第8話 処理
蟻型サーヴィターとの距離は、まだある。双方が動かず、張り詰めた均衡が保たれていた。
橋の上を、さらに二つの影が進む。新たに現れたスサノヲの装甲には、別の意匠が刻まれていた。舞い降りる鷹。そして、桜の花弁。ストライク・イーグル。キルシュ。
二機は、奇妙な装備を携行していた。銃身の後部から太いホースが伸びている。二機のスサノヲは、その先端を無言で海へと放り投げた。
ホースが水中に沈むのを確認し、同時に銃口を海岸線へ向ける。
美桜は、照準を固定する。距離、角度、散布範囲――すべては訓練通り。
迷いはない。
ただ、照準の先でうごめくそれを、対象として切り分けるまでに、ほんの一瞬だけ時間がかかった。
「放出」
短い合図。次の瞬間。
——バシュッ!
圧縮された海水が、銃口から一気に噴き出した。白い霧を伴った水流が空気を切り裂き、凍てつく飛沫が周囲に散る。
人体であれば短時間で体温を奪う温度の水流が、白化した砂浜を叩き、蟻型サーヴィターを包み込む。
高圧の水流が、節足の動きを乱す。白砂が巻き上がり、鈍色の飛沫が波打つように広がった。
蟻型サーヴィターの関節が軋み、威嚇音が途切れ途切れになる。 先ほどまで忙しなく動いていた個体の動作が、目に見えて鈍った。
異星由来のカルナにとって、地球の海は未知の環境だった。
彼らが侵食してきた無数の惑星の中に、陸と接する広大な領域に滞留し、無数の成分を溶かし込んだ液体に覆われた表層を持つ世界は、存在しなかったのかもしれない。
少なくとも――カルナ・サーヴィターは、海に対する耐性を持っていなかった。
数秒。ほんのわずかな時間に過ぎない。
だが、濃度の高い海水を浴びせられたことで、外殻の反応は鈍り、節足の動きは明確に遅れていた。
それは撃破ではない。だが――刃を届かせるには、十分すぎる隙だった。その事実を、蟻型サーヴィター自身も理解している。理性ではなく、本能として。
高圧水流が迫ると、蟻型の個体は一斉に後退し、回避行動を取った。威嚇音は不規則になり、隊列は自然と乱れていく。
逃げる。避ける。
それが、彼らに許された唯一の選択だった。
そして――その瞬間を、スサノヲのパイロットたちは決して逃さない。これは訓練で叩き込まれた理論ではない。
実戦で積み重ねられた、血と損耗の記憶だ。
ストライク・イーグルとキルシュは、放水を止めない。逃げ場を与えぬよう、水流をずらし、重ね、逃走経路を潰していく。 海水に追い立てられ、動きを封じられた瞬間――前線に立つ二機の巨人が、踏み込むための隙が生まれた。
それが、合図だった。
海水中の二機が、一斉に踏み込む。
カルナ・サーヴィターには、生命維持臓器と呼べるものが存在しない。心臓も、肺も、消化器官も不要だった。彼らの動力源は、カルナ・フロラから分泌される特殊な酸だ。
その酸はエネルギー源として直接筋束へ供給され、代謝や変換の工程を必要としない。ゆえに消化は存在せず、外部から酸が供給されている限り、筋束は活動を続ける。
呼吸もまた不要だった。酸の供給が途絶えない限り、酸素の有無は行動能力に影響しない。水中であろうと、真空に近い環境であろうと、カルナ・サーヴィターは同じように動く。
その結果として――カルナ・サーヴィターには、人間のような急所が存在しなかった。
銃撃で外殻を破壊しても、内部を貫いても、それだけでは機能停止に追い込めない。対カルナ戦において銃弾による制圧は意味を成さず、本質的には無効に等しい。
有効なのは、構造そのものを破壊する攻撃だ。
支持肢を切断し、物理的に行動を不可能にするか、中枢制御が集中する首元、あるいは胴体を分断するしかない。
だからこそ――スサノヲは刃を振るう。それは戦術ではなく、生存条件だった。
ジョーカーが先に動いた。
水を蹴り、低い姿勢のまま一気に距離を詰める。高圧水流に晒され、動作の鈍った蟻型サーヴィターの側面へと回り込み、短剣を振り上げた。
狙いは一点。頭部と胴体、その甲殻の継ぎ目。
——ズン。
刃が抵抗なくねじ込まれ、内部構造を破壊し筋束が一瞬赤く発光し、沈黙する。 蟻型サーヴィターは短く痙攣し、威嚇音を発する暇もなく砂浜へと崩れ落ちた。
同時に、サイクロプスが前へ出る。両手で握った長刀が、水を切り裂きながら大きく弧を描いた。
——ギン。
胸部甲殻ごと、胴体が一刀のもとに両断される。白化した甲殻片と黒い体液が飛び散り、残骸はそのまま海水へ沈んでいった。
残る蟻型サーヴィターが、遅れた動作でようやく反応を示す。だが、すでに距離は詰められ、退路も失われている。
鈍った節足。乱れた隊列。
そして、目の前に立つのは――数多の戦場を潜り抜けてきた二機のスサノヲ。
勝負は、成立しなかった。
ジョーカーとサイクロプスは無駄な動きを一切挟まず、確実に急所を断ち切っていく。短剣と長刀が交互に閃き、鈍重な抵抗は瞬く間に封じられていった。
数秒後。砂浜に立っていた蟻型サーヴィターは、すべて沈黙していた。
白化した浜辺には黒い残骸が横たわり、砕けた外殻を波が静かに洗っている。波音だけが残る海際で、二機のスサノヲが静かに立ち尽くす。
東の空は淡く明るみ、薄明の光が海面を銀色に染めていた。風は冷たく乾き、水面の泡をゆっくりとさらっていった。
美桜は、その一部始終を見ていた。
速い、正確、無駄がない――頭では理解できる。かつて自分も同じように刃を振るった記憶が、淡く蘇る。
だが、胸の奥が、ほとんど動かない。
恐怖も、躊躇もない。ただ、状況を追い、結果を受け入れているだけの自分がいる。それが、わずかに引っかかった。
目の前で行われているのは戦闘のはずなのに、そうは見えない。
手順をなぞるように、終わっていく。
それは戦闘というより、処理だった。
動作の鈍った蟻型サーヴィターなど、もはや歴戦の二機にとって、敵ですらなかった。




