第79話 黒翼の収束
ゴムボートは、鈍く灰色に濁った海面の上で不安定に揺れていた。
波に煽られるたび、過積載の船体が大きく軋む。船内には研究員たちが肩を寄せ合うように座り込み、乗り切れなかった者たちは縁へ掴まりながら海へ半身を沈めていた。冷たい海水に震えながら、それでも誰一人として手を離そうとはしない。
沖合には、同じような民間船舶が無数に浮かんでいた。
漁船、プレジャーボート、小型艇――研究所から逃れてきた避難民たちが、暗い海の上で身を寄せ合っている。
その一角のジョディが手配していた大型のゴムボートの中央で、トニーは蒼白な顔のまま震えていた。
「こんなはずじゃなかった……」
掠れた声が漏れる。
「私は、上の指示に従っただけだ……。私の責任じゃない……私の……」
視線は定まっていない。
ぶつぶつと同じ言葉を繰り返しながら、とめどなくあふれる汗で濡れた手で何度も頭を掻き毟っている。
ジョディは、その姿を横目で見て小さく息を吐いた。
「……愚かね」
疲労の滲んだ声だった。
そのすぐ傍らで、藤原博士は二人のやり取りを聞き流しながら、海の向こう――半壊した研究所の巨大ドームをじっと見つめていた。
胸の奥に引っかかり続けている違和感。
それが何なのかを確かめるように、藤原博士はゆっくりと記憶の糸を手繰り寄せていく。
――あれは、深夜だった。
監視室の照明は落とされ、巨大ドームの内部だけがぼんやりと白く浮かび上がっていた。
藤原博士は毛布にくるまりながら、じっとカルナ・フロラを見つめていた。その隣では、ジョディが椅子に座ったまま静かな寝息を立てている。
監視室へ残っていたのは、二人だけだった。
そして――それは、何の前触れもなく起きた。
深夜の巨大ドーム内部は、静寂に支配されていた。
天井近くへ設置された照明だけが薄白く空間を照らし、その中央ではカルナ・フロラが赤黒く脈動している。植物とも生物ともつかない巨大な肉塊が、ゆっくりと呼吸するように膨張と収縮を繰り返すたび、湿ったような低い振動が監視室の床へ微かに伝わってきていた。
その時だった。
カルナ・フロラの根元――正確には、その周囲の地中。
剥き出しになっていた黒土が、不意に内側から押し上げられるようにわずかに盛り上がった。
「……?」
土壌の膨らみは、ゆっくりと、だが確実に大きくなっていく。
まるで地中で何か巨大なものが蠢いているかのように、湿った土が脈打つように震え始めた。
次の瞬間――
ボゴッ!!
鈍い破裂音とともに土砂が弾け飛ぶ。
赤黒い土が周囲へ撒き散らされ、カルナ・フロラの根元近くに黒い穴が穿たれた。その裂け目の奥から、一斉に黒い影が噴き出す。
飛行型サーヴィターだった。
バサバサバサバサッ――!!
耳障りな羽音が、一瞬遅れて巨大ドーム内部へ反響する。
解き放たれた飛行型サーヴィターの群れは、噴き出す勢いのまま上空へ舞い上がった。黒い影が乱流のように空間へ広がり、照明光を遮りながら巨大ドームの内部を埋め尽くしていく。
その数、目算でおよそ二百であろうか。
個々の飛行型サーヴィターは決して大きくない。だが、それだけの数が密集しながら飛び回る光景は、生物の群れというより巨大な黒い塊そのものだった。
無数の羽音が重なり合い、巨大ドームの空気を震わせる。
赤黒い群れは旋回しながら徐々に密度を増し、やがて空中でひとつの巨大な塊へ収束し始めた。
それは、まるで、一羽の巨大な猛禽のように見えた。
巨大な翼を持つ生物がドーム内部を旋回しているかのように、その群れは滑らかな軌道を描きながら天井付近を高速で飛び続ける。
次の瞬間――
ドーム内壁へ据え付けられていた二十四門の十二・七ミリガトリング砲、GAU-19が一斉に作動した。
ドドドドドドドドドドドドドッ!!
爆音のような連射音が空間を揺るがす。
砲口から噴き出した閃光が巨大ドーム内部を断続的に照らし、曳光弾の赤い軌跡が空中を幾重にも走った。濃密な弾幕が、巨大な飛行型サーヴィターの群れへ向かって殺到する。
同時に、研究所全域へ警報アラームが鳴り響いた。
けたたましい警告音が挙がる。同時に、赤色灯が回転し、監視室の壁面やモニター群を断続的に赤く染め上げていく。
やがて、自動ドアが勢いよく開いた。武装した警備員と、数人の研究員たちを引き連れ、監視室へ駆け込んで来たのは、トニーだった。
「何が起きた!?」
だが、誰も即座に答えられない。
飛行型サーヴィターの群れは、あまりにも速かった。GAU-19の追尾照準が完全に振り切られている。
高速で旋回する黒い群れを捉え切れず、大量の弾丸が空間そのものを薙ぎ払うように乱れ飛んでいた。
ガガガガガガガガッ!!
外れた銃弾が、ドーム内壁へ次々と突き刺さる。
分厚い鋼鉄製の壁面から激しい火花が噴き上がり、跳弾が雨のように周囲へ散った。破砕音と銃撃音と警報が混ざり合い、巨大ドーム内部は凄まじい騒音に包まれていく。
何体かの飛行型サーヴィターが弾丸を受ける。赤黒い体液を撒き散らしながらも、それでも群れは速度を落とさない。巨大な塊となった飛行型サーヴィターたちは、なおも猛禽のような軌道を描きながら巨大ドーム内部を旋回し続けていた。
GAU-19の曳光弾が空間を埋め尽くす。だが、飛行型サーヴィターの動きはあまりにも速い。
直撃を受けてもなお飛び続ける個体がほとんどで、弾丸は黒い群れの隙間を穿ちながら背後の鋼鉄壁へめり込んでいく。
運悪く複数の銃弾が重なり、飛行能力を失った個体だけが制御を失って地面へ墜落した。しかし、その数は十にも満たなかった。
圧倒的だったのは火力ではなく、群れの密度と速度だった。
赤黒い塊はなおも巨大ドーム内部を旋回し続け、GAU-19は弾幕を撒き散らしながら狂ったように追尾を続ける。
だが――藤原博士は、その光景を見つめながら別の計算をしていた。
飛行型サーヴィターの数が、二百程度。その数であれば、仮に飛行型サーヴィターが巨大ドームの外へ放出されたとしても、ヴァンガード隊を乗せた輸送機の着陸に支障が出るほどではない。
そして――
一門、また一門と、ガトリング砲の発射音が途切れていく。
最後の薬莢が排出され、撃ち尽くしたガトリング砲の砲身だけが惰性で空転を続ける。
カラララララ……。
乾いた金属音だけが、巨大ドームの内部へ虚しく反響していた。
一瞬前まで空間を埋め尽くしていた轟音が途絶えたことで、かえって異様な静寂が際立つ。
巨大な赤黒い群れはなおも天井付近を旋回し続けている。無数の羽音だけが、不気味な唸りのようにドーム内部へ低く響いていた。
その静寂を破ったのは、トニーの怒鳴り声だった。
「替えの弾倉はどこだ!? 早く! 早く補給するんだ!」
顔を真っ赤にしたまま、トニーが研究員たちへ怒鳴り散らす。
だが、返ってきたのは焦燥に満ちた声だった。
「ほ、補給システム自体は組み込まれています!」
「なら、何をしている!? すぐに再装填しろ!!」
トニーが怒鳴り返す。
しかし、研究員は青ざめた顔のまま首を振った。
「む、無理です! 補給作業は担当オペレータしか把握しておらず、我々では作業を実施することができません! オペレータを呼ばなければ動かせないんです!」
「なっ――」
トニーが言葉を失う。
その最中だった。カルナ・フロラの周囲の地中が、再び大きく脈打った。
ボゴォッ!!
今度は先ほどとは比較にならない規模だった。
黒土が大きく盛り上がり、地面そのものが裂ける。湿った土砂が吹き飛び、カルナ・フロラの根元近くへ巨大な穴が穿たれた。
その暗い穴の奥から、黒い巨影がゆっくりと這い出してくる。黒曜石のような外殻が、照明光を鈍く弾いた。




