第88話 途絶える鼓動
アメノウズメがゆっくりと前進を開始した。
巨大なクローラーが赤黒い繊維を踏み砕くたび、鈍い振動が車体全体へ伝わってくる。クローラーに押し潰された繊維束は粘液混じりの音を立てながら裂け、その断片が白煙の中へ飛び散っていった。
巨大ドーム内部は、相変わらず異様な光景だった。
床面を埋め尽くす赤黒い繊維は、壁面を這い上がり、遥か頭上の天井へまで達している。無数の糸が幾重にも絡み合ったその様子は、まるで建造物そのものが巨大な巣へ作り変えられてしまったかのようだった。
先程までであれば、その繊維の隙間から次々と蜘蛛型サーヴィターが現れていた。
――だが、今は違う。
耳に届くのはアメノウズメの駆動音と、時折通信機から流れる短い報告だけだった。
張り詰めた緊張感は変わらない。それでも、戦闘開始直後に比べれば、周囲は驚くほど静かになっている。
左側ではサイクロプスが長刀を構えながら歩調を合わせ、右側ではジョーカーが白煙の向こうへ視線を巡らせている。そして、アメノウズメの後方では、ユグドラシルが機体を後ろ向きにしたまま追従し、アメノウズメと三機のスサノヲは互いの死角を補い合うように陣形を維持していた。
加納は正面モニターを凝視する。
佐伯が選んだのは、スサノヲを遊撃に回し、アメノウズメの機動力で蜘蛛型サーヴィターを翻弄する戦い方だった。常に移動を続けながら敵の狙いを絞らせず、出現した個体を各機が機動力で叩く。相手に考える暇を与えず、一気に戦場の主導権を握る――いかにも佐伯らしい大胆な戦術だった。
だが、加納は別の方法を選んだ。
先に敵を発見し、その位置を共有する。蜘蛛型サーヴィターに奇襲の機会を与えず、接近を察知した時点で各個撃破していく。
それは派手さもスピードもない戦い方だった。だが、一度クローラーが停止し、ようやく修理を終えたばかりのアメノウズメには、それが最も合理的な選択だった。
センサーが拾った情報を目視で確認し、敵を発見した瞬間に全機へ共有する。そして最も有利な位置にいる機体が即座に迎撃へ向かう。
地味な方法だ。華やかさもない。しかし、その分だけ隙がなかった。
「後方七時方向。蜘蛛型一体」
不意にアメノウズメ車内に大樹の声が聞こえた。
ユグドラシルのセンサーが捉えた反応だった。
「了解」
加納が短く応じる。
それだけで十分だった。
サイクロプスが静かに進路を変える。
白煙の中へ踏み込んだ巨大な機影が一瞬だけ霞み、その直後、長刀が白煙ごと敵影を断ち切った。
次の瞬間には戦術モニターから蜘蛛型サーヴィターの反応が消えていた。
歓声はない。戦果を誇る声もない。
サイクロプスは何事もなかったかのように元の位置へ戻り、再び周囲への警戒を続ける。
蜘蛛型サーヴィターの大半は、すでに排除されていた。だからこそ、この慎重な進軍が成立している。
残敵を発見しては潰し、見つけては排除する。
その繰り返しは決して派手ではない。しかし着実に周囲の脅威を削り取りながら、ヴァンガード隊はカルナ・フロラとの距離を縮めていった。
大樹はユグドラシルのメインカメラ越しに前方の巨大な《《塔》》を見上げた。
――カルナ・フロラ。
眼前に聳えるそれは、これまで大樹が見てきた個体と同じく、植物というより巨大な肉塊に近い姿をしていた。
暗赤色の組織が脈動し、幹の隙間から発光する粘液が流れ落ちる。その禍々しい姿自体は、もはや見慣れた光景ですらある。
だが――大きさだけは別格だった。
ドーム中央に根を張るその巨体は、直径二百五十メートルの空間を支配するように鎮座している。
無数の触手状の枝は天井のトラス構造へ絡み付き、その一本一本が鋼鉄の骨組みを掴む指のように見えた。
枝は天へ向かって伸びているのではない。まるで巨大な生物が檻の天井へ手を掛け、外へ這い出そうともがいているかのようだった。
その光景は、カルナ・フロラが大人しく根を下ろした植物などではなく、今なお成長を続ける生きた怪物であることを嫌でも実感させる。
それは一本の樹というより、この閉鎖空間そのものへ寄生した巨大な生物だった。
芽吹いてからの時間は、屋島の個体とほぼ変わらないはずだった。それなのに、目の前のカルナ・フロラは一回りや二回りという次元ではない。誰が見ても、屋島の個体を遥かに凌ぐ規模へ成長していた。
この異常な成長速度……。
大樹は自然と眉をひそめる。
理由として思い当たるのは一つしかなかった。この個体は、宇宙から飛来したカルナの種子から発芽した最初のカルナである。カルナ・フロラの起源であり、オリジナルとも言える特殊個体だ。
静かにその場へ根を下ろしているだけだというのに、カルナ・フロラの存在感は圧倒的だった。無数の触手状の枝がドーム天井へ絡み付き、脈動する暗赤色の巨体が視界を占めるたび、大樹は巨大な捕食者に見下ろされているような錯覚を覚える。
まだ距離は残されている。だが、そのはずなのに胸の奥へ重石を押し込まれたような圧迫感は消えない。
気付けば、大樹の指先はわずかに強張っていた。ヘッドギア越しに見上げるカルナ・フロラの巨体が、それほどまでに圧倒的だった。
カルナ・フロラは、もう目の前に迫っている。
加納はアメノウズメをカルナ・フロラの目前で停止させた。巨大なクローラーが最後に赤黒い繊維を踏み潰し、車体がゆっくりと静止する。
「ここでいい」
加納が短く呟く。
アメノウズメが停止すると、その左右へサイクロプスとジョーカーが展開した。
藤堂は長刀を下段に構えたままカルナ・フロラを見据え、ニックもまた周囲へ油断なく視線を巡らせている。戦術モニター上に蜘蛛型サーヴィターの反応はない。それでも誰一人として警戒を緩めることはなかった。
その間に、大樹はユグドラシルをゆっくりと前進させる。巨大な根元へ辿り着くと機体を停止させ、メインカメラを上へ向けた。
視界いっぱいに広がる暗赤色の巨体。
遠目に見ても巨大だったが、足元まで接近した今では、その大きさはもはや距離感すら狂わせるほどだった。
表面では無数の筋束や血管にも似た組織が複雑に絡み合い、その隙間を縫うように赤い光が脈動している。
ドクン――
まるで巨大な心臓が鼓動するかのように幹全体が膨張し、次の瞬間には収縮する。その度に暗赤色の光が組織の奥を駆け巡り、発光する粘液が幹の裂け目から滲み出していた。
ユグドラシルは左手に保持した銃槍をゆっくりと持ち上げた。
白い装甲に覆われた右腕がその柄へ添えられる。カルナ筋束の収縮に合わせて巨大な銃槍がゆっくりと持ち上がり、ユグドラシルの腕部装甲が僅かに軋んだ。
やがて、切っ先が頭上を向いた。
その先には、カルナ・フロラの触手状の枝が絡み付く巨大ドームの天井が広がっている。無数の鋼鉄製トラスが張り巡らされた空間の中央で、ユグドラシルは銃槍を天へ捧げるように掲げ続けた。
大樹はアイカメラ越しにその穂先を見据える。
巨大な銃槍を両手で支え、静かに天を仰ぐその姿は、どこか神へ祈りを捧げる姿にも似ていた。
もっとも、その祈りが求めるのは救済ではない。
これから放たれる一撃によって、カルナ・フロラを貫くためのものだ。その静寂を破るように、銃槍内部で重い機械音が響く。
ガコン――
大樹が操作パネルを叩く。
「パイルバンカーロック解除……」
低い唸りと共に内部ユニットが作動を開始した。
ガギィン――
高圧シリンダーが収縮し、巨大な撃鉄が後退位置へ固定される。金属同士が噛み合う重い衝撃が、機体の腕部フレームを震わせた。
「ロックフリー確認……スライド……」
装填機構が最後の移動を終える。
ヘッドギアへ投影された表示が切り替わり、装填が完了したことを示していた。
大樹は深く息を吸い込んだ。
視界を埋め尽くす暗赤色の幹。その表面では、無数の筋束が生物の血管のように脈打ち続けている。
照準は中央。狙いを外す距離ではない。
「――行きます」
小さく呟く。
次の瞬間、ユグドラシルが大きく踏み込んだ。ユグドラシルを構成するカルナ筋束が一斉に収縮する。
巨体とは思えぬ速度で前へ出たユグドラシルが、全身の力を乗せて銃槍を突き出した。
高周波振動チップエッジの刃が一直線にカルナ・フロラへ迫る。
バシュッ――
カルナ・フロラの暗赤色の表皮が裂け、無数の破片が飛散した。
発光する粘液を撒き散らしながら刃が深々と食い込み、銃槍はその刃を根元近くまでカルナ・フロラへ突き刺さした。
そして、大樹は即座にトリガーを引き絞る。
ズドォォォン――!!
轟音が巨大ドーム全体を震わせた。銃槍内部で解放されたエネルギーが徹杭へ叩き込まれる。
三メートルのカルナイト製の徹杭が、暗赤色の組織を貫きながらカルナ・フロラの深部へ射出された。
凄まじい反動がユグドラシルを襲う。
腕部フレームが震え、機体がわずかに後退する。足元の白い粉塵が爆発するように舞い上がった。
その瞬間には、徹杭はすでにカルナ・フロラの深部へ到達していた。
射出の衝撃によって内部に封入されていた毒性物質が解放され、杭先端の噴出口から周囲の組織へ放出される。
毒性物質は血管にも似た管状組織を伝いながら、急速にカルナ・フロラの内部へ浸透していった。血管にも似た管状組織を伝い、毒性物質がカルナ・フロラの内部を駆け巡る。
すると――
ドクン――
カルナ・フロラの規則正しく続いていた脈動が乱れた。巨大な幹の奥を走っていた赤い光が揺らぎ、明滅する。
ドクン――
再び脈打つ。
だが、その鼓動に先程までの力強さはなかった。
暗赤色の組織を巡っていた赤い光が明らかに鈍り始める。まるで全身へ送り出されていた血流そのものが失われつつあるかのように、発光の脈動は次第に弱々しくなっていった。
異変は瞬く間にカルナ・フロラの全体へ広がっていく。根元から上部へ。幹から触手状の枝へ……
赤い光は管状組織を逆流する闇に飲み込まれるように次々と途絶え、ドーム中央にそびえる巨体から生命の色が失われていく。
天井のトラス構造へ絡み付いていた無数の枝が、びくりと震えた。まるで絶命の瞬間を迎えた生物が見せる、最後の痙攣のようだった。
やがて――
ドクン。
弱々しい最後の鼓動が、巨大な肉塊の奥で一度だけ響く。その瞬間を境に、すべてが止まった。
膨張していた幹は収縮することなく静止し、組織の奥を走っていた赤い光も完全に消え失せる。裂け目から滲み出ていた発光粘液も輝きを失い、暗赤色の肉塊だけが沈黙の中に取り残された。
先程まで巨大な心臓のように脈打っていたカルナ・フロラは、まるで生命そのものを抜き取られたかのように動かない。
広大なドーム内部を支配していた圧倒的な生命感だけが、消え去った鼓動の残響のように、その場へ重く残り続けていた。
誰も言葉を発しなかった。
戦術モニター上に新たな敵影はない。
カルナ・フロラの反応も完全に消失している。それでも誰もすぐには動けなかった。
長かった戦いが、本当に終わったのか。その実感が、まだ追いついていなかった。
その時だった。
ピッ――
アメノウズメの通信コンソールが短く電子音を鳴らす。加納は反射的に顔を上げた。
通信だ。
胸の奥が強く脈打つ。このタイミングで通信を寄越す相手など、加納には一人しか思い浮かばなかった。
つい先ほど別れたばかりの男。
あの怒鳴り声も、最後に託された言葉もまだ耳の奥に残っている。
加納は急ぐように通信回線を開いた。
「佐伯さん!」
静まり返ったアメノウズメの車内に、加納の声だけが響く。誰も言葉を発しない。ただ、開かれた通信回線の向こうに、深い沈黙だけが続いていた。




