第81話 空蝕
数分後――。
藤原博士たちは、巨大ドームから離れた研究棟の非常用出入口から、ようやく外へ脱出していた。
東の空が、ゆっくりと白み始めていた。
夜の闇はなお研究所を覆っている。だが、その輪郭だけは確かに薄れ始めており、遠い水平線の向こうから滲むような淡い朝焼けが海面をぼんやりと照らしていた。
「……っ」
すでに、ドーム外壁の一部は大きく崩落していた。
白煙を噴き上げながら歪んだ鋼鉄壁の裂け目へ向け、何台もの消防車が海水を放水し続けている。
海岸側には大型ポンプ車が展開し、太い吸水ホースがすでに海へ伸び切っていた。ホース同士は分岐金具で接続され、複数の消防車へ効率よく送水できるよう配置されている。
路面には予備ホースや機材箱が広げられ、海水を吸い上げるための導線も完全に確保されていた。
その光景は、慌てて現場へ駆け付けた直後のものではない。
少なくとも、ドームが破られる以前から消防隊が現地へ到着し、放水を前提とした準備を完了させていたことを物語っていた。
轟音と共に放たれた大量の海水が、蟻型サーヴィターたちへ絶え間なく叩き付けられる。
ジュゥゥゥゥッ!!
赤黒い外殻から白煙が噴き上がった。
蟻型サーヴィターたちは激しく身をよじり、後退する個体もいる。完全ではない。だが、明らかに効果はあった。
「もっと水圧上げろ!!」
「下がるな! 押し返せ!!」
怒号が飛び交う。
一方、その周囲では、ワイアナエの住民たちが混乱したまま海岸方向へ避難していた。
夜と朝の境界が滲み始めた薄明の中、テント村から逃げ出してきた人々は、統制など到底取れていなかった。荷物を抱えて走る者、家族の名前を叫ぶ者、転びながらも海へ向かう子供――数百人のスラムの住民たちが、各々に海を目指している。
薄青くなり始めた早朝の海岸には、怒号と泣き声と波音だけが混ざり合って響いていた。
消防隊員たちは、その合間を縫うようにして住民たちへ指示を飛ばしていた。
「海から離れるな!」
「浮く物につかまって待機しろ!」
「ボートは後から回す! 慌てるな!」
だが、その声に極端な混乱はなかった。
住民たちも完全な統制下にあるわけではない。だが、誰もが避難先を理解しているように、それぞれ海岸方向へ移動していく。浮き輪代わりのポリタンクを抱える者、木材や発泡スチロール板を脇へ抱えた者、すでに海へ入って沖合のボートへ向かっている者――避難民たちはばらばらでありながらも、明確な目的地を共有している動きだった。
そして何より、すでに海上へ到達している人数が多すぎた。
沖合には、漁船や小型ボート、即席の筏のようなものまで無数に浮かび、その周囲へ大勢の住民たちがしがみついている。これは、ドーム崩壊を確認してから慌てて始まった避難ではない。少なくとも、かなり前の段階から住民たちへ事前の伝達が行われ、避難行動そのものは始まっていたことを感じさせる光景だった。
その光景を見つめながら、藤原博士はゆっくりと上空を見上げる。
そして――息を呑んだ。
「……なんや、これは……」
東の空を覆う薄雲の下で、無数の飛行型サーヴィターが渦を巻いていた。
赤黒い群れは、まるで空そのものへ巨大な染みが広がっていくかのように、視界の果てまで幾重にも連なっている。羽ばたくたびに生じる低い振動音が、重苦しい唸りとなって海岸一帯の空気を絶え間なく震わせていた。薄明に染まり始めた空は、その異形の群れによってほとんど覆い潰され、朝日さえ遮られている。
藤原博士は思わず足を止めた。
脳裏へ蘇るのは、つい先ほど巨大ドーム内部で目撃した飛行型サーヴィターの群れだった。カルナ・フロラの根元から噴き出した数は、目算でおよそ二百。確かに脅威的な規模ではあったが、それでもまだ「対処不能」と断じるほどの数ではなかった。
だが――今、上空を埋め尽くしている群れは、その比ではない。
空一面へ広がる赤黒い影は、もはや個体数を数えられる密度ではなかった。巨大ドームから飛び立った群れが合流した程度で説明できる規模ではなく、むしろ最初からこの島全体の空へ潜んでいた何かが、一斉に姿を現したかのようだった。
どう考えても、数が合わなかった。
「……あり得へん……」
藤原博士の掠れた声が漏れる。
その時、ジョディが藤原博士の手を強く引いた。
「ドクター・フジワラ、こちらです! 急いでください!」
振り返り、さらに鋭く叫ぶ。
「トニーも来てください!」
「あ、ああ……わ、解っている……」
トニーが青ざめた顔のまま、ふらつく足取りで後を追う。だが、藤原博士の思考だけは止まっていなかった。
海岸へ向かって走りながらも、藤原博士の視線は何度も上空へ向けられる。薄明の空を埋め尽くす飛行型サーヴィターの群れ。その数が、どうしても合わなかった。
ジョディに先導されながら、藤原博士たちは研究所裏手の海岸沿いへ走っていた。
崩れかけた外壁の陰を抜け、錆びたフェンス脇の細い通路を下っていく。潮風と海水の臭いが強まるにつれ、波の砕ける音も徐々に近づいてきた。やがて視界が開ける。
そこには、簡易的な船着き場があった。
古びた桟橋が海へ突き出し、その脇へ二艇の大型ゴムボートが係留されている。すでにエンジンは始動しており、低い駆動音を響かせながら波間で不安定に揺れていた。
「こちらです! 急いで!」
ジョディが振り返りながら叫ぶ。
船着き場には、ジョディに同行していた研究員たちの姿もあった。誰もが青ざめた顔のまま周囲を警戒している。沖合にはすでに無数の小型船舶や避難民たちの影が見えていた。
ジョディは迷うことなく桟橋へ飛び乗ると、一艇目のゴムボートへ乗り込んだ。
「ドクター・フジワラ!」
促されるまま、藤原博士も船体へ足を掛ける。波に揺れるゴムボートが大きく軋み、足元が不安定に沈み込んだ。
続いて研究員たちが次々と乗り込んでいく。
「あ、あぁ……」
最後に、トニーがふらつく足取りで桟橋を渡ってきた。蒼白な顔のまま何度か足を滑らせかけながらも、研究員に肩を支えられ、どうにか船内へ身を投げ込む。
その直後だった。
背後の研究所側から、再び轟音が響き渡る。振り返れば、巨大ドームの崩落部分から白煙が噴き上がっていた。消防車の放水がなおも続き、海水の奔流が蟻型サーヴィターたちへ絶え間なく叩き付けられている。
研究所の灯火と、赤色灯の回転光。
そのさらに上空では――無数の飛行型サーヴィターたちが、なお巨大な渦を描きながら空を覆っていた。
どう考えても、数が合わなかった。
研究所から飛び出した群れだけで、この規模になるはずがない。ならば――今、空を埋め尽くしている残りの飛行型サーヴィターは、どこから現れた?
そして、説明が付かないのはそれだけじゃない。
――ドームが破られる前に、消防隊はすでに動いていた。
つまり――。
藤原博士の脳裏で、ひとつの考えが繋がる。通信遮断は、カルナドームの崩壊と同時に発生したわけではない。
それよりも前。
ドームが破られる以前の段階で、すでにワイアナエ一帯では通信障害が始まっていたということになる。
「……まさか……」
水面を漂うゴムボートに揺られながら、藤原博士はゆっくりと上空を見上げた。
飛行型サーヴィターの群れは、ワイアナエ研究所の上空を中心として、巨大な渦を描くように天高く旋回している。赤黒い群雲は幾重にも重なりながら上空で捻じれ、まるで巨大な竜巻そのものが空へ生まれているかのようだった。
羽音が、大気そのものを震わせている。
藤原博士の掠れた声が漏れた。
「……カルナドームが破られる前に、飛行型サーヴィターの群れが、先にどこからかやって来とったっちゅうことや……」
視線を細める。
「ほんなら――こいつらは、どこから現れたんや。ほんで、何のためにここへ集まってきたんや」
藤原博士は、空を埋め尽くす飛行型サーヴィターの大渦、その中心へ目を凝らした。
無数の赤黒い影が蠢く視界の果て、そのさらに奥――まるで夜明けの空へ穿たれた傷口のように、眩い赤い光が脈動しているのが見えた気がした。




