視線が集まる。
「屋島では結局何もできなかったけど……確かに、藤堂さんの警告は百足型サーヴィターが出現するより前でした」
「普通、レーダーやセンサーで分かるタイミングじゃなかったと思います」
そして今度は、ニックが頭の後ろで手を組みながら口を開いた。
「せやな……確かに妙やな」
少し考えるように視線を上へ向ける。
「そういや、藤堂のオッサン。屋島に核弾頭が落ちたあと、暴走して基地司令のところへ殴り込みに行った時も――」
ニックが藤原博士へちらりと視線を送った。
「基地司令の眼の能力のこと、もう知っとった感じやったな」
ニックは意味ありげに片眉を上げる。
「それと関係あるんかな?」
その言葉に、室内の空気がさらに重くなる。ニックの口調は軽口のような響きだったが、その目だけは笑っていない。
視線が藤堂へと集束する。
藤堂はしばらく何も言わなかった。ただ、ゆっくりと息を吐いた。その吐息には、長く抱えてきた何かを手放すような、微かな諦めにも似た響きがあった。
藤堂は集まった視線をゆっくりと見渡した。
「……あの時、小田桐基地司令が自らの眼の能力を俺たちへ開示した」
静かな声だった。
「それはつまり、基地司令がそれだけ俺たちを信頼したということだ」
一度言葉を区切る。
「なら、俺の話をしても問題はないだろうな」
そう言って、藤堂はふっと小さく笑った。しかしその笑みはどこか寂しげだった。
「今から話すのは、カルナが落下した日の話だ」
誰も口を挟まない。
藤堂は遠い記憶を辿るように目を細めた。
「あの日、俺が家へ戻った時には、そこには巨大なクレーターがぽっかりと口を開けていた」
静かな声が室内へ響く。
「俺の家も含めて、周囲の家は何軒も跡形もなく消えていた」
藤堂は窓の外を見るように僅かに視線を逸らした。
「クレーターの縁に引っ掛かるように残った半壊の家からは炎が上がっていてな。月明かりとその炎だけが周囲を照らしていた」
誰も言葉を発さない。
「ぽっかりと――本当にぽっかりと、世界が無くなっていた」
藤堂はゆっくり首を振った。
「まるで巨大なスプーンで地面を建物ごと掬い取ったみたいな……そんな光景だった」
その言葉に、誰も軽々しく反応できなかった。
「俺はクレーターへ降りた。家族を探そうと思ったんだ」
低い声で続ける。
「だが駄目だった。目の前の光景が、記憶の中の景色とどうしても結びつかなかった。今自分がいる場所が道路だったのか。隣の家だったのか。俺の家があった場所なのか」
藤堂は静かに目を閉じた。
「何も分からなかった」
室内には空調の微かな音だけが流れている。
「後になって聞いた話だが、あの頃はまだ何が起きたのか誰にも分かっていなかったらしい。宇宙放射線が出ているだの、危険なガスが漂っているだの、根拠の分からない話ばかりが飛び交っていてな。避難指示だけは出ていたそうだ」
自嘲気味に肩を竦める。
「だから周囲には誰もいなかった。俺はそれも知らずに、ただクレーターの中を歩き続けた」
淡々とした口調だった。
「夜が明けて朝になり、朝が過ぎて夕方になっても……俺は、家族を探していたのか、自分の家を探していたのか――今となっては分かない」
藤堂はそう言って小さく息を吐いた。
「ただ、ひたすら彷徨っていた」
そして僅かに視線を上げる。
藤堂は小さく息を吐いた。
「ふと……妻と息子の笑い声が聞こえた気がしたんだ」
誰も口を挟まない。
「もちろん、本当に聞こえたわけじゃない」
藤堂は自嘲するように笑う。
「疲れていたのかもしれん。現実を受け入れられなくなっていたのかもしれん」
一度言葉を切る。
「だが、確かに感じたんだ」
静かな声だった。
「暖かい光のようなものを」
加納達は黙って耳を傾けている。
「光だったのか、気配だったのか、今でも上手く説明はできん。ただ、その時の俺には見えていた」
藤堂は遠くを見るように目を細めた。
「だから俺は、その気配を追った」
低い声で続ける。
「夢中だったよ。何も考えていなかった。ただ、その暖かい光だけを頼りに歩いた」
室内は静まり返っている。
「そして、辿り着いた時――俺は理解した」
藤堂はゆっくりと拳を握った。
「それまで俺は、自分でも気付かないうちに期待していたんだ。もしかしたら妻と息子は外出していて助かったんじゃないか」
藤堂が自嘲気味な笑みを浮かべた。
「たまたま家を空けていただけかもしれない。どこかで無事に生きているかもしれない」
淡々とした口調だった。
だが、その奥に押し殺した感情が滲んでいる。
「そんな都合のいい可能性に縋っていた」
藤堂は静かに首を振った。
「だが違った。俺が辿り着いた場所は、紛れもなく俺の家があった場所だった。景色は変わり果てていた。それでも分かったんだ」
そして小さく目を閉じる。
「そして、その暖かな気配もまた、そこに残されていた」
誰も声を発しない。
藤堂は静かに息を吐いた。
「その時に確信したんだ」
藤堂の声は静かだった。
「あいつらは、最後まであの場所にいた」
一度言葉を切る。
「見つけたのは、妻と息子そのものじゃない」
「俺の帰りを待ちながら、そこで過ごした時間――その残り香だった」
微かに笑みを浮かべる。
「きっと母子で談笑していたんだろうな……夕飯の話でもしていたのかもしれない。息子が保育園の話をしていたかもしれない。妻がそれを笑って聞いていたかもしれない」
藤堂は遠くを見るように目を細めた。
「……そんな、いつも通りの時間だったんだと思う」
その笑みがゆっくりと消える。
「そして、そのまま消えた」
静かな声だった。
「ほかのどこでもない。あの場所で、何も気付かないまま……一瞬でな」
藤堂は小さく目を閉じる。
「残っていたのは、暖かな時間の気配だけだった」
しばらくの沈黙が流れた。
誰も言葉を発しない。
藤堂は視線を落としたまま、小さく息を吐いた。
「それからの俺は、まるで抜け殻のようだった」
静かな声だった。
「仕事も辞めた。上司には一方的に『辞めます』と伝えただけだがな」
自嘲気味に笑う。
「まぁ、会社は俺の住所も知っていたしな。何があったのかは、すぐに察したはずだ」
誰も口を挟まない。
ただ、藤堂の声だけが室内に落ちていく。
藤堂は椅子の背にもたれ、天井を見上げて続けた。
「それから近くに安アパートを借りた」
淡々とした口調で続ける。
「幸い、多少の蓄えはあったからな。当面の生活には困らなかった」
藤堂は遠くを見るように目を細めた。
「ただ、起きて、飯を食って、寝て――そしてまた起きる」
小さく首を振る。
「そんな毎日を繰り返していた」
淡々とした口調だった。
感情が削ぎ落とされているようでいて、逆にその空白が重かった。
「何日経ったのかも覚えていない。何週間だったのか、何ヶ月だったのかもな」
静かな声だった。
「生きていたというより、ただ死んでいなかっただけだ」
室内の空気が重く沈む。
藤堂は構わず続けた。
「そんなある日、妙なことに気付いた」
室内の空気がわずかに変わる。
「集中すると、周囲にいる生き物の感情が見えるようになっていたんだ」
加納が静かに身を乗り出した。
「感情……?」
加納が思わず呟く。
藤堂は頷いた。
「ああ」
短く答える。
「喜び、悲しみ、怒り、不安、焦り……そういうものだ」
藤堂は自分の手を見つめた。
「言葉で説明するのは難しいがな。まるで、その生き物が感情に応じた光を纏っているように見えた」
藤堂は自分の右目へ触れる。
「ぼんやりと浮かび上がるんだ」
静かな声だった。
「犬を散歩している老人を見れば穏やかな光、子供達が遊んでいれば楽しそうな光、喧嘩している人間を見れば、刺々しい光が見えた」
そして藤堂は、小さく息を吐くと、遠い記憶を辿るように続けた。
「今思えば――あの日からだったのかもしれん」
誰も声を発しない。
「カルナのクレーターで、あの暖かい光を感じた時からな」
藤堂はゆっくり首を振った。
「もっとも、その頃の俺はそんなことに興味を持てる状態じゃなかった」
苦笑する。
「世界がどう見えようが、どうでもよかったからな」
その言葉には乾いた諦めが滲んでいた。
「だから、その力のことも大して気にしなかった」
一度言葉を区切る。
「そんな時だった」
藤堂の視線が僅かに鋭くなる。
「突然、俺のアパートに来客があった」
加納達が自然と身を乗り出す。
藤堂は小さく鼻で笑った。
「ドアを開けたら、そこにあいつが立っていた」
誰も言葉を発しない。
「小田桐だった」




