第80話 隔絶領域
蟻型サーヴィターだ。
湿り気を帯びて鈍く輝く外殻が照明光を鈍く反射する。五つの眼が、それぞれ別方向へぎょろりと蠢きながら周囲を見回していた。
一体。続けて、さらに一体。そして、また一体。
巨大な顎を軋ませながら、蟻型サーヴィターたちが次々と地中から這い出してくる。
それはまるで、地面そのものが黒い蟻を無限に産み落としているかのような光景だった。
「ひっ……!」
「う、撃て! 撃てぇ!!」
トニーと研究員たちの悲鳴混じりの声が響く。
だが、GAU-19はとうの昔に沈黙している。
撃ち尽くされた二十四門のガトリング砲は、もはや乾いた空転音を鳴らすだけだ。監視室へ駆け込んできた警備員も武装こそしているものの、携行しているのは拳銃程度に過ぎない。
蟻型サーヴィターたちは迷いなく前進していく。
黒曜石のような外殻を鈍く光らせながら、一直線に壁面へ到達すると、そのまま巨大な顎を開いた。
その光景を見つめながら、ジョディが藤原博士の腕を掴んだ。
「博士! 早く!」
焦りを滲ませた声だった。だが、藤原博士は動かなかった。騒乱の中にありながら、その視線だけは妙に冷静だった。
巨大ドーム内部は、外部通信を完全に遮断する構造になっている。電波は外へ届かず、外からの通信も内部へは入らない。
つまり――カルナ・サーヴィターが発現した今でも、ドームが破られていない限りは、周辺住民たちのスマートフォン通信障害も、まだ発生していないはずだ。
藤原博士は無言のまま視線を上げる。
監視室壁面へ据え付けられた制御盤。その一角に備え付けられていた通信装置へ歩み寄ると、受話器を掴み上げた。
「外線回線はどこや。接続方法を教えるんや」
低い声で問いかける。
だが、返ってきたのは研究員の青ざめた声だった。
「む、無理です……!」
「何やて?」
「この監視室は、カルナによる外部への通信を完全に遮断するため、外線そのものを物理的に遮断しています! 使えるのは研究所内の内線回線だけです!」
その言葉に、藤原博士の表情が止まった。
「……外線が、繋がっとらんやと……?」
掠れた声が漏れる。研究員が怯えたように頷いた。
万が一に備え、カルナに対する通信を完全に遮断するための設計思想。それ自体は正しい。だが今、この瞬間に限って言えば、それは内部の人間を完全に孤立させる檻そのものだった。
藤原博士は受話器を見つめたまま、しばらく言葉を失っていた。
その背後では、蟻型サーヴィターたちが壁面へ到達していた。巨大な顎が開き、赤黒い粘液が滴り落ちる。
そして――
ジュゥゥゥゥッ!!
腐食性の酸液が、鋼鉄製の内壁へ一斉に叩き付けられた。白煙を噴き上げながら鋼鉄壁が溶解していく。赤黒い酸液が外装材を舐めるたび、金属は音もなく崩れ落ち、構造そのものが悲鳴を上げていた。
一体ではない。二体ではない。
何体もの蟻型サーヴィターが横一列に並び、まるで作業でもするかのように同時に酸を吐き続けていた。
この巨大ドームはいずれ破られる。もはや時間の問題だった。
藤原博士は、ノアとカレオにスマートフォンの通信障害が発生する。それが、研究所におけるカルナ発生の《《最終警告》》だと、そう託していた。
通信が遮断された瞬間、住民たちは避難を開始し、消防隊が緊急発進する。ノアとカレオには、そのためにできる限りの準備はしておくように伝えてある。だが、それでも時間は必要だった。
避難を開始した住民たちが海へ辿り着くまでの時間。
消防隊が緊急出動の準備を整え、研究所周辺へ到着し、海水を吸い上げて放水を開始するまでの作業時間。その全てが必要になる。
つまり、それまでの間――住民たちは完全に無防備な状態へ晒されることになる。藤原博士は、その現実を冷静に受け止め、その対策に思考を巡らせていた。轟音と警報に包まれた制御区画の中で、藤原博士の思考だけが妙に静かだった。
赤黒い酸液が踏み荒らされた土壌を焦がし、腐食した金属臭が熱気と共に監視室へまで流れ込んでくる。
壁面越しに響く不気味な羽音と、蟻型サーヴィターたちが脚を擦る硬質な音が、巨大ドーム内部へ絶え間なく反響していた。
その騒乱の中で、不意に、一体の蟻型サーヴィターが動きを止めた。横一列に並んで酸を吐き続けていた群れの中で、その一体だけがゆっくりと頭部を持ち上げる。
五つの眼が、不規則に蠢いた。
左右非対称に配置された異形の眼球が、別々の方向をぎょろぎょろと見回す。まるで周囲の情報を探るように蠢いていた視線が、やがてひとつの方向へ収束していく。
制御区画の監視窓。
――藤原博士たちのいる場所だった。
ジョディの表情が強張る。
「……っ」
蟻型サーヴィターは、赤黒い粘液を大顎から糸のように垂らしながら、ゆっくりと身体の向きを変えていく。外殻が照明を鈍く反射し、そのたびに湿った赤黒い脈動が装甲の隙間から微かに明滅した。
ギチ……ギチギチ……。
蟻型サーヴィターの六本脚が床面へ食い込み、重量に耐え切れなくなった金属床が鈍く軋む。その巨体が、一歩、また一歩と制御区画へ近づき始めた。
監視窓の向こうで、五つの眼がゆっくりとこちらへ向いている。腐食液の滴る大顎が開閉するたびに白煙が漂い、焦げた金属臭が流れ込んできた。
その異様な光景を前に、ついにジョディが痺れを切らした。
「ドクター・フジワラ、もう限界です!」
強引に藤原博士の腕を掴み、そのまま後方へ引っ張る。
「ここはもう危険です。一刻も早く避難すべきです!」
「ジョディちゃん、もう少し待ってくれ。このままじゃあ、あかんのや。なんとか、なんとかして住民たちに……」
藤原博士は抵抗するように監視窓へ視線を向け続ける。だが、ジョディは構わず腕を引いた。
そのすぐ横では、トニーが床へ座り込んだまま頭を抱えている。ジョディは一瞬だけ視線を向けたものの、今の彼女にとって、もはやトニーは警護対象としての認識はなかった。
その時だった。
ジョディに引かれて体勢を崩しかけた藤原博士の視界の端へ、監視モニターの映像が飛び込んできた。
「――なんやて」
藤原博士の表情が変わる。
掴まれていた腕を振りほどくように、藤原博士はモニターへ駆け寄った。反射的に、ジョディもその手を離す。
藤原博士の眼に映るのは、外部監視カメラが捉えた、まだ破られていない巨大ドームの外周だった。
そこには――数台の消防車が、すでに研究所周辺へ展開していた。
赤色灯を回転させながら停車した消防車の周囲では、防護装備を着込んだ消防隊員たちが慌ただしくホースを展開している。海岸側では大型ポンプ車が海水の吸い上げ準備を開始しており、さらに後方からも、新たな消防車両が次々と到着し始めていた。一台、また一台と、その数が増えていく。
「どういうことや!? まだドームは破られとらん! 通信遮断は発生しとらんはずや!」
驚愕の声が漏れる。だが、それは藤原博士にとって、喜ぶべき誤算でもあった。理由は分からない。
しかし――考えている暇はない。そして、今はその余裕がないことは明らかだった。
藤原博士は、張り詰めていた呼吸をひとつ静かに吐き出すと、ゆっくりとトニーの方へ振り返った。
「……もう、ワシがここにおらんといけん理由は無うなった」
その声は、先程までよりも僅かに落ち着いていた。
「トニーよ。それは、お前さんも同じはずや。一緒に避難してもらうで」
トニーは床へ座り込んだまま、両手で頭を抱えていた。その肩は小刻みに震え、焦点の定まらない目が床を彷徨っている。
藤原博士は、その傍へ歩み寄ると、静かに腕を掴んだ。
「一緒に来るんや、トニー」
低い声だった。
「お前さんはワシと一緒に来て、自分が取った判断がどうだったのか――その結果、どんな惨事が引き起こされたのか。それを見届ける責任があるはずや」
トニーの喉がひくりと震える。
青ざめた顔のまま、しばらく何も言えなかった。だがやがて、震える肩を押さえ込むようにしながら、小さく頷く。
「……あぁ……」
掠れた声だった。藤原博士に腕を支えられながら、トニーはゆっくりと立ち上がった。




