第69話 楽園の朝焼け
機体構造を伝ってくる振動が、コックピットの足元から座席へ、背骨へと這い上がる。それとほぼ同時に、コンソールの各所が赤く点灯し、けたたましい電子音が空間を切り裂いた。
「……っ!」
コパイロットが表示を見て、言葉を失う。
「右外側、ナンバーフォー・エンジン……停止!」
右外側エンジン――その表示が、わずかなラグを伴って沈黙へと落ちていく。
推力値は減衰ではない。段階も踏まない。ただ、ある一時を境に、数値が切り落とされたようにゼロを示した。
これで二基。しかも左右の外側。
「冗談やろ……」
ニックの呟きをかき消すように、FEが怒鳴った。
「機長、ナンバーフォーの回転数ゼロ! 火災警報は無し、完全に沈黙しました!」
張り詰めた空気の中、その報告だけが鋭く響く。
「構うな、チェックリストを回せ。このまま降下する!」
即答だった。
常識外れの状況を前にしてなお、判断は一切鈍らない。その声には、迷いも、恐れもなかった。
ニックの顔から血の気が引く。乾いた空気の中、誰もが同じ結論に辿り着きかけていた。
墜落する。
そう認識されかけた、その瞬間――パイロットは、笑った。
「……ちょうどよかった」
操縦桿を握る手は微動だにせず、視線もまた一切揺らがない。まるで今の事態すら、計算の内側に収まっているかのように。
「着陸するのに左右のバランスが悪くて困ってたんだ」
操縦桿が、細かく、しかし迷いなく切り返される。
外側エンジンを失った影響は確かに機体に現れていた。わずかな偏り、遅れてくる応答、押し返されるような空気の抵抗。
それでもパイロットの操作は一切乱れない。むしろ、その不安定さを前提に組み立てられたかのように、次の操作が寸分の狂いもなく重ねられていく。
「よし――」
短く息を吐き、視線を滑走路へと固定する。
「目視確認。滑走路に障害物なし。当機はこのまま着陸する」
宣言と同時に、機首がわずかに下がる。
巨体が、重力に引かれるようにして降下へと移行した。
風を切る音が変わる。空気の密度が肌に触れるように増し、わずかな高度の差が、そのまま情報量の差となって視界へ流れ込んでくる。
滑走路のセンターラインがはっきりと浮かび上がり、誘導灯が連なり、その奥に広がる基地の建造物が、静止しているはずなのに迫り来るかのように膨らんでいく。
「いいぞ……」
パイロットの声は低く、しかし確信を帯びていた。
「いいぞ……このまま……このまま……」
誰も応じない。ただ、その声に引き寄せられるように、コックピットの全員が同じ一点――滑走路の先端へと意識を集中させる。
高度はさらに落ちる。
基地の建物が、もはや見下ろす対象ではなく、手を伸ばせば届くのではないかという錯覚さえ覚える距離まで迫っていた。
あとわずか。
その距離が、確かな現実として認識された瞬間――
ズドンッ!
鈍い衝撃が、再び機体を打ち抜いた。
次の瞬間には、コンソールが赤く染まり、警報音が容赦なく叩き込まれる。
「……っ、第3エンジン沈黙!」
コパイロットの悲鳴に近い報告が響く。残るは第2エンジン一基のみ。C-5という巨体を支えるには、あまりに心許ない細い糸だ。
瞬時に機体は右へと傾ぎ、滑走路のセンターラインが視界の外へと逃げていく。
「……Shit!」
パイロットは右のラダーペダルを、床を突き破らんばかりに踏み抜いた。
血管が浮き出た腕で操縦桿を左へねじ伏せ、最後の一基――第2エンジンを、爆発せんばかりのフルスロットルまで押し上げる。
ミシミシ、と機体が悲鳴を上げる。
片側だけの猛烈な推力が、墜落しようとする巨体を無理やり滑走路の上へと引き戻す。
だが、機体は完全に斜めを向いていた。そのままの体制で地表へと叩きつけられようとしている。
「……今だッ!」
接地まで、残り数メートル。
パイロットの視線が滑走路の先端を鋭くなぞり、その一瞬で距離・姿勢・残存速度をすべて叩き込むと、迷いなく第2エンジンのスロットルを手前へ引き切った。
その直後――
ズシンッ!!
凄まじい衝撃が機体全体を貫いた。
叩きつけられた主脚が悲鳴を上げ、二十八個の巨大なタイヤが同時に路面へと食い込み、焼け付くような摩擦音とともに白煙を噴き上げる。
時速三百キロ近い速度は容易く殺しきれるものではなく、タイヤは滑り、削れ、それでもなおアスファルトへと噛みついた。
「接地! リバース!!」
叫びと同時に、パイロットの手が反射のように動く。スロットル背後のリバーサー・レバーが叩き上げられ、鈍い衝撃音とともにナンバーツー・エンジンの排気が前方へと反転した。
逆噴射。
唯一生き残ったナンバーツー・エンジンが咆哮を上げる。左右非対称の猛烈な制動力に、機体がのたうち回る。
「FE、ナンバーツーの出力を監視しろ! サージさせるなよ!」
「限界まで回してます! 排気温度、レッドゾーン突入! 持ちこたえろ、ナンバーツー……ッ!」
FEが祈るようにレバーを押し込み、機体と一体となって減速の衝撃に耐えていた。
正面から叩きつける空気の壁――その代償として、制動力は左側に大きく偏り、機首は狂ったように左へ振られようとした。
「させるかよ……ッ!」
低く唸りながら、パイロットは左ブレーキをあえて抜き、右ブレーキを床ごと踏み抜く。逆噴射による回転を、右主脚の摩擦だけでねじ伏せるという無謀な操作だった。
ボンッ――!
限界を超えたタイヤが破裂する。続けて、もう一つ。
右側のタイヤが連鎖的に弾け、むき出しになったホイールが直接アスファルトを削り始めた。激しい火花と白煙が後方へ巻き上がり、その異常な光景はコックピットからでもはっきりと視認できる。
「油圧、レッドゾーン! ブレーキ圧が保ちません!」
「緊急系に切り替えろ! 全圧で押さえ込め!!」
怒号と警報が交錯する中、機体は滑走路上で蛇のようにのたうちながら左右へ振られる。それでも脱輪しないのは、パイロットの両足が寸分の狂いもなくペダルを制御し続けているからだった。
ペダルワークだけで、数百トンの巨体を地面に縫い付ける。
逆噴射の咆哮が機内を震わせ、スサノヲを固定するワイヤーが張力の限界を訴えるように軋んだ。
ギギギ、と乾いた悲鳴が響く。
減速Gが容赦なく身体を前方へと叩きつけ、内臓が引きずられるような感覚に視界が揺れる。それでも、速度は確実に削られていった。
「……止まれ……」
パイロットの声が低く漏れる。
祈りではない。ただ押し通す意思だけがこもった声だった。
「止まれ、止まれ……止まれッ!!」
滑走路の終端が目前に迫る。標識が急速に膨れ上がり、残された距離がほとんどないことを突きつけてくる。
そして――
ガガガガガッ!!
機体全体が激しく震えた。
金属が擦れ、軋み、削れる断末魔の音を引きずりながら、それでもなお前進し――
滑走路オーバーランエリア手前、わずか数メートルの位置で。
ついに、完全に停止した。
音が消える。残るのは、焼けたゴムと金属の臭い、そしてキィィィンと尾を引くタービンの残響だけだった。
誰も、すぐには動けない。パイロットは操縦桿を握ったまま、数秒間その姿勢を崩さなかった。血管の浮き出た腕が、わずかに震えている。
やがてゆっくりとバイザーを上げ、背もたれに身体を預けると、深く息を吐いた。
そして――口の端をわずかに吊り上げる。
「……楽園にようこそ! ジャパニーズ」
掠れた声だったが、確かに笑っていた。
「しっかりと観光を楽しんでくれ」
その視線の先、コックピットの窓の外には――朝焼けに染まるパールハーバーが、煙を上げる巨体を静かに見下ろしていた。




